浅田次郎 壬生義士伝 下         (承前)  慶応二年の四月|朔日《ついたち》のことであったと思う。  日付まではっきり覚えておるわけは、その数日前に出張先の芸州から参謀の伊東|甲子太郎《かしたろう》と筆頭監察の篠原|泰之進《たいのしん》が帰り、慰労の宴《うたげ》を催した晩だったからじゃ。宴中、伊東が芸州における諸藩重臣たちとの議論の成果を開陳し、「時節もよし四月朔日、今日を以てわれら憂国の志士は気分も新たに云々《うんぬん》——」などと、鼻白むようなことを言うておった。  伊東はお世辞にも剣客とは言い難いが、一流の論客であったことには疑いようはない。なにしろ鼻白みながらも、奴の弁舌はこうして耳に残っておるのじゃから。  伊東のことは、まあよい。奴との関わりをしゃべって、話を長くしたくはないからの。  ともかく、四月朔日じゃった。もっとも、旧い暦じゃから花などはとうに散った、今でいうなら五月のなかばにあたるころであったと思う。  まるで革衣《かわごろも》を頭から被ったような、生温い、真暗な晩じゃった。島原|角屋《すみや》での宴が引けたあと、何人かの隊士が連れ立って祇園へと流れた。  誰がおったのかな——。  わしと沖田。永倉、原田。そして谷三十郎。ほかに二、三人が一緒じゃったと思うが、吉村はいなかった。  今さら言いわけなどしても始まらぬ。しかしわしはその夜、谷三十郎の始末をつけるつもりなど毛頭なかった。考えてもいなかったと言うてもよい。  祇園に先導したのは三十郎じゃ。奴は介錯に失敗して以来、わしらにひどく気遣っておった。当たり前じゃがの。  折あらば主だった隊士たちと酒を酌み交わし、少しでも溝を埋めようという肚積《はらづも》りがあったのじゃろう。わしがとんでもない介錯の方法を教えたことについては、三十郎もさぞかし恨んでいたであろうが、むろん口に出すはずはなかった。  三十郎の行きつけの茶屋でしたたか飲んだ。その夜の奴は、われらの接待に終始するあまり、あたかも幇間《ほうかん》のごとくであった。  誰もがその立ち居ふるまいに、うんざりとしておったよ。盃が進むうち、わしは居並ぶ面々の視線が、時おり意味深げに向けられていることに気付いた。沖田も永倉も原田も、盃を舐《な》めながらちらりちらりとわしを見るのじゃ。  わしの思いすごしかもしれぬよ。  やがて時の経つうちに、どういうわけか一人また一人と、座敷から消えていった。永倉は明日の巡察に差《さ》し障《さわ》るからと言うて、早々に帰った。原田は厠《かわや》へ行くと席を立ったきり、戻ってこなかった。ほかの連中もいつの間にかいなくなり、気が付けばほの暗い行灯《あんどん》を囲んで、わしと沖田と三十郎だけが飲んでおった。妓《おんな》もおらなかったのは、わしらの常ならぬ空気を察知して、逃げてしもうたのかもしれぬ。  じゃが、その期《ご》に及んでも、わしは三十郎を斬ろうとは思いもしなかった。おそらく虫の居所がよい晩だったのであろう。  酒を飲みながら、沖田はやはりちらりちらりとわしを見た。で、そのうちようやく気付いたのじゃよ。沖田は肚の中でこう言うていた。 (どうする、一《はじめ》君。僕がやろうか。それとも、君がやるか)  わしは三十郎の目を盗んで沖田を睨み返した。 (俺がやるよ)  そう言うたつもりじゃった。  三十郎を斬りたかったのは、わしひとりではあるまい。奴は何とかわしらを懐柔しようとして一席もうけたのじゃが、どっこい誰もそのような手には乗らなかったということじゃ。わしと沖田は、みなからこの美味なる馳走を譲られたことになる。  さて、そうと決まればあとはどのようにして三十郎を誘い出すかじゃ。わしと二人きりでは、三十郎も警戒するであろう。かと言うて、おのれの手並みを沖田に見届けられたくはなかった。  わしはふと妙案を思いつき、しごく改まってこのようなことを言うた。 「いやはや谷先生。拙者はぜひとも先日の一件をそこもとにお詫びせねばなりません。問われたときはとっさに洒落だと思ったのです。ですから拙者もとっさに、洒落を言い返してしまいました。まさか谷先生ともあろう達者が、その洒落を真に受けてしまわれるとは——」  沖田の手前もあるから、三十郎は空とぼけおった。「何の話、ですかな」などと。  かたわらの沖田も、「おいおい、何の話だい」などととぼけておった。  そこで、わしは言うたのじゃ。 「すまんが総司君。拙者はこれから谷先生に折り入って詫びねばならぬことがある。拙者が馴染みにしておる女のところで飲み直そうと思うが、君は席をはずしてくれ」  三十郎は何の疑いも抱くふうがなかった。むしろ願ってもないことじゃとでもいうように、相好を崩しおったよ。 「ああ。例の、石塀小路のおなごだな。あれは天下一品の好い女だ。谷さんもぜひひとめ拝んでくるといい」  沖田の奴、調子をくれおった。そのころわしが石塀小路の休息所に囲っておった女は、沖田も知っていた。気の好いばかりが取柄の、天下一品の醜女《しこめ》じゃったがの。  茶屋を出て、いったん四条の通りに向かい、一力《いちりき》の前で沖田を送った。 「なら、ここで」と、沖田は笑った。実におかしそうな高笑いじゃった。 「沖田先生、お気を付けて帰られよ」  と、三十郎は他人のことを心配しておったな。沖田は立ち去りながら言うた。 「なあに、二人より一人のほうがよっぽど安心です」  すれすれの洒落に、わしはぎょっとさせられた。思わず三十郎の顔色を窺うたよ。じゃが、三十郎のばかたれはまだ気が付かぬ。  沖田を見送ると、わしらはひとけの絶えた真夜中の四条通を、祇園石段下に向かって歩き出した。むろん、わしは三十郎の右側を歩いた。  人斬りにはころあいの、新月の晩であったよ。  朱塗りの随身門《ずいじんもん》を、篝火《かがりび》があかあかと照らし出しておった。その門を抜けて、木々の鬱蒼《うつそう》と生い茂る祇園社の境内をめぐれば、東山安井の石塀小路は近い。  早う休息所に行って、思うさま女を抱きたかった。  虫の居所がよかったせいもあろうが、その夜のわしは三十郎を斬る娯《たの》しみよりも、こんな奴はさっさと片付けて女を抱こうなどと考えておった。  三十郎を斬ることは馳走にはちがいないが、みなからその馳走を譲られたことが、内心は腹立たしかったのかもしれぬ。  石段下の南の角には番所がある。じゃが、奉行所の木《こ》っ端《ぱ》役人など物の数でもないわ。  通りすがったとき、夜詰めの同心が提灯《ちようちん》を持って飛び出してきた。わしらのだんだら染めの隊服を見ると、きょうびの新兵のように直立不動となって、足元が暗いのでこの提灯をお使い下さいと言うた。  わしは「要らぬ」と答えた。そのぶっきらぼうな物言いが、ちとまずかった。  三十郎は、おやと思い付いたようにわしの横顔を見、同心の手から提灯を受け取った。  そのとき奴は、|よもや《ヽヽヽ》と思ったのであろうよ。番所の前を去って石段を登りかけるころには、すでに様子がおかしかった。提灯でおのれの足元を照らしながら、わしとは一間《いつけん》あまりも間を置いていたからな。  そのさきは、ぷっつりと話が絶えたと思う。  随身門をくぐるとき、三十郎はわしに道を譲った。馬鹿な奴よ。歩みのあとさきでおのれの身が守れるとでも思うたか。面と向かえばわしと互角に立ち合えるほどの達者でもあるまい。  門を抜けると、あたりは楠《くすのき》の大樹に蓋《おお》われた闇じゃった。石段が六、七段。それを登ると、左右に一対の狛犬《こまいぬ》。祠《ほこら》の並ぶ参道に沿って常夜《じようや》灯籠《どうろう》がつらなっておったが、蝋燭《ろうそく》はおおかた燃え尽きていた。  三十郎の怯《おび》えきった息づかいが聴こえた。今にも走って逃げ出しそうな気配を感じて、わしは歩きながら言うた。 「谷先生。先日の件は衷心《ちゆうしん》よりお詫びせねばなりませぬ」  その一言で、奴はほうっと息を抜いたようじゃった。よかった、思いすごしだった、とな。  思いすごしであるものか。わしが他人に頭を下げて詫びるなど、あるはずもなかろう。  奴のほっとした顔を、手にした提灯のあかりが照らし上げておったよ。 「いやいや、何も改まってそのような——」  言いかけたなり、奴の顔は紙のごとく真白になった。  せめて抜き合わせる間を与えてやろうと思い、わしはゆっくりと刀の柄《つか》に手をかけたのじゃよ。じゃが、三十郎は棒のようにつっ立ったまま、凍えついておった。  次の瞬間、わしは抜き打ちに胴を払い、ああ、ああと愕《おどろ》くばかりの三十郎の脇をすり抜けた。どうやらおのれが斬られたとは、とっさにはわからなかったらしい。胴の上下《かみしも》がはずれるほどの深手であるのに、奴は提灯を手に持ったまま、血が噴きこぼれる足元を見つめて、ああ、ああと呻いておった。まるで粗相をした子供のようであったな。  往生際が悪いというのは、ああいうことであろう。どうと倒れるはずのものが、いつまでも背を向けてつっ立っておるから、わしは少々気味が悪くなっての。で、左の背から心臓をめがけて、突きを入れた。  とたんにずるりと膝が摧《くだ》けおった。体がわしの刀に吊る下がる格好になり、おかげで刀身が|※[#「金+示+且」]元《はばきもと》から曲がってしもうた。  あっけないものじゃったが、刀が鞘に収まらぬのには少々あわてたな。まさか抜身《ぬきみ》をひっ提げて女の家を訪《おとの》うわけにもいくまい。石段の縁に刀身を添えて踏んづけ、ようやく真直ぐにしてから鞘に収めたものよ。  まあ、飲め。  酒は会津の大銘物、飲むほどに酔うほどに甘くなる。  ああ——石塀小路のおなごというのは、たしかに天下一品の醜女ではあったが、どうしてどうして、なかなか好い女じゃった。  美しいおなごは嫌いじゃ。そもそも人間はみな醜い糞袋じゃからの。他《はた》から美しいといわれ、おのれもまた美しいと信じておるおなごは、鼻持ちならぬ。むろんその妙な自信の分だけ質《たち》も悪い。  じゃからわしは、おなごを買うときもつとめて醜女を選んだ。少なくとも、そうそう客もつかぬほどの醜女ならば、男に尽くしてくれるからの。  石塀小路の女は——ああ、名は何と言うたか、失念した。むりに思い出す要もあるまい。  そやつは気立てのよいおなごじゃった。わしが人を斬ってきた晩には、血の匂いでそうとわかるのであろうか、とりわけよく尽くしてくれたものじゃ。  わしがあの夜、三十郎を真向《まつこう》から斬らずに胴払いをくわしてすり抜けたわけはの、返り血を浴びたくなかったからなのじゃよ。血を浴びたままおなごを抱くのは、不粋であろう。  わしは三十郎を斬ったその足で、何事もなく女の家に行った。  休息所と称して女を囲っておる隊士については、それを所帯と認め、泊まりも許されておった。  ただし朝稽古の始まる時刻までには、屯所に入らねばならぬ。翌《あく》る朝は未明に起き出して家を出たが、まさか祇園社を抜けて四条通を行く気にはなれず、五条橋を渡って西本願寺の屯所に向かった。  果たして、御太鼓楼の門をくぐると、北|集会所《しゆうえしよ》の屯所は上を下への大騒ぎじゃった。わしが到着するほんの少し前に、奉行所の役人が変わり果てた谷三十郎を戸板に乗せて、担ぎこんできたというわけじゃ。  玄関を上がりかけたとき、やはり休息所から出勤してきた永倉に声をかけられた。 「何だ、騒々しい。何かあったのか」  そういう言い方はあるまい、とわしは永倉を睨みつけた。 「谷さんが斬られたとか」 「ほう」  永倉新八は気性の素直な男じゃから、芝居は苦手らしい。せめて大仰に愕くふうをしてもらわねば困る、とわしは思うた。 「どうした、どうした。何があったのだ」  と、永倉は大根役者の棒読みで呼ばわりながら、屯所に入っていった。  はて、ならば下手人のわしはどのように振る舞うべきであろうか、と思うたよ。さしあたっては騒ぎに加わるべきなのじゃろうが、常日ごろからあまりあわてふためくということがないので、それもいささかわざとらしい。かと言うて、落ち着き払っておるのも怪しかろう。  そうこうするうちに、御太鼓楼の門から原田左之助が駆けこんできおった。 「斎藤君、谷先生が何者かに斬られたというのは本当かっ」  これも大根役者じゃった。考えに考えあぐねた末の台詞《せりふ》というふうじゃったな。いくら何でも、「何者かに斬られた」は蛇足じゃろうとわしは思うたよ。  この際、余分なことは考えずに自然体で参ろうと思い、屯所の外廊下を歩いていくと、今度は沖田に行き合った。奴はあんがい役者じゃ。 「やあ、一君。ちょっと困ったことが起きたんだけど、聞いたか」 「谷先生だろう。愕いたな」 「僕と別れて、あれからどうしたんだい」 「休息所でしばらく飲んで、送って行こうと言ったんだが、ひとりで帰ってしまった」  それでよい、というふうに沖田は肯《うなず》いた。わしは自信を持ったよ。もはや三十郎は、わしひとりが斬ったわけではあるまい。幹部一同の総意によって、粛清されたのじゃ。  近藤がどう出るかはわからぬ。じゃが少なくとも土方以下の、三十郎を快く思っていなかった隊士のほとんどは、よしんばわしを疑ったとしても口に出す者はおるまい。隊士たちの総意はすなわち天誅《てんちゆう》じゃと、わしは思うた。  廊下をめぐって内庭に出た。  監察方の篠原泰之進と吉村貫一郎が、亡骸《なきがら》を検分しておった。周囲を隊士たちが遠巻きにしておったが、近藤と土方の姿はなかった。  亡骸のかたわらに蹲《うずくま》っていた近藤周平——三十郎の実弟の谷昌武じゃな。奴はわしの顔を見るなり顔色を変えて立ち上がった。脇差を抜いてわしに斬りかからんとするのを、吉村が背中から抱き止めた。 「ひとごろしっ」と周平は金切声を上げた。  それまでのいきさつから、周平はわしを下手人と決めてかかっておったのじゃ。間違いではないがの。 「斎藤先生、少々お訊ねしたいことがあります。よろしいですか」  吉村はあのふしぎなくらい澄んだ目でわしをじっと見据え、穏やかな声でそう言うた。  ひとごろし、ひとごろし、と狂うたように叫びながら、周平は吉村に脇差を奪われると、膝をついて悔し泣きに泣き始めた。 「拙者をつかまえてひとごろしとは、笑止千万じゃな」  と、わしは縁側から見くだして言うた。 「そこもとはいっさい関わりない、という意味でござるかな、斎藤先生」  亡骸を検分しながら、篠原泰之進が顔も上げずに言うた。隊士の中でも年嵩《としかさ》の篠原は伊東甲子太郎の腹心じゃ。監察方にはまさに適役の、生真面目な男じゃった。いったいに新選組の諸士監察役というのは、みな腕もたったが、何よりも間違ったことの嫌いな堅物が選ばれていたように思う。  わしは嘘をつきたくなかった。持って生まれた気性での、肚《はら》は据わっておるから大嘘で他人を欺くことはできるが、細かな嘘は嫌いなのじゃよ。 「関わりがないと言うておるわけではない。ひとごろしは拙者の御役目じゃ。面と向かってそう呼ばれたのでは、身も蓋もあるまいよ」  ぐいと睨みつけると、いまいちど「ひとごろし」と言いかけたなり、周平は泣き止んだ。  泣く子も黙ると言えば、いささか自慢になるかの。じゃがあのころのわしには、たしかにそれくらいの威迫はあったと思う。  脅しではないよ。わしはいついかなるときでも、人を斬る心構えはできておった。 「天下の御役目をひとごろし呼ばわりする者は許さぬ」  そう言うてあたりを睨み渡すと、内庭に寄り集うていた隊士たちはみな後ずさり、ひとりまたひとりと立ち去ってしまった。しまいには篠原さえも、周平を抱きかかえるようにしていなくなってしまった。  曇り空から、雨の匂いのする湿った風の吹きおろす朝じゃった。砂利を敷きつめた内庭に残ったのは、わしと吉村貫一郎と、谷三十郎の亡骸だけになった。  わしは下駄を履いて庭に下りた。 「話を聞こう」  むろん、余計な口はきくなと言うたつもりじゃった。その意が通じなかったのか、通じてはいても怯《ひる》まなかったのか、ともかくそのとき吉村はふしぎなくらい澄んだ目で、わしに真直ぐ向き合った。 「昨夜のいきさつは、島原から祇園へと流れた方々からお聞きしました。亡骸を届けに参った石段下の番所の者からも」 「石塀小路の休息所に行ったのだ」 「とすると、谷先生はその帰途、災難に遭われたというわけですか」 「わかっておるなら訊くまでもなかろう」  吉村は亡骸に屈みこんで、藁筵《わらむしろ》をめくり上げた。 「ご覧の通り、みごとな胴払いです。これほどの抜き胴を遣う手練《てだれ》は、そうそうおりますまい。それと、もうひとつ——」  吉村が亡骸の上半身をごろりと裏返しても、腰から下は上を向いたままじゃった。向こう腹ひとつを残した胴払いとは、われながらみごとなものじゃったな。 「左の背から心の臓を一突きです。篠原さんは下手人が二人いると検分なされましたが——」 「ほう。拙者と総司君の二人がかりというわけか」 「いや、そこまでは申しておりませぬ。しかし拙者が思うには、相手は一人」  わしを見上げて、吉村はにっこりと笑いおった。奴の笑顔は、時として怖ろしいものに見えた。 「胴を抜いてから、頽《くずお》れるより先にとどめの突きを入れたと見ました」 「ずいぶんと器用なものじゃな」 「古来、左利きは器用だと言われております」  さすがのわしも、顔色が変わったのではなかろうか。まるで見ていたようなことを言われたのじゃからな。 「下手人は左利き、と申すか」 「はい。谷先生はこの通り左胴を抜かれております。手前が逆であれば、こうもみごとには斬れますまい。もひとつ、下手人が一人であると拙者が信ずるわけは、背後からのお突きも左利きと思えるからです」 「何を、いいかげんな——」  ふつうの利き手ならば、左胴を深く抜くことは至難じゃ。刃が逆手に倒れるうえに、相手の左腰には鞘と脇差とが胴を守る形に差してある。つまり実戦ではまず起こりえぬ左胴抜きをくらっておるのだから、下手人がわしであると考えるのは、まあ道理じゃな。  じゃが、背中の突き傷までわしの手によるものじゃと、なぜわかる。わしが胴を払い、沖田がとどめの突きを入れたと考えるほうが妥当であろうよ。おそらく、篠原はむろんのこと、永倉も原田もそう考えていたと思う。三十郎とともに祇園の茶屋に居残ったのは、わしと沖田の二人であったしな。 「いいかげんな想像ではござらぬ」  吉村は亡骸の着物の片肌を脱がせると、痩せ刀を抜いて、傷口に切先を向けた。 「突きを入れるときは、刃を横に倒します。このように」  それは近藤勇の教えじゃった。刀の身幅は肋《あばら》の隙間よりも広いので、刃を立てて突けば骨を削ってしまう。刃を倒して突けば、肋の間にすうっと深く入るのじゃ。  吉村はまず右手で柄を握って、刃を内側に倒した。右利きならばそれが順手となる。 「傷が、合いませぬ」  なるほど、三十郎の背中の傷とは刃と棟の厚みが逆になった。  吉村は刀を左手に持ちかえ、刃を内側に倒した。当然のごとく右利きの逆手は左利きの順手となる。傷口はぴたりと合った。 「それにしても、みごとなお手並みにございますな。あざやかというほかはない」  吉村は刀を収めると、弁明もなく佇むわしに向き合った。わしの目の前に立っておるのは、見るだに精彩を欠いた、貧相な田舎侍にちがいなかった。  一冬を着通した麻の単衣羽織には、おのれの手で袷《あわせ》に縫った裏地が、綻《ほころ》びたままにまだ付けられておった。刀の鞘はところどころ漆《うるし》が剥がれ落ちており、緩んだ柄巻《つかまき》には麻紐が巻かれていた。 「新選組の二枚看板がともに処断されるということはありますまい。しかし、斎藤先生お一人の仕業となれば、近藤先生もあるいは」  わしはおのれの浅慮を悔やんだ。まさしく吉村の言う通りじゃと思うた。何かを言わねばならぬと思うそばから、言葉は咽《のど》にからみついて声にはならなかった。  自由|気儘《きまま》に、かつ天衣無縫に生きてきたわしを、まるで悪戯っ子のように立ちすくませてしまうこやつは何者だ。 「篠原君には伝えたか」  と、わしはようやく言うた。 「いえ。篠原さんは斎藤、沖田両先生の仕業と決めてかかっているようです。拙者の検分は誰にも口にしてはおりませぬ」  それから奴は、縹《はなだ》色に曇った空を見上げて、ぽつりと言うた。 「拙者を、お斬りになりますか」 「いや」と、わしはにべもなく答えた。なぜであろう。かねがね斬り殺したいと思うていた吉村貫一郎に対する憎しみが、すっかり萎《な》えてしまったのじゃよ。  奴の横顔は、たいそう悲しげじゃった。決してわしを憎んでいるふうはなかった。奴はまるで、わしの寄るべない魔物の心を労《いたわ》りでもするかのように、ひどく悲しい顔をしたのじゃ。  おなごのように長い睫毛《まつげ》をしばたたかせながら、吉村は足元に目を落とし、いきなり意想外のことを呟いた。 「ならば斎藤先生、わしに銭こば下んせ」  とな。  耳を疑うたよ。少なくとも真摯《しんし》な侍であると、わしは思うていたからの。  むらむらと腹は立った。じゃが、奴の横顔を睨みつけておるうちに、怒りも鎮《しず》まってしもうた。卑しい言葉を口にしたとたん、奴は口中に残った毒を噛み潰すかのようにきつく目をつむり、唇を引き結んだのじゃ。眦《まなじり》には涙すらうかべておった。  奴は意に添わぬつらい言葉を吐いたのじゃろう。  今さら吉村を弁護しても始まらぬ。むろん今も、憎い男であることに変わりはない。ただわしが言えるのは、あの吉村貫一郎という侍は決して本性からの守銭奴《しゆせんど》ではなかった。銭のためなら何でもするという類《たぐ》いの、卑しい侍ではなかった。  それから何と言うたか——申しわけない、というようなことを、きつい南部|訛《なまり》で何度もくり返し、わしに向かって頭を下げた。  何じゃ、その顔は。  ははあ——貴公、まだ吉村貫一郎の人格が掴めずにおるのだな。あるいはわしの話で、余計にわからなくなったか。  貴公も人間という商売、男という仕事をもう少し続ければわかる。こと志に反し、万《ばん》やむをえず不実を口にするつらさは、貴公の若さではまだわかりはすまい。  思えばそのころの奴は、新選組に雇われてから一年、さほどの実入りもなかったのであろう。わしの罪をあばいたところで褒美にはありつけぬ。ならば下手人のわしを強請《ゆす》って、いくばくかの銭をせしめようと考えたのであろうよ。  奴の人柄から察するに、それは人を斬るよりもつらいことであったろうと思う。  わかったような顔をするな。奴の正体をあばこうとするには、貴公はまだまだ苦労が足らぬ。  わしがその日のうちに十両の銭を奴に渡したのは、むろん奴のつらい心根を察したからではない。ましてや罪を怖れたからでもない。  面倒臭かっただけじゃ。  はて、三十郎殺しの結末はいったいどのようになったのじゃろう。  近藤や土方から詮議をされたという記憶はない。とすると、沖田がうまく立ち回ってくれたということか。  もっとも、ことの発端はそもそも近藤のえこ贔屓《ひいき》なのだから、土方以下は誰もこの粛清に異論はなかったのじゃろう。おそらく日ごろの傍若無人のふるまいに加えて、介錯失敗という士道不覚悟、近藤がいかにかばいだてしたところで、沖田や斎藤が黙っているはずはないと、誰もが了簡したのであろうよ。つまり、天誅だったのじゃな。  弟の谷万太郎と昌武か。  そんなもの、怖くも何ともないわ。いかに兄の仇とはいえ、相手がわしや沖田では話にもなるまい。万太郎は大坂に籠ったきり京の屯所には姿も見せなくなり、昌武はほどなく養子縁組を水にされて、どこかに消えてしもうた。風のたよりに聞くところでは、ともに御一新を生き永らえ、昌武は山陽鉄道に先ごろまで勤めておったそうじゃ。  兄が健在であれば、兄弟ともども枕を並べて討死したであろうに、そう思えばわしは仇どころか命の恩人であろうよ。  いまひとつ思い出したことがある。つまらぬ後日|譚《たん》じゃが、まあ聞け。  騒動もうやむやのうちに迷宮入りとなった夏の盛りじゃった。四条河原町の刀屋にかねてより注文していた助広が手に入っての、それはそれはたいそうな代金じゃったが、ともあれ有り金をはたいたうえ近藤に無心までして購《あがの》うた。  津田越前守助広の名前ぐらいは、貴公も知っておろう。大坂新刀中、随一の名人じゃよ。  わしはその日、拵《こしら》えが仕上がったばかりの助広を差して壬生に行った。かつて屯所であった八木家のご当主は稀代《きたい》の目利きでの、つまりは意気揚々と見せびらかしに行ったというわけじゃ。  さよう、八木源之丞という御方じゃ。以前世話になっておったころ、わしは源之丞の所有にかかるみごとな助広を熱望したことがあった。じゃが、たとい千金を積まれてもこの刀だけは譲れぬと拒まれた。  その助広がついにわしの手にも入ったのじゃから、意気揚々と出掛けたわけじゃな。  壬生寺の境内で、吉村が近在の子供らと遊んでいた。地面に屈みこんで、手習いをしていたような気もする。わしが門前を通りかかると、子供のひとりが「鬼や、鬼が来よった」と言うて指さした。むろんふざけ半分であろうが、子供らは口々に「鬼や鬼や」と叫びながら、吉村の背の後ろに隠れてしまった。  おおかた親たちがそう教えていたのであろう。斎藤という人は、実は人間ではない、鬼じゃとな。  こらこらと子供らをやさしく叱りつけ、吉村は腰手拭で汗を拭いながら寄ってきた。 「助広が手に入った。これより八木家のご当主にお見せするが、貴公も参るか」 「ええっ、津田助広ですか」と、吉村はわしの腰に目を瞠《みは》った。 「ぜひとも拝見したいが……やめておきましょう。拙者には目の毒です」  溜息をついて、吉村は子供らの輪の中に戻っていった。あの淋しげな後ろ姿は忘られぬ。奴は日ざかりの陽の中に再び屈みこんで、子供らを相手に手習いを始めた。  なぜかその場を立ち去りがたく、門前に佇むわしを、吉村はちらりちらりと遠目に見ていた。  髪結にも行かずに切りつめた暮らしをしているのであろう。月代《さかやき》が伸びて、|百日 鬘《ひやくにちかづら》を冠ったような顔であった。吉村は眩《まばゆ》げに、わしを見つめておった。  今も油蝉の鳴く日ざかりの午後など、あの貧相な姿が思い出されてならぬ。あのときわしは胸の中で、なぜじゃ、と問いかけた。そして今も吉村の姿を思い起こすたび、同じ問いをする。なぜじゃ、吉村、とな。  八木家のご当主は、わしを可愛がってくれた。心の広い人物と言うてしまえばそれまでじゃが、源之丞という人はわしを実の倅のように思うていてくれたような気がする。  青々とした田圃の先に、二条城の見える座敷であった。ひとしきり助広を賞《め》でたのち、源之丞はふくよかな顔をほころばせて、わしの顔に見入った。 「斎藤先生。あんた、だんだら染めの羽織を着て、そないにきちんとしてはると、忠臣蔵の堀部安兵衛に似たはりますな」  なぜかその言葉は応《こた》えた。胸苦しくなるほどにな。 「ほんまやな。見てきたわけやあらしまへんけど、堀部安兵衛やわ、ほんまに」  しみじみとした物言いに、わしはうなだれてしまった。人斬りは同じことだが、少なくともわしは義士ではない。 「せんにご所望をお断わりしましたのんはな、失礼ながら斎藤先生に助広は、まだ早い思うたからですのんや。せやけど、立派なお仕事しやはって、助広のほうから寄って来よりましたんですなあ。名刀いうのんは、そないなものです」  ちがう、とわしは思うた。  名刀に人を選ぶ力があるのなら、なにゆえあの男は、いつまでも無銘の痩せ刀を差しておるのじゃ、とな。  青田を渡って吹きくる風に耳を澄ませば、子供らと遊ぶ吉村の声が聴こえた。わしは顎を振って、独りごつようにようやく言うた。 「拙者は義士ではござらぬ。堀部安兵衛ではござらぬ」  土方歳三から厄介な相談を持ちかけられたのは、慶応三年の花の宵のことであった。  奴はまったく無駄な動きをせぬ男じゃった。抜け目がないという評価は中《あた》らぬ。言うことなすこと、すべてに何らかの意味のある男じゃった。おのれの資質を見誤って侍になろうなどと考えたがために、ずいぶんと苦労をしてしもうたが、商人になっておればひとかどの人物になりえたであろう。  思慮深いうえに、まめな性格で、何よりも他人の心を忖度《そんたく》することができた。もし商売の道を志していたならば、今ごろは家伝の石田散薬も、仁丹や征露丸のごとき万人の常備薬になっていたであろうよ。  すなわち、土方が飲みに誘うなどというのは、だいたいろくな話ではない。ひと通り酒の回ったところで妓《おんな》どもを下がらせ、「ところで、斎藤君」と、切り出すわけだ。  ろくでもない話とは言うても、たかがひとごろしじゃからの。わしとて嫌いではなし、さほど頭を痛めたということはなかった。  しかし、その夜の相談事はいかにも厄介じゃった。  近々、参謀の伊東甲子太郎以下十数名の隊士が、孝明天皇の御陵を守護するという名目で、新選組と別れることとなった。  ふむ。その噂は拙者も知っている。それがどうした。  名目はともかくとして、伊東の真意がわからぬ。ましてや伊東は入隊以来しばしば全国を行脚《あんぎや》し、諸藩のわけもわからぬ者たちと気脈を通じている。ことに薩摩とは近しい。そこで、君は同志を装って伊東一派に潜入し、間者を務めてもらいたい。  と、そのようなことをわしに持ちかけたわけじゃ。即座にわしは答えた—— 「間者ならば監察方の御役目ではござらぬか。拙者のごとき剣術のほかには何の取柄もない者に、そのような御役は務まり申さぬ」 「おいおい、考えてもみてくれ。日ごろから間者の御役目をしている調役監察の連中が、奴らに同調したところで疑われるに決まっているだろう。ましてや向こうには筆頭監察の篠原泰之進がいるんだぜ」  なるほど、その通りじゃな。はてどう言うて断るべきかと考えあぐねておるうちに、土方は断わりきれぬような事情を、とうとうと述べ始めた。 「伊東さんはな、永倉か斎藤のどちらかをよこせと言いやがる。つまり新選組の別働隊として、禁裏やら、公家と親しい薩藩の内情を探るという目的があるのだから、それなりの戦力が備わっていなければ困る。しかも世間には、近藤勇と袂《たもと》を分かった尊皇の志士と思わせるわけだから、試衛館以来の幹部がいたほうが都合がいいというわけさ」  さよう。話はきわめて複雑怪奇じゃ。伊東のどれが実でどれが虚であるか、さすがの土方も判断しかねているふうじゃったな。 「ちと話がおかしくはござらぬか。試衛館以来の誰かというなら、伊東一派にはすでに藤堂がいるではありませぬか」 「そのうえにもう一人ってえわけさ。つまり伊東が言うには、藤堂はもともと伊東の門弟で、新選組との橋渡しをした。他の連中はあらまし、伊東が江戸から連れてきた。これじゃ誰が見たって、近藤と伊東との仲たがいじゃねえか。だから、沖田とまでは言わねえが、永倉か斎藤をこっちによこせってわけさ」  永倉はどうか知らぬが、わしは伊東甲子太郎と格別親しくしていた覚えはなく、むろん分派するにあたっては一言の誘いもなかった。  戦力が欲しいというのは本音であったろうよ。沖田を別にすれば、わしと永倉。このどちらかは咽から手が出るほど欲しかったはずじゃ。  しかし、二人とも安く踏まれたものじゃの。いったん引き入れてしまえば、伊東はわれらを手下とするだけの自信があったのだろうか。  甘いというほかはない。たしかに永倉は気性のまっすぐな人物で、近藤や土方とは反《そ》りの合わぬことがしばしばあった。わしはわしで、近藤、土方が持て余す偏屈者よ。どうせしっくりとはいっていないのだから、どちらか一人と言えば近藤は厄介払いのようなつもりでよこすじゃろうと、高をくくっていたにちがいない。  たしかにわしらは、一見してそのように見えたであろうよ。わしと永倉の間ですら、互いによくは思うていなかった。じゃが、わしらには剣という絆《きずな》があった。近藤、土方、沖田、永倉、わし。すなわち局長から三番隊長に至る新選組の序列は不動のものじゃ。この序列をきっかりと結んでおったのは、われらが存在のすべてであるところの、剣という絆じゃ。参謀の伊東などという侍はの、この緊密なる絆にたまさか結びつけられた、飾り紐のようなものじゃった。 「そういうことでしたら、永倉さんのほうが適役ではありますまいか」  と、わしは逃れたい一心から言うた。土方は笑うたよ。なにゆえ笑うたかは、これまでの話でもわかるじゃろう。あの大根役者に間者など務まるはずはない。へたをすれば、物事を杓子定規に考える永倉新八のことじゃ、たちまち伊東の弁舌に籠絡されて、本当に戦力となってしまわんとも限らぬ。 「なあ、頼むぜ斎藤君。この大役はどう考えたって君にしか務まらねえ。伊東に悪意がないとわかればすぐに戻してもらう。そうじゃねえってときに、うまく立ち回れるだけの腕と肝《きも》のある奴は、君しかいねえんだ」  さきにわしが土方を評して、「他人の心を忖度できる」と言うたが、それは仁者という意味ではない。他人の立場や性格を忖度して、思うがままに操ることのできる人間、というほどの意味じゃな。かえすがえすも、奴は商人となるべきであった。  おそらく伊東は、わしや永倉を満足に物を考えることすらできぬ武骨者と思うていたのじゃろう。わしや永倉ならば、簡単に飼い慣らすことができるであろう、とな。奴は才子にはちがいないが、譬《たと》えのごとく才子が才に溺《おぼ》れたというわけじゃ。結局、わしを甘く見たことが奴の命取りになった。  貴公も、この点はよく肝に銘じておけよ。おそらくは立派な教育を受けた学士様であろうがの、才などというものは命のやり取りになれば何の力もない。にもかかわらず、才子を以て任ずる者は、とかく他人を軽んずる。頭脳のよしあし、学問のあるなしなどということは、紙一重の才にしか過ぎぬ。しかし、技や力はちがうぞ。強い者は勝つ。  伊東は土方をたばかったつもりでいたのであろうが、役者としては土方のほうが一枚上手じゃった。土方は草莽《そうもう》の出自であるから、自らがひとかどの才人ではあっても、才の無力というものをよく知っておった。 「ことさら面従腹背する必要はねえよ。地のまんまの君で十分だ」  ははっ、まったくあの土方歳三という男は、観察眼に長《た》けておったな。地のまんまのわしというのはつまり、無口で無表情で、偏屈者ということじゃ。頭で考えずに体で考える、武骨者じゃよ。ところがその実は、あんがい常に物を考えており、決して馬鹿ではなく、何よりも肚《はら》が据わっておる。土方はわしを知りつくしておった。  土方は内心、伊東の小才を嗤《あざわら》っていたにちがいない。  そのさきの話はやめておこう。ともかくわしは、伊東一派の動きを逐一土方に報告し、御陵衛士《ごりようえじ》と呼ばれた一党を破滅に導いた。  毎日が得も言われぬ快感じゃったな。剣で命を奪うのではなく、謀事によって他人を破滅へと追いやる快感を、わしは初めて知った。  伊東を亡きものにするのであれば、わしが寝首をかけばよかった。いや、たとい尋常の立ち合いであっても、わしは奴らを皆殺しにできたと思う。酒が足らずに、うつうつと寝つけぬ夜など、高台寺月真院の庫裏《くり》を地獄絵に変えてやろうと思うたこともある。思いとどまって眠りにつきながら、わしも大人になったものじゃ、などと思うたものよ。  御陵衛士の残党どもは、御一新のあともわしを仇として、ずいぶん探し回ったらしい。  探してどうする。あっぱれ仇討ちを果たすつもりか。笑止じゃわい。あのような者ども、寝こみを襲われようが背中から斬りかけてこようが、ひとり残らず返り討ちにしてくれるわ。  決して言い過ぎではないぞ。その証拠にわしは、百の命を奪い千の恨みを買うても、こうして大正の新時代まで生き永らえておるではないか。  強い者は死なぬのよ。  雪の日のこと、か——。  池田の小倅め、そのように些細なことを、よくもまあ覚えておったの。  さよう。わしはあの日、間者としての務めをおえて屯所に舞い戻った。伊東らに合流したのが旧暦の三月、戻ったのが十一月であったから、ずいぶんと長いこと御役目を務めていたものじゃな。わしはその間、毛ばかりも疑われてはおらなんだよ。  わしが不機嫌そうじゃった、とな。  はて、どうであったろうか。もっとも不機嫌はいつものことで、仏頂面はこの通り、わしの地顔じゃ。  ただ、ひどく疲れておったのはたしかじゃ。足掛け九カ月もの間、わしと土方とは一度も会わず、連絡はすべて文書であった。連絡役はわしが石塀小路に囲っておった、例のおなごよ。御陵衛士が屯所にしておった高台寺の月真院と石塀小路とは、ほんの目と鼻の先じゃがの、そのおなごは妙に肚の据わった奴で、命がけの務めを十分に果たしてくれた。  土方からの最後の書状を読みおえたとき、わしは女に別れを告げた。 「御役目は終わった。あす屯所に戻る」  とな。  伊東は斬られる。御陵衛士の者どもも、おおかたは始末される。じゃが、一人残らず根絶やしにすることはできまい。わしの使命が知られるところとなれば、残党どもや、伊東に肩入れしておった薩摩は、わしを憎むじゃろう。縁を絶っておれば、女に危害が及ぶこともあるまいとわしは思うたのじゃ。むろん、女も命は惜しかろう。 「金輪際、わしと会うてはならぬ。もし誰かに訊かれたら、斎藤は突然姿をくらましたまま何の便りもありませぬ、と言うて泣け」  わしはそう言うて、女に有り金を残さず渡した。 「こないなもん、いりません」と、女は巾着を押し返した。 「おっしゃることは、ようわかりました。せやけど、お金はいりません。そのかわり言うては何どすけど、今夜はたんと可愛がって下さい」  思えば、気丈なおなごであったな。さすがのわしも、その潔《いさぎよ》さには後ろ髪を引かれる思いじゃったよ。  もし池田の小倅が、屯所に戻ったわしをそれほど怖れたのだとしたら、不機嫌に見えた原因は、その女のことであったろうな。  わからぬか。わしは、わかるように語らねばならぬのか。  致し方ない。ならばわかるように語ろう。  わしに心ゆくまで抱かれた雪の朝、石塀小路のおなごは坪庭の槙《まき》の木に首を絞《くく》って死んでいたのよ。  別れの言葉もなく、書き置きの一筆すらなく、わしの買うてやった簪《かんざし》を結い上げた髪に差して、女は死んでおった。  名は、失念した。  新選組はわしを下にも置かぬ扱いで迎えた。  近藤も土方も、まさかわしがこれほどまでに間者としての役目を果たしおえるとは思ってもいなかったのじゃろう。  伊東は薩摩と深く気脈を通じており、いずれ遠からず近藤、土方を亡き者として、新選組を勤皇倒幕の先兵にするべく画策しておったのじゃ。  その策謀のすべてが、わしを通じて新選組にもたらされた。  新選組は幕臣であり、守護職会津公の御預りじゃ。いかな御陵衛士とはいえ、この策謀は万死に値する罪であろう。伊東とその一味を誅すべきたしかな理由を、近藤勇はわしを通じて手に入れたというわけよ。こうなれば、誰にも文句は言わせぬ。公家どもも薩摩も、何も言えぬ。  その夜、屯所の廊下にわしの帰営を告げる貼紙が出た。 「副長助勤斎藤一氏公用を以て旅行中の処、本日帰隊、従前通り勤務の事」  ずいぶん簡単なものじゃと、わしは思うた。御役目のためにわしが喪《うしの》うたもの——おなごのことばかりではないぞ。わしが喪うたものは、それこそ計り知れなかった。  うんざりと告示を見て自室に帰りかけると、吉村に出会うた。奴は深々と頭を下げ、たしかこのようなことを言うた。 「さぞかし辛い御役目でござりましたろう。労《ねぎら》う言葉も思いつきませぬ。ご苦労様でした」  本音を申すとな、わしはそのとき、有難いと思うた。こやつだけは、言うに尽くせぬわしの苦労をわかってくれた、とな。 「労いの言葉など要らぬわ。どけ」  たったひとりだけ、わしの勇を讃《たた》えずにわしの労苦をしのんでくれた男じゃった。なにゆえわしは、奴にばかり辛く当たったのじゃろう。奴に対して、素直になれなかったのじゃろう。  自室に戻って、おのれを責めたよ。この世に、他人の気持ちを常に斟酌《しんしやく》する仁者というものが本当にいるとしたら、それはあの吉村貫一郎のことではあるまいかと思うた。  善なる者を忌み嫌うはわしの本性じゃが、それはそれとしても、仁なる者をゆえなく侮蔑するわしは、ただの卑怯者なのではあるまいかと思うた。  あの悪い時代にも、善なる者はいくらでもいた。しかし、仁なる者は他に知らなかった。  思いつめるほどに、わしは自分が——斎藤一という名の侍が、いやでいやでたまらなくなった。それで、ふと思い立つと近藤の部屋を訪ねたのじゃ。  折しも近藤と土方は、差し向かいで一献かたむけながら、わしの噂をしておった。 「おお、斎藤。いま君を呼びに行こうと思っていたところだ。いや、ご苦労、ご苦労」  近藤は喜色満面でわしを手招いた。挨拶を述ぶるでもなく、盃を受くるでもなく、わしがそのとき何と言うたと思う。 「副長助勤斎藤一は死に申した。その名前は二度と口にして下さいますな」  その夜からわしは、山口二郎と名を変えて生きることになった。  復讐を怖れたからではない。わしは生まれ変わりたかったのじゃ。  翌《あく》る日、わしは紀州藩公用人の三浦という侍のもとに預けられた。伊東が油小路で斬られたのは数日後、仏を引き取りにきた御陵衛士の者どもが罠にかかった顛末は、すでに聞いておろう。  わしを信じた者たちが、わしの剣を恃《たの》みとした者たちが往生したさまを、伝え聞いたわしの気持ちは誰にもわかりはすまい。  匿《かくま》われていた公用人の屋敷の奥座敷での、わしは柄に似合わぬ般若心経を唱えた。わしが斬ったのではなく、わしのせいで死んだ多くの人々のためにな。  経文を唱える唇が凍るほどの、寒い晩であった。  そう言えば、わしをいっとき匿《かくも》うてくれていた紀州藩公用人の三浦という男——これがまた人騒がせな奴じゃった。  先年死によったゆえ、もう話してもよかろう。御一新ののちはみごとに世を渡って、貴族院議員やら東京府知事などを歴任し、しまいには宮中顧問官にまで出世した三浦|安《やすし》男爵のことじゃよ。当時、名は休太郎《きゆうたろう》というた。妙ちくりんな名前じゃが、名に似合わずまめな侍じゃったな。  もとは伊予西条藩の者であったが江戸に出て昌平黌《しようへいこう》に学び、やがて御三家紀州藩の公用人に収まった。さしずめ今の世でいうなら帝大出の高等文官であろうかの。  例によって近藤勇はこの手合いに弱い。昌平黌出身の紀州藩士などといえば、それだけで尊敬してしまう。  三浦は紀州藩の京藩邸で家老職のような御役を務めておった。新選組が醒《さめ》ヶ井《い》の屯所に移ったのち、それまで使うておった西本願寺の屯所が紀州藩の本陣になったほどだから、近藤と三浦はよほど気脈を通じておったのじゃろう。齢は近藤よりいくつか上の、そのころは四十の手前じゃったろうか。  御陵衛士どもを罠に陥れたあと、わしはしばらくこの三浦休太郎に匿われておったのじゃが、その実はわしが三浦の用心棒を務めておったとも言える。おたがい命を狙われる者どうし、持ちつ持たれつ、というところか。  紀州藩の紋所はわしが身を隠すには持ってこいじゃ。そして、頭は切れるが腕っぷしはからきしの三浦にとって、わしは頼りがいのある用心棒であったというわけよ。  今にして思えば、笑い話じゃな。この二人の関係をもう少し語れば、誰もが笑うぞ。  三浦休太郎には龍馬殺しの重大な嫌疑がかかっておったのよ。むろん本人が直接に手を下したのではなく、三浦が新選組を使うて龍馬を斬ったのだと、土佐の連中は決めてかかっていた。  三浦には疑われても仕様のない動機があった。かつて紀州藩の船と海援隊の船とが衝突事故を起こしての、沈没してしもうた船の賠償金を、龍馬が持ち前のごり押しで紀州藩に請求したのじゃ。三浦もつねづねこぼしておったが、どうやらその賠償金がなまなかなものではなかったらしい。海の上の事故とて詳しい顛末はわからぬ。しかし衝突すれば小さな船のほうが沈むのは道理じゃろう。だのに龍馬はあの立て板に水の弁舌とたくましき商魂とで、一方的な談判をし、法外な金を紀州藩からむしり取った。三浦はその一件をひどく根に持っており、誰彼かまわず「龍馬は武士の風上にも置けぬ。このままではすまさん」と憤慨しておった。近藤との親しさも相俟《あいま》って、龍馬殺しの黒幕と思われても致し方ないわな。  しかもまずいことに、海援隊には紀州を脱藩した陸奥《むつ》陽之助がおった。のちの外務大臣、陸奥宗光伯爵じゃよ。  陸奥は紀州藩の勘定奉行を務めた八百石の家柄じゃが、ゆえあって没落し、倅の陽之助は逐電して勤皇運動に挺身していた。つまり三浦と陸奥はともに紀州家の臣でありながら、かたや新規召し抱えの家老職、こなた没落した旧家の倅というわけで、仲のよかろうはずはない。龍馬殺しの黒幕は三浦にちがいないと、陸奥は土佐藩をあおり立てたのであろうよ。  むろん、濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》じゃよ。他でもないわしが言うのじゃから、まちがいはあるまい。  どうじゃ、笑い話であろう。陸奥はじめ海援隊や土佐藩士は三浦を下手人と信じて命を狙う。一方、わしは御陵衛士や薩摩藩の恨みを買うて、三浦のもとに匿われた。ことのなりゆき上、わしは三浦の用心棒を務めねばならなかった。 「斎藤君。拙者は龍馬を憎みこそすれ、闇討ちにするような卑怯者ではない。わかって下され」  などと、三浦はしきりに自己弁護をくり返す。 「わかっております。そのようにくどくどとくり返さずとも、拙者にはよくわかっております」  と、わしは自分でも可笑《おか》しくなりながら答えたものじゃよ。たしかに、わしだけはよくわかっておった。  油小路の騒動からしばらくたった、師走のかかりのことであったと思う。  新選組の隊士が十人ばかりも、三浦の宿舎としていた天満屋《てんまや》という旅籠《はたご》に居ついて警護をしておったのよ。三浦の周辺には相変わらず土佐の連中がうろうろしており、奴は神経衰弱にかかっておった。そこで、三浦から泣きを入れられた近藤が、「紀州藩公用人の御身は、われらがお守り申す」と大見得を切り、えりすぐりの十名ばかりを張りつけておったというわけじゃ。わし、土方、原田、永倉、人斬りの異名をとった大石鍬次郎などもおったな。さよう——吉村貫一郎も、そのうちの一人であった。  昌平黌出身の選良など、いざ命のかかる段になると情けないものじゃ。なかばは近藤の見栄じゃが、あれほど贅沢な警護はこの世になかろう。よしんば閻魔《えんま》大王が命を取りにきたところで、そうそう勝手にはなるまい。  梯子段の下には夜詰めの隊士が三人。二階の座敷では紀州藩士のほかに、土方以下の六、七人が三浦を囲んでいた。それでも三浦は、「濡れ衣じゃ、濡れ衣じゃ」と呟きながら、掻巻《かいまき》を被り刀を抱えて、瘧《おこり》のように震えておるのよ。  その臆病な姿を見るうちに、いかにお務めとはいえわしらは馬鹿らしうなっての、茶屋にでも上がったつもりで、ぐいぐいと酒を飲み始めたのよ。  飲むほどに体がほてって、着込《きごみ》が暑苦しくなってきた。吉村のすすめで着込んだ鎖帷子《くさりかたびら》じゃったが、どうとも重くてかなわぬ。脱いでしまおうと手甲《てつこう》に結びつけた紐をほどこうとしても、あの几帳面な吉村が指の付け根に固く結んだものだから容易にとけぬ。 「まったく、吉村のすることはいちいち面倒くさい。貴公は要領というものを知らんのか」  などと往生しておるうちに、突然梯子段を駆け昇ってきた者がおる。やおら仁王立ちに立って三浦を睨みつけ、「おのれっ、三浦」と抜きがけの刀でつっかかってきた。  警護の者が多すぎるうえに、誰かが灯りを吹き消してしまったから始末が悪い。雨戸は閉《た》てきってあるし、座敷は鼻をつままれてもわからぬ真の闇じゃ。梯子段の下からは、敵だか味方だかわからぬ者が次々と上がってくる。とりあえず刀は抜いたものの、誰が誰だかわからぬ闇の中では突くも振るもできぬ。ただみんなして、押し合いへし合いしておるような騒ぎになった。  あのような騒動は後にも先にも一度きりじゃ。正直の上に馬鹿のつく永倉新八の声が、まことに奴らしい馬鹿なことを言うた。 「何が何だかわからぬ、おのおの声を上げよ」  とたんに敵味方がわあわあと声を上げたので、それまでわずかな声に頼っていたものがまったくわけもわからなくなってしもうた。  背中からいきなり首を絞められたので、こやつは刺客にちがいないと思い、足を払ってどうと組み伏せ、とどめを刺そうとした。するとすんでのところで、「俺だ、俺だ」と土方の声。扶《たす》け起こすと今度は真向から手槍がくり出される。どう考えても原田の槍だ。そうかと思えば背中合わせにのそりと見知らぬ侍が立っている、という具合じゃった。  揉み合ううちに刺客が短銃《たんづつ》を放って、ようやくそれをしおに端の者から梯子段を下り始めた。ふしぎなことに、梯子段の途中では誰も斬り結んだ様子はなかった。何だか土佐も紀州も新選組も、一列に並んで行儀よく梯子段を下りて行ったふうじゃった。これでは埒《らち》があかぬ、とみなが暗黙のうちに階下へと下りたのじゃろう。で、下りたとたんから内庭の池をめぐって、すさまじい斬り合いが始まった。まこと侍というのは、妙な習性を持っておるものよ。  それでも二階の座敷には、まだ大勢の人の気配がした。あちこちで刃を交えるたびに火花が飛んだ。わしは掻巻を被ったまま床の間に蹲《うずくま》る三浦をかばって、じっと闇に目をこらしておったよ。  ふと、気が働いてわしは叫んだ。 「三浦は討ち取った、引け、引けっ」、とな。  これは妙案じゃった。奴らの目的は三浦の命なのじゃから、そうとなればこの場に用はあるまい。たちまち刺客たちは口々に「引け、引け」と叫びながら、通りへと逃れて行った。  わしは腰の抜けた三浦を裏廊下に引きずり出した。階下では残党どもの斬り結ぶ気配がしておったし、闇の中に潜んでいる者がまだおるやもしれぬ。ここはひとまず裏廊下から屋根づたいに逃れ、さほど離れてはおらぬ西本願寺の紀州本陣へと向かうのが賢明であろうと思うたのよ。  雨戸を蹴破ると、目を射るほどの月かげがあかあかと廊下に差し入った。  そのときの三浦の顔を、わしは忘れはせぬよ。醜いと思うた。これこそ糞袋じゃわと思うた。  御三家が何じゃ。紀州五十五万石が何じゃ。同じ御親藩の会津中将は命を的に守護職を務めておられるというのに、紀伊大納言は何をした。おのれの保身のために、公武のはざまを蝙蝠《こうもり》のごとく飛び回っておるだけであろう。  ましてやその公用人が何じゃ。一万五千石取りの、大名にも等しい家老職が何じゃ。昌平黌出身の選良が何じゃ。おのれの命さえ満足に守ることのできぬ、ただの腰抜けではないか。  新選組隊士の、ひとりひとりの顔をそのとき思いうかべたのはなぜであろう。わしは仲間たちのいかんともしがたい恨みつらみを、今こそ晴らさねばならぬと思うた。  武士になりたかった百姓ども。生きんがために国を捨てた足軽たち。冷飯を食わされ、陽も当たらぬ部屋住みのまま朽ちていく、御家人の倅たち。  そしてまた、いわゆる勤皇の志士と称する輩の多くも、わしらと同じ境遇であることに気付いた。  食えぬ者たちが、何かを変えようとしたのじゃ。たがいに憎しみ合い、ゆえなく殺し合い、それでも長く続いた不条理の時代を変えようとしたのじゃ。  今し闇の中で斬り合うた者たちは、実はみな似た者であった。だからこそ顔の見えぬ闇には、彼我の憎しみを越えた奇妙な連帯があった。  おまえは誰じゃ。いずれわれらが屍《しかばね》の上に、おまえはのうのうと新しい時代を生きるつもりであろう。だからこそ、それほどまでに死を怖れ、生に執着するのであろう。  そのときわしは、わしが殺してきた者たちのために、三浦を殺そうと思うた。命を惜しむこと、怯懦《きようだ》であること、それだけでもこやつは死するに値する。  わしは三浦の首筋に刃《やいば》を当てた。  すでに三浦の死は、今しがたわしが宣言した。首を引き切られて死んでおっても、疑う者は誰もおるまい。  新しい時代を生きる必要はない。龍馬殺しの罪を負うて死ね。わしがゆえなく斬ったあの男を、おまえは殺したいほど憎んでいたのだから。不都合は何もあるまい。 「斎藤、何の真似だ」  と、三浦はようやく言うた。 「あいにく拙者は、人を斬るに及んで理由をつけたためしはない」 「無体な……」 「無体は承知じゃ。じゃがの、三浦殿。拙者の無体などかわゆいものであろうよ」  ふいに、わしは腕を掴まれた。吉村貫一郎が返り血を満身に浴びた物凄い形相で、わしの腕を脇に抱えこんだのじゃ。 「斎藤先生、悪い冗談はたいがいになされよ」  わしの怒りは萎えた。奴は血まみれの顔に真白な歯を剥き出して笑うた。決して冗談ではないことを、奴は知っておったはずじゃ。おそらくは、わしの怒りの正当さもな。  思えばあのときが、吉村と尋常の勝負をする最後の機会であったろう。じゃが、わしはすでに奴を斬る気概を失うていた。  なぜであろうか。  憎んでおった。むしずが走るほど嫌な奴じゃった。それでもわしには、吉村を斬るだけの勇気がなかった。  人の器を大小で評するならば、奴は小人じゃよ。侍の中では最もちっぽけな、それこそ足軽|雑兵《ぞうひよう》の権化《ごんげ》のごとき小人じゃ。しかしそのちっぽけな器は、あまりに硬く、あまりに確かであった。おのれの分《ぶ》というものを徹頭徹尾わきまえた、あれはあまりに硬く美しい器の持ち主じゃった。  その器を壊すだけの勇気が、わしにはなかったのじゃ。  勤皇の佐幕のと論ずる器ではない。世の行く末など、奴にはどうでもよいことだったのじゃろう。人間獣の一頭の牡《おす》として妻子を養うこと、それだけが奴の器じゃった。  酔うたな。こればかりの酒で朦朧《もうろう》となるなど、老いたりとはいえ常にはないことじゃが。  秘めたる愚痴が、わしを酔わせるのであろうよ。  そうじゃ、御一新ののち、あの三浦休太郎とはいちど会うたことがある。  奴が東京府知事になったときのことじゃ。日露戦争の開戦直前ということで巡査の頭数が足らず、非職警部のわしまでが沿道の警備に動員されたのよ。  春の雨が名残《なご》んの花を散らす朝であった。わしは制服を着、サーベルを下げて日比谷の十文字に立っておった。むろん、御濠の先からきらびやかな馬車に乗ってやってくる三浦男爵閣下が、あの三浦休太郎その人であるなどとは知りもせなんだ。  御一新から三十有余年、その間には西郷征伐を始めとする数々の動乱があり、清国との戦もあった。百年を経たと言われれば、そのような気もする長い年月じゃった。国家は様変わりしてしまった。  最敬礼をするわしの前で、馬車が止まった。ふしぎなものじゃて。三浦は沿道に佇む老巡査をひとめでわしと悟り、わしもとたんに思いもかけぬ邂逅《かいこう》を知った。 「閣下、いかがなされましたか」と、秘書官が訝《いぶか》しげに問うた。すると三浦は鼻眼鏡をはずしてじっとわしを見、「命の恩人だよ」と答えた。  嫌味であろうかの。だとすると、奴も案外の洒落者じゃな。  わしはサーベルの柄《つか》を握り、馬車の窓に歩み寄って、「御用があればいつでもお呼び下さい」と言うた。すると三浦はステッキを首に当て、「それは遠慮させていただく」と答えた。  ほんの少しの間、二人して散りゆく花を見上げた。街路は煉瓦《れんが》の見えぬほど、雨に打たれた花が散り敷いておった。  馬車が府庁舎を目ざして走り去るとき、わしは敬礼をしなかった。三浦も大礼服の肩をそびやかしたまま、無言で走り去ってしもうた。  おたがい、それが正しい儀礼であったと思う。  静かで、よいところであろう。  本郷も兼安《かねやす》までは江戸のうち、などと申してな、このあたりも昔は江戸のどん詰まりじゃった。大名屋敷を整理して道路をこしらえ、すっかり様子のよい町並みに生まれ変わったがの。  この真砂《まさご》町の界隈には役人の官舎が多い。わしは警視庁を四十八の齢に辞めたのちも、高等師範や女高師に長らく奉職しておったのでな、官舎も恩給のうちであろうなどと勝手に決めて、この通り終《つい》の栖《すみか》にしておる。  芸は身を助くるなどというが、思えば生涯が剣一筋の用心棒稼業であったな。取柄というべきものは、他に何もない。  わしのような年寄りがみっしりと住もうておるこのあたりは、郵便配達夫ですら新米では務まらぬのじゃよ。貴公も住所を記した紙切れ一枚では、さぞ往生したことであろうな。  じゃが、誤解なきよう言うておくが、わしは身を隠しておるわけではないぞ。それどころか、遺恨ある者が訪ねて参ったならば、潔く討たれてやろうと思うておる。  ひとつだけ願いが叶うのであればそれは、斬られて死ぬことじゃな。もっとも、仇討ちを果たそうなどという殊勝な男は、人が空を飛ぶこの新時代に、もはやおるはずはなかろうが。  壬生の畔道《あぜみち》に蛍を追うたのは、いつのことであったろう。  したたかに酔うて騒ぐ吉村貫一郎の姿を見たのは、後にも先にもその一夜きりじゃったように思う。おそらくは、よほど嫌な仕事をした晩だったのであろうな。  吉村は他人《はた》の嫌がる仕事ほど進んでやった。むろん心がけがよかったからではない。すべては銭金《ぜにかね》のためじゃった。今宵はまちがいなく命のかかる夜回りになると思えば、俄《にわか》に腹の痛み出す者もおり、空咳《からせき》を始める奴もいる。病や怪我はべつだん士道不覚悟ではないから、致し方ない。そういうとき、吉村は決まって死番を願い出た。そして必ず、相応の働きをした。  切腹の介錯や断首の仕置も、奴は進んでやった。新選組では必ず、働きに応じた褒美が出たからな。  吉村は日ごろから身銭を切る酒は一滴も飲まなかったが、嫌な仕事をした晩にはこっそりとどこかへ飲みに出かけていた。むろん他の者がみなそうするような、お清めの酒ではあるまい。奴は人斬りのまったく似合わぬ、性根のやさしい人間じゃったからな。  その日の吉村の働きがどのようなものであったかは忘れた。  ともかく、わしと永倉新八が島原から壬生の八木邸へと流れ、奥座敷で飲み直しているところに、吉村がへべれけに酔って転がりこんできたのじゃ。いったいどこで飲み、なぜ壬生までやってきたのかは知らぬ。いきなり玄関の上がりがまちに大の字になって、南部訛の泣き笑いを始めよった。 「どないしいはった、吉村先生。ひとりでこないに酔わはって」  源之丞が差し向けた水を一息に飲み干すと、吉村は畳の上にかしこまって頭を下げた。 「拙者、今宵こそ源之丞殿に詫びねばならぬと思い——」 「はて、何の話ですやろ」  わしと永倉の手前、源之丞はとぼけたのであろう。  壬生のおなごの話は聞いておるかな。さよう——八木邸の隣家の下働きをしておった、みよという娘のことじゃよ。  詳しいいきさつは知らぬが、そのみよを吉村と添わせてはどうかという話が、土方はじめ幹部連の間で持ち上がっていたのじゃ。むろん仲人役は源之丞よ。吉村はその縁談を、酔った勢いで断わりにきたのやもしれぬ。  吉村は腰の大小をはずしてかたわらに置くと、源之丞の膝元にごつんと額をぶつけて詫びた。酔うていたわりには、筋の通ったことを言うたよ。 「国元に残した妻子は、脱藩者の汚名を着てさぞ肩身の狭い思いをしておることでしょう。ならばこの縁談をしおに、拙者が養子となって家を出、倅が家督を相続して家族ともども国を離れ、土方先生のご縁を頼っていずれかの御旗本にご奉公するというのは、願ってもないことにて——」  なるほど、そういう段取りがつけられようとしておったのかと、わしは永倉と顔を見合わせたものよ。永倉はあの生真面目な仏頂面をしかめて、ひとこと「馬鹿な奴じゃ」と呟いた。 「おい、吉村」と、永倉は野太い濁声《だみごえ》を上げて、二人の間に割り入った。他人事《ひとごと》とはいえ、よほど肚に据えかねたのであろう。 「貴公、わがままもたいがいにせい」  永倉新八はいったいに裏表のない、まことに見たままの男であった。 「わがまま、でしょうか」  と、吉村は青白くなるほどに酔うた顔をもたげて永倉を見上げた。 「副長や八木殿が、貴公のためによかれと思うて心を摧《くだ》いておるというに、言下に断わるとはどうしたことじゃ。わがままというほかはあるまい」  もしかしたら、この縁談話には永倉も一枚加わっておったのかもしれぬ。憤りは尋常ではなかったからな。  永倉は松前脱藩。吉村は南部盛岡。ともに北国の出で、人付き合いの不器用なところも、真面目一途な気性も似通うていた。日ごろから二人が親しくしておったのもたしかじゃ。  しかし永倉は正々堂々を判で捺したような奴で、策というものを知らぬ。口も重い。そのくせ妙な仏心を持った男じゃ。吉村の境遇を何とかしてやらねばならぬと、源之丞や土方に相談をしておったのであろうよ。そうじゃな。言い出しっぺは永倉かもしれぬわ。  吉村はかしこまったまま、しばらく考えた。永倉に輪をかけて口下手な奴のことじゃ、むろん考え直したのではなく、言い方を考えておったのじゃろう。  考えあぐねた末にようよう口にした吉村の言葉を、わしは忘れぬ。 「今の今、拙者は父として夫として、妻子を養うております。わがままなどと言うて下さりますな」  行く末の幸福などどうでもよい、という意味か。それとも、考え及ばぬということか。ともかく吉村は、おのれが今の今、妻子を食わせているのだと、それが幸福なのだと言うたつもりだったのじゃろう。  正直なところわしは、わがままじゃと思うたよ。しかし永倉は本心どう感じておったのであろうな。わしは二十歳をいくらか出たばかりの若さじゃったが、永倉は吉村よりいくつか下で、すでに京の市中には所帯も持っておった。  永倉は濁声をいっそう張り上げて言うた。 「ならば妻子を京に呼べばよかろう。なぜそのようにせぬ」  できるわけはあるまい、とわしは思うた。できぬ理由は、当の永倉が誰よりも知っておったはずじゃよ。わしらは捨て駒じゃったからな。世の中がどう変わるにせよ、新選組に立派な明日のないことはわかりきっていた。世の行く末はわからずとも、これだけ人を斬ってただですむわけはないと、誰もが思うていた。  そのような場所に、愛する妻子を呼べるか。近藤勇ですら、それだけはできなかったのじゃよ。  永倉はできもせぬ正論を吐いたことになる。いかにも永倉らしい。正々堂々たる人物であるわりに、永倉があんがい隊士たちから嫌われていたわけは、つまりそのように時として正々堂々を振りかざす癖があったからじゃ。  吉村はそのとき、蔑《さげす》むように永倉を見上げたと思う。それから、こらえかねたようにこのようなことを言うた。 「拙者家内は百姓の出にござる。子らは足軽と百姓の子にござる。盛岡を捨てて生きることなどできませぬ」  それもたしかな理由にはちがいあるまい。  同じ脱藩者とはいえ、永倉新八は松前藩の江戸定府御取次役、百五十石の倅じゃ。吉村の事情など、わかっていたようで実は何もわかってはいなかったのかもしれぬ。  とたんに永倉は血相を変え、吉村の襟首を掴むと奥座敷まで引きずりこんだ。 「貧乏を看板にしやがって、百姓が何だ、足軽がどうした。おめえはわがまま者だ。みんなして生かしてやろうってのに、なぜ死にたがる。死ぬのは俺たちだけでたくさんだ」  ふいに江戸弁でそんなことをまくしたて、永倉は吉村の上に馬乗りになって、無茶苦茶に殴り始めた。  吉村はなされるがままじゃった。わしも源之丞も止めだてはしなかった。永倉の友情というものが、いやというほどわかったからな。  あの大兵《たいひよう》の永倉が、吉村の顔をさんざんに殴りつけながら泣いているのよ。言うにつくせぬ言葉を拳固にするしかなかったのじゃろう。  わしらをがんじがらめに括《くく》っておった武士道というもの。吉村は身を以てその武士道の人道に対する矛盾を提起しておった。  考えてそうしておったわけではない。長く続いた侍の世の果てに、奴はいかんともしがたい矛盾を抱きかかえて、退くことも進むこともできずに悄然《しようぜん》と立ちつくしておったのじゃ。  武士はその出自がすべてじゃった。いや、あの時代には、生きとし生くる人間の一生が、すべてその出自によって定められていた。  そうした時代にあっても、武術なり学問なりの教育が行き届けば、突然に身分不相応な才というものが出現する。武に秀で学に長じ、しかも貧しさの分だけ情のこまやかな人物がの。  才を持ちながら、もしくは才を持ったがゆえに世の中の仕組に押し潰され、抗《あらご》うべくもない世の流れに押し流される。吉村貫一郎はそうした矛盾の雛形じゃった。  新選組の隊士たちは、みな多かれ少なかれ似た者じゃよ。ただ、吉村は運命に抗うていただけじゃ。おのれの信じた義の道を見失うまいとし、それが武士じゃ、それが男じゃ、それが人間じゃと、声のかぎりに叫びながら生きておった。  永倉が泣いた理由はわからんでもない。その気性から察するに永倉は内心、吉村を神のごとくに尊敬していたのであろうよ。  悶着を鎮まらせたものは、蛍じゃった。  妙なものよのう。裏の田圃からやおら一群の蛍が惑い出で、縁先をきらきらと飛び始めたのじゃ。  行灯《あんどん》ひとつのほの暗い座敷にも、蛍は飛び入ってきた。  あ、とわしらはみな動きの一切を止めた。 「蚊遣《かや》りを消さねば」  永倉は思いついたようにぽつりと言うて裏庭に下り、杉葉を燻《いぶ》す蚊遣りに手水鉢《ちようずばち》の水を撒いた。  風のそよとも動かぬ、蒸し暑い晩であったと思う。蚊遣りの煙は青白い縞になって庭先に蟠《わだかま》り、その縞の中を無数の蛍が飛び惑うていた。 「煙に当たれば死ぬぞ。田圃へ帰れ、これ、これ」  ふと我に返って、おのれの泣顔を恥じたのであろう。永倉は団扇《うちわ》で蛍を追いながら、裏木戸を抜けて田圃へ出て行ってしもうた。 「ようけ飛んでますな。ほな、わしらも見に行きまひょか」  源之丞は吉村を扶《たす》け起こし、わしを誘って裏庭に下りた。  そのときわしらはまた、あっ、と一切の動きを止めた。永倉の出て行った裏木戸に、ぼんやりと|みよ《ヽヽ》が佇んでいたのじゃよ。  あれは美しいおなごじゃった。まるで蛍の精が、人の姿を借りて立ち現れたかのようじゃったな。  蛍籠と団扇を持ち、隣家の幼子の手を引いておったから、たまさか蛍を狩りに出たのであろう。しかし、ことの一部始終を見聞きしてしもうたのは、その顔色からも明らかじゃった。  やあ、と吉村は間の抜けた声をかけ、みよは「こんばんは、吉村せんせ」と作り笑いをうかべて頭を下げた。  それから、みなで畔道に蛍を追うた。永倉も源之丞も子供のようにはしゃいで、捕えた蛍をみよの蛍籠に入れた。やがて小さな蛍籠は灯籠のごときにぎわいとなった。  青田の先は闇に呑まれており、その漆黒の底から、蛍は夢のごとくきらきらと惑い出てくるのじゃった。  捕えた一匹を掌に入れて覗き見れば、蛍火はわしの息に合わせるように輝き、また鎮まり、また燃えた。 「なあ、吉村先生。盛岡のお国にも蛍はいますのんか」  畔道に屈んで蛍籠を覗きながら、みよは訊ねた。わしらは酔うたまま蛍を追いくたびれ、みな草の上に腰を下ろしておった。 「すまんな、吉村。べつだん悪気はない。許せ」  と、永倉は腰手拭を用水で冷やし、吉村に手渡した。 「とんだお節介どしたな。気にせんといておくれやす、吉村先生」  源之丞が言うた。どの声にも答えることができず、吉村はじっと俯《うつむ》いていた。  いったい何を思うたのじゃろう。ようやく頭を上げて、吉村はやおらどの答えにもならぬお国自慢を始めたのじゃよ。「南部盛岡は、美しい国でござんす」、とな。  奴のお国自慢は、いつも独り言のようなものじゃった。西に何とかいう山があり、東にどうたらいう峰があり、豊かな川が流れ、春には花が咲き乱れ、冬には真綿のごとき雪にすっぽりとくるまれる——同じ話を、わしは百ぺんも聞いた。 「わしは、世の中がおさまったなら盛岡に帰《けえ》りてと思っておりあんす。雫石《しずくいし》の在所は米どころゆえ、妻《かが》と百姓ばやりてのす。そんときァ、みなみなさまも、ぜひ一度お訪ね下んせ。なんもおかまいはできませぬども、精いっぺえのうめえ米ば作り、どぶろくば仕込んでお待ち申しあんす。何はなぐとも、盛岡は日本一の美しい城下ゆえ、必ずやみなみなさんも気に入って下さいますべ。まんず、今日のところはそんたなことで……」  それから吉村は、永倉の濡れ手拭で顔を冷やしながら畔道の端まで歩き、フランス兵式の回れ右をした。 「おもさげなござんす。吉村貫一郎、みなみなさんのご厚誼に報ゆる器を持たねのす。お許しえって下んせ」  畔に立ちすくんだまま、吉村は子供のように腕を抱えてほいほいと泣いた。迷い蛍が奴を慰むるかのように飛んでおったよ。  奴は——あの娘に惚れておったな。  鳥羽伏見の戦について語るのは、やぶさかではない。  敗け戦だから忘れたなどと、池田の小倅も都合のよいことを言うものじゃな。嫌なことを忘れておったのでは、進歩などひとつもあるまいよ。男ならば、敗け戦だからこそその有様をしかと胸に刻みつけねばならぬ。それは、力及ばざるおのれの務めであろう。  貴公が望むのであれば、そののちの敗け戦のすべてをこと細かに語ってもよいぞ。甲州勝沼の敗戦も、会津如来堂の地獄のごとき戦場もな。もっとも、吉村のいなくなったのちの戦の話など聞くいわれもないか。  わしが自信を持って他人の誰よりもすぐれていると思う点はの、目が良いことなのじゃ。これは剣術の腕前ともおそらく不可分ではあるまい。わしは常人の倍も目が良い。相手の動きが、ゆるりと見える。じゃから、斬り合いの逐一も、戦場の有様もまことによく覚えておるのじゃ。  あの日の出来事も、まるでつい先刻のように思い起こすことができる。  真綿の如き牡丹雪が降っておったな。それは、頭のつかえそうな低い冬空が、ぼろりぼろりと崩れ落ちてくるような雪であった。  淀千両松と呼ばれたそのあたりは見事な松並木の続く土手道で、堤の上から急勾配の草むらが、川原もない深い淵のような川に落ちこんでいた。  土方の策は妙案であったと思う。会津藩の槍隊が土手道で囮《おとり》となって敵を引きつけ、草むらに潜んだわしらが、左右からどっと斬りこむ。薩長の銃砲に刀と槍で抗する策は、たしかにそれしかなかった。  彼我入り乱れた白兵戦に持ちこめば、鉄砲を握った薩長兵など木偶《でく》と同じじゃ。折しも雪は帳《とばり》のごとくに降りしきっており、わしらはその戦術で敵を殲滅《せんめつ》できると確信しておった。  むろん、苦肉の策ではあったよ。わしらはいったん淀城に入り、籠城しつつ大坂からの援軍を待とうと考えておったのじゃ。しかし頼みとする淀城はわしらを拒絶した。腹は立っても、まさか城を攻め落とすだけの余力はない。致し方なくわしらは、淀城外の千両松で敵を迎え撃つことになった。  なかば意地もあった。淀城主の稲葉長門守は老中職じゃ。それがいかに城主の留守中とはいえ、勅命にて幕軍に加勢できぬとは、三河以来の御譜代が聞いて呆れるわ。ならば腰抜けどもの城を指呼《しこ》の間《かん》に望む淀堤で、あっぱれな戦をしてやろうと思うたのよ。  堤の上に布陣したのは、五十人ばかりの囮《おとり》の槍隊じゃった。会津の侍は勇敢じゃよ。決して死を怖れぬ。そのときもみな腰だめに槍を構えたまま、みだりに突撃することもなく、わしらの頭上に身を晒しておった。さあこい、われらの命を奪うたときは、おのれらも終わりじゃという気魄が、会津兵の面構えには満ち満ちておった。  そうじゃ——ひとつ思い出したことがある。  敵を待ち伏せておるとき、吉村貫一郎が土手下の草むらでうつらうつらとするわしのところへとやってきた。  わしの顔を真上から覗きこんで、奴はにっこりと笑うた。そして、なかば凍った握り飯を差し出したのじゃ。正月三日の晩に伏見奉行所を押し出してから、わしは二日の間何も口に入れてはおらなんだ。 「会津の小荷駄方からわけてもらいました」  あらかたがつがつと貪《むさぼ》り食ろうてしまったあとで、わしは何とはなしに気にかかって訊ねた。 「貴公、食ったのか」 「いえ、若い者から順ぐりに渡しまして、これが残りの一つです」  吉村とは、そういう奴じゃった。馬鹿ではあるが、仁者であったよ。  柄に似合わず、わしはそのときおのれを恥じた。 「なぜそれを先に言わぬ。残りの一つを、わしが食ろうてしもうたではないか」  すると吉村は、細い指をわしの口元に差し延べて、飯粒をひとつつまんだ。そして、その一粒を前歯で噛みながら、こんなことを言うたのじゃ。 「ひもじさには慣れておりますゆえ、これで満腹です」  もう我慢がならなかった。わしは吉村の襟首を掴んで草むらに押し倒した。  人間は嫌いじゃ。おのれのことより他人を気遣う仁者は、もっと嫌いじゃ。たかが糞袋が、なにゆえ他人の腹を気遣う。人が人を憎み、恨み嫉《そね》みの末に命を奪い合うこの世の中で、おまえはなぜおのれの腹すらも満たそうとはせぬのじゃ。  罵る声はひとつも言葉にはならず、わしは奴の襟首を締め上げ、乱れた髻《たぶさ》をゆすり立てながらようやく言うた。 「吉村、逃げろ」、とな。  いつであったか、永倉が吉村を殴りながら吐いた言葉が思い出されたよ。永倉はこう言うた。「死ぬのは俺たちだけでたくさんだ」、とな。わしも同じことを思うたのじゃ。俺はここで死ぬ。惜しむ者も、嘆く者もいない。死ぬのはそういう人間だけでたくさんだ、と。 「斎藤さん——」  と、吉村は親しげにわしの名を呼んだ。わしの思いがけぬ言葉が応えたのであろうか、やさしい二重瞼の眦《まなじり》に、たちまち涙がうかんだ。それから、ぐいと唇を噛みしめ、きつい奥州訛でこんなことを言うた。 「わしは、みなみなさんとは氏も素性もちがう卑しい小身者《こもの》だども、南部の侍にござんす。南部は必ずや、義のために戦い申《も》っす。淀城の稲葉様に義はござらねが、われら南部武士はたとえ外様とは申せ、女子供まで曲げてはならね義の道をば知っており申す。ならば、わしは南部の魁《さきがけ》として死に申す。そこもとのお気遣いは涙の出るほど有難えと思うだども、わしは南部の侍じゃから、義に背くようなお恥《しよ》す真似は、ゆめゆめ致し申さぬ」  腕の力が緩んでしもうた。こやつは本物の侍じゃと思うた。わしらが百人束になってかかっても、到底かなうはずのない侍じゃ、とな。  人それぞれに、生まれついての宿命はあろう。いかんともしがたい苦悩を抱えてもおろう。将軍も足軽も、苦悩の量《かさ》は同じじゃ。じゃが、これほどおのれの宿命に屈せず、苦悩に抗《あらが》い続ける侍が他にあろうか。神に挑み続ける人間が、他にあろうものか。  妻子を養うために主家を捨てる。しかし恩と矜《ほこ》りとは決して忘れぬ。  守銭奴と罵られ嘲《あざけ》られても、飢えた者に一握りの飯を施す。  一見して矛盾だらけのようでありながら、奴はどう考えても、能《あと》うかぎりの完全な侍じゃった。 「すまぬ。久しぶりに飯を食うたら、力が余ってしもうた」  わしらは体を離すと、戦の仕度をした。襷を締め直し、袴の股立《ももだ》ちを取り、筋金を打った鉢巻を額にきつく結んだ。  土手に身を隠す隊士たちはみなわしらに倣《なろ》うて、戦装束を固めた。 「刀の目釘を確かめよ。|※[#「金+示+且」]《はばき》に緩みはないか」  吉村は若い者たちにそう指示をした。  降りしきる雪を縫って、おどろおどろしい太鼓の音が近付いてきた。  薩長兵はみな黒の西洋軍服を着、黒いダンブクロをはいておった。  敵味方が身なりで一目瞭然であることは有難い。会津の槍隊が奴らを引きつけたところで左右から打って出れば、袋の鼠じゃろうと思うた。騎馬の将校は黒いシャ熊を冠っておった。薩摩の侍じゃ。獅子頭のような、あの奇妙なシャ熊の冠りものは、薩摩が黒毛、長州が白毛、土佐が赤毛と決まっておった。  わしらは薩摩をことさら憎んでいた。長州は禁門の変以来、徹頭徹尾の敵であったが、薩摩は中途から長州に伍《くみ》した裏切り者じゃったからな。ことに幕府の矢面に立たされた会津藩の薩摩に対する憎しみは、なまなかのものではなかった。  戦の帰趨《きすう》を決したのは、策でも力でもない。思いもかけぬ、一旒《いちりゆう》の旗じゃった。敵が錦《にしき》の御旗を押し立てて一歩進めば、会津藩の葵《あおい》の旗印は確実に一歩|退《しりぞ》いた。  松平|容保《かたもり》公が、なにゆえあの時代に京都守護職に任ぜられたか、わかるか。会津の力が強かったからではない。諸大名中、最も勤王の志が厚い殿様であったからじゃよ。そのような会津が、錦旗《きんき》に弓を引くなどできるはずはあるまい。  退《ひ》くな、と命ずる土方の声は虚しかった。味方はみな、戦う前に悚然《しようぜん》と立ちすくみ、敵の先鋒が鉄砲を撃ちかけてくると、たちまち雪崩を打って後退した。  吉村はただひとり、逃げようとはしなかった。止めようとするわしの手を振り払い、堤の上に駆け上がってしもうたのじゃ。  奴には何のとまどいもなかった。わしらとともに退くことなど、毛ほども考えてはいないふうじゃった。  あの姿は、今もはっきりと覚えておる。忘れようものか。侍ならば、男ならば、誰も死ぬまで忘れはせぬよ。池田の小倅も、ありありと覚えていたであろう。  撃ち倒された会津兵の骸《むくろ》のただなかに、吉村は右手に刀を、左手に脇差を抜き放って立った。  さよう。たしかに聞いたよ。 「新選組隊士吉村貫一郎、徳川の殿軍《でんぐん》ばお務め申《も》っす。一天万乗《いつてんばんじよう》の天皇様に弓引くつもりはござらねども、拙者は義のために戦ばせねばなり申さん。お相手いたす」  横なぐりの雪が、だんだら染めの隊服を翻《ひるがえ》しておった。それはわしが後にも先にもこの世で初めて見た、まことの侍の姿じゃった。たったひとりの、いや、ひとりぼっちの義士の姿じゃった。  矢も盾もたまらずに、わしは土手を駆け登った。おのれも義士になりたかったからではない。ただ、あの男を殺してはならぬと思うた。  誰が死んでもよい。侍など死に絶えてもかまわぬ。だが、この日本一国と引き替えてでも、あの男だけは殺してはならぬと思うた。  剣をふるうことのほか何も知らぬわしが、他に何をできるというのじゃ。せめて奴の前に立ちふさがって、矢弾の盾となるしかあるまい。斬りかかってくる者があれば、わしが一人残らず倒す。奴の体には指一本、触れさせはせぬ。 「退がれ、斎藤」  永倉が背後から、わしを羽交い締めにした。 「どけっ、放せっ」と、わしは永倉をつき放した。すると松の根方から原田左之助が躍り出て、わしの腰にくらいつきおった。永倉と原田は二人がかりでわしを抱き止め、土手の下へと引きずり下ろした。  わしは、吉村の名を叫び続けていたと思う。 「死ぬな、吉村」、とな。  錯乱したわけではない。わしは限りなく正気じゃった。むしろそれまでのいつにも増して正気であったと思う。  土方はわしを殴りつけた。犬死は許さん、とな。  よしんばあのとき討死しておっても、犬死ではなかったろう。ちがうか。むしろわしにとっては、生涯にただ一度の死場所ではなかったろうか。  あれから、はや五十年の時が流れてしもうた。  感慨か。わしの思うところはただひとつ、いつ死んでもよい者が生き残って、死んではならぬ者が死んでしもうたということじゃな。  神仏は存外意地の悪いものよのう。  貴公、吉村貫一郎の消息を、何か知っておるのか。  いや、言うな。聞くつもりはない。妙な後日譚など聞かされて、老いさき短いわが身をとまどわせたくはないでな。  もはや誰もわしを斬ってはくれそうにないゆえ、せめて武士らしう、床の間に端座して冥土からの迎えを待ちたいと思う。  迎えは誰が来るのであろうな。近藤か、沖田か、永倉か。いや、やはり仕切り屋の面目にかけて、土方がやってくるじゃろう。あれはともかくまめな男じゃった。  大坂から江戸へと逃げ帰ったあと、わしらは甲州の戦でまたしてもさんざんに敗けた。知れ切った敗け戦じゃよ。近藤はすでにやる気をなくしておったのじゃから。御陵衛士の残党に右の肩を撃たれ、利き腕の自由を失ったとき、近藤勇は終わった。天然理心流の師範であり、稀代の剣客であった近藤が利き腕を失えば、ただの侍じゃ。そのことは当の本人が誰よりも承知していた。  近藤は流山で官軍に捕らえられて斬られた。沖田は肺病で死に、原田は上野の山の彰義隊に加わって死んだ。御一新を無事に生き永らえたのは、わしと永倉だけじゃ。試衛館以来の主だった者はみな死んでしもうた。  わしが土方と袂を分かって会津にとどまったわけか。  それは、見解の相違というものよ。土方は死にぐるいであった。ひたすら武士らしく死ぬ場所を探しておったのじゃ。  長年恩顧を蒙った会津公のご馬前に死するが筋であろうとわしは言うた。じゃが、土方は肯《がえん》ぜなかった。あくまで幕臣として死にたいというわけじゃ。  それはそれで潔い。筋も通っておる。侍の時代がいずれ終わろうというときに、武士の棟梁たる徳川に殉ずる者のおらぬことを、土方はしきりに嘆いておった。  立派であったと思うよ。土方のおかげで、侍というものが後世の笑い種《ぐさ》にならずにすむと、わしは信じておる。  つまりは、幕臣として死するか、会津藩士として死するか、その見解の相違じゃな。死にぐるいはわしとて同じよ。  どこの陣中であったか、土方がふと独り言のように洩らしたことがある。 「徳川の、殿軍、か……」、とな。  それは淀千両松の戦場での、吉村の台詞じゃった。  土方はその台詞に呪われたか。いや、洒落者の土方のことじゃ、その台詞が気に入ったのであろう。  大したものよ。土方歳三という天下の洒落者は、まこと鮮やかに徳川の殿軍を演じ切ったのじゃからな。  不本意ながら、わしは会津にて白旗を掲げた。もはや戦うことに疲れ、精も根も尽き果てておった。  それからは新選組副長助勤斎藤一としての過去の一切を葬り、一人の会津藩士として生きた。姓名も一戸伝八《いちのへでんぱち》と改めた。  かえすがえす言うが、わしは罪科《つみとが》を怖れたわけではない。復讐に怯えたためしなどなかった。ひたすら生まれ変わりたかったのじゃよ。日本一のひとごろしにちがいないおのれが、嫌でたまらなかった。  戊辰《ぼしん》の戦ののち、会津藩士が下北の斗南《となみ》に流されたことは知っておるであろう。斗南は南部領の北の涯《はて》、凍餒蛮野《とうたいばんや》なる不毛の地じゃ。  奥州街道を下る道中、わしはこの目で盛岡の町を見た。その土を踏み、その風を吸うた。南部の人々の声を、この耳に聴いた。  今すこし、わしの話を聞いてはくれぬか。  すっかり日も昏《く》れた。  床柱にこうして背をもたせかけ、市電の放つ青い火花を見ながら酒を飲むことが、唯一の楽しみになっての。  ほれどうじゃ、見てみよ。火花だけが街路樹や屋敷の木叢《こむら》を染めて過ぎる。美しいであろう。  肴は何も要らぬ。会津の酒と平和な火花があれば満悦じゃ。齢《よわい》七十二にしてようやく、安息を手に入れることができた。  この手の——この老いさらばえた掌《て》のなしたることも、みな忘れた。  会津の戦については、今さら語るまでもなかろう。  土方は落城まぎわの会津を捨て、自ら最後の幕臣たらんとして箱館まで行ったが、わしはどうしても会津を離れることができなんだ。薩長の恨みを一身に買い、恭順せる慶喜《よしのぶ》からすべての責を押しつけられた会津を、どうして見捨てることができよう。  会津松平藩は神君家康公の御孫《おんまご》、保科《ほしな》正之公を藩祖と仰ぐ、御家門中の名家じゃ。藩祖の定めた家訓の第一条には、「大君の義、一心大切に忠勤に存ずべし、列国の例を以て自ら処《お》るべからず、若《も》し二心を懐《いだ》かば、則ち我が子孫に非ず、面々決して従うべからず」とあった。  藩主肥後守|容保《かたもり》様は、藩祖のお血筋ではなく、美濃高須藩から御養子に入られたお方じゃ。しかし、この家訓の一条をあだやおろそかにはなさらなんだ。  京都守護職という、薪《たきぎ》を抱きて火を救わんとするがごとき御役を、家中の反対を押し切ってお受けになったわけも、すべてはこの家訓一条に順《したご》うがゆえであった。  肥後守様は徳川将軍への義を一心大切に、ひたすら忠勤に励まれた。他国の例を以て自らの姿勢をお変えになることもなかった。そして家臣たちは女子供に至るまで、そのご決意に従《したご》うた。  御家人のはしくれであるわしが、そのような会津に背を向けることなどできると思うか。  新選組の向かうべき道について、土方とは夜を徹して議論をした。 「同じ幕府御家人とはいえ、拙者は貴公のごとき俄《にわか》ではない。生まれついての御家人じゃ。もう金輪際、貴公の指図は受けぬ」  わしがそう面罵したとき、蝋燭の灯に照らし出されたあの役者のような顔が、真青に変わるのがわかった。怒ったのではない。悲しげに、叱られた子供のように土方は青ざめてしもうた。  口にしてはならぬことであった。土方は俯きかげんに、じっとわしを睨み上げておった。それから、毒でも吐くかのようにこう呟いた。 「よおし。ならばその俄侍に、いってえどれだけのことができるか見せてやろうじゃあねえか。俺ァとことん働いて、天下の俄になってやる」  いい男だと思うた。妙な話じゃが、わしがもしおなごであれば、ぞっこん惚れるであろうと思うたよ。  生き残りの隊士たちは、土方とともに会津を去る者と、わしに従うてとどまる者とに分かれた。  肥後守様にお目通りしたのは、土方らが会津を去った晩のことであった。  夜更けだというのに砲声はひきもきらさず轟《とどろ》き、城郭は揺らいでいた。  具足に羅紗《ラシヤ》の陣羽織をまとい、戦烏帽子《いくさえぼし》を冠った肥後守様は、床几《しようぎ》に腰を下ろすと、側近も御小姓も遠ざけ、わしと二人きりになった。 「そちは、なにゆえ土方とともに行かぬ」  と、肥後守様は高く澄んだ声で言われた。仰ぎ見れば、その声にふさわしい色白のお顔が、わしを見つめておった。 「会津を死場所と心得まするゆえ」  わしの決心に、肥後守様は肯《うなず》いては下さらなかった。 「そちは会津藩士ではなかろう。新選組は会津藩御預りじゃ。予の臣ではない。去《い》ね」  わしらの労苦を誰よりもご存じの肥後守様は、わしらを救おうとなされていた。幕府はわしらを直参《じきさん》に取り立てて、志士たちを斬ったすべての悪行を新選組の勝手になしたることと言うつもりじゃった。しかし肥後守様は、もともと会津の家来ではないのだから生きよと言うて下さった。  わしはかぶりを振った。 「ならば今日このときを以て、われら新選組を会津中将|御抱《おかか》えとして下され。会津藩士として、お召し抱え下され」 「そちたちまで、殺しとうはない」 「婦女子までもが薙刀《なぎなた》を執って戦うておるというのに、どうしてわれらが死なずにおられましょう。何とぞ、お召し抱え下さりませ」  わしは平伏して御意を乞うた。ふしぎな気がいたしたな。何かこう、わしではない何ものかの魂が、わしの口を借りてそう言うているような気がした。  床几が軋んで、肥後守様はわしのかたわらに膝をつかれた。 「もったいのうござりまする」  頭を上げることもできなんだ。肥後守様はわしの肩に手を置かれ、着込をぎしりと掴んで、一言こう言うて下さった。 「ありがたい」、とな。  しみじみ思うたよ。名君のこの一言を、決して声の届かぬあの足軽に、吉村貫一郎に聞かせてやりたかった、と。せめてこの場所まで、奴を連れてきてやりたかった、とな。  鶴ヶ城の北追手門に、「降参」と大書した白旗が掲げられたのは、忘れもせぬ明治元年九月二十二日、巳《み》の刻じゃった。  今の暦でいうのなら十一月の初めであろうか。寒気いや増し、領民の蒙る塗炭の苦しみを思えば、開城も致し方なかった。  新選組の生き残りの多くは、降伏を潔しとせずに脱走した。池田七三郎も、そのうちの一人であったと思う。  わしが奴らとともに脱走することも、腹を切ることもできずに降参したのはなぜであろう。すべての気力が、失せてしもうていた。文久三年の上洛以来、足かけ六年にわたる長い戦じゃった。降参と聞いたとたんに、体じゅうの力という力が脱けてしもうて、腰の摧《くだ》けたまま立つことも歩くこともできなくなってしもうた。  会津藩士たちはみな、地に伏し天を仰いで泣いておったが、生来涙というものを知らず、ただ呆《ほう》けたよう蹲るおのれが虚しかった。  戦ののち、わしは会津藩士らとともに北越高田に謹慎した。  官軍は血まなこになって、恨み重なる新選組の残党を探しておった。ことに、薩摩にも長州にも土佐にも恨まれておったのは、副長助勤三番隊長の、斎藤一という侍よ。  囚われた会津藩士たちはみなわしの正体を知っておったが、知らぬそぶりで口裏を合わせてくれた。 「その者は去る九月四日、如来堂の戦にて討死いたした」、とな。わしもそう答えた。  名乗り出て首を刎《は》ねられることもやぶさかではなかったが、わしを守らんとする会津藩士たちの情を、あだやおろそかにするわけにはいかなかった。  さて、わしが吉村貫一郎について語るべきことはほかにないが、言わでもの話を語らせた償いに、貴公もつまらぬ付録《つけたり》の話を聞いてくれ。  御一新ののち、会津藩は下北半島さいはての地、斗南《となみ》へと国替えになった。二十三万石からわずか三万石への転封は、国替えとは名ばかりの流罪《るざい》に等しかった。  もっとも、斗南は三万石どころか満足に米など育たぬ不毛の凍土じゃ。  わしらは斗南の百姓たちから、「会津ゲダガ」と呼ばれた。また「会津のハドザムライ」などとも呼ばれた。  ゲダガとは下北の方言で毛虫のことじゃ。わしらは飢えて死なぬために、毛虫のごとく山を這い回り、口に入るものは何でも食べた。そして鳩のように、大豆やおからばかりを啄《ついば》んで生きた。  戦で死に損ね、飢えと寒さのために死んでいった多くの藩士や妻子たちの無念は、誰にもわかりはすまい。矜《ほこ》り高き会津の侍が新政府から与えられた罰は、武士を捨て、毛虫や鳩になり下がることであった。餓死を潔しとはせず、痩せさらばえた腕に刀を握って、腹をかき切った者も数多い。国替えという一見寛大なる名目で、会津藩は凍えた大地の涯《はて》に追われ、消滅したのじゃ。それが錦旗に弓引いた侍に対する、罰であった。  国替えの折、わしは先発隊の一員として、春とは名ばかりの奥州路を北へとたどった。  三日月の丸くなるまで、と謳われた広大な南部領は、歩くほどに冬へと逆戻りするようじゃった。わしら科人《とがにん》は斗南の地をめざして、黙々と歩んだ。  伊達領から南部領に入った国境の鬼柳の番所に、南部藩の役人が迎えに出ておった。  旅宿を一軒一軒訪れ、わしらの労苦をしのんでくれたその侍の顔は今も忘れぬ。 「会津のみなみなさまには及ばねども、盛岡も精いっぺえ戦い申した。お許しえって下んせ」  侍はわしらのひとりひとりに、そう言うて頭を下げてくれた。  和賀川を舟で渡り、黒沢尻から花巻に至るころには、雪が舞い始めた。わしらは涯もない奥州街道を、ひたすら北へ向こうた。  わしらが流される斗南というさいはての地の有様を、道案内の南部衆は知っていたのじゃろう。そこが南部の人々ですら長く拓《ひら》くことのできなかった、地獄のごとき蛮野であるということをな。  盛岡の城下を見はるかす北上川の土手に立ったのは、小雪の降る午下《ひるさが》りであった。  小舟を舫《もや》い繋げた浮橋の向こう岸には、盛岡の人々がひっそりとわしらを出迎えてくれておった。みなが等しく、科人のわしらに向かって頭を下げていた。  年端《としは》もいかぬ子供が向こう岸から舟橋を渡りかけ、中途で橋板に土下座をしたかと思うと、大声で叫ぶのじゃよ。 「会津のお侍さまっ、わしらは城下も焼かれず、御城も攻められずに敗け申した。おもさげなござんす。どうかどうか、お許しえって下んせ」、とな。  わしは、南部の声を聴いた。  とたんに、土手端を下りかけた足がすくんでしもうた。あの吉村貫一郎の口癖が、ありありと耳に甦《よみがえ》ったのじゃった。 (南部盛岡は、日本一の美しい国でござんす)  わしは、出迎えの役人に訊ねた。 「あの立派な山は、何という山でござるか」  老いた侍は彼方の山に目を細めて答えた。 「あれはなっす、岩手山にござんす」 「あの遠くの山は」 「姫神山にてござんす」 「この川は」 「北上川でござんす。少し上にて、城下を流れる中津川と合わさりあんす」  山河の名をひとつひとつ訊ねるうち、突然思いもかけず、胸が苦しうなった。寒気に当たって風邪でもひいたかと思うたが、そうではなかった。  洟水《はなみず》とともに、まなこから涙が溢れ出た。子供の時分から、ついぞ縁のない涙じゃった。吉村の声が聴こえた。 (南部盛岡は日本一の美しい国でござんす。西に岩手山がそびえ、東には早池峰《はやちね》。北には姫神山。城下を流れる中津川は北上川に合わさって豊かな流れになり申す。春には花が咲き乱れ、夏は緑、秋には紅葉《もみじ》。冬ともなりゃあ、真綿のごとき雪こに、すっぽりとくるまれるのでござんす)  美しい城下であった。この美しい城下に生まれ育った、かけがえのない美しい侍を、わしは殺してしもうた。いっときはおのれが手で殺さんとし、あげくの果ては見殺しにしてしもうた。  わしが殺してしもうたのじゃと、思うた。 「いかがなされた」 「いや——おのれの不甲斐なさを、ただいま知り申した」  役人は棒のように凍えたわしの背を、やさしく押してくれた。  涙はとめどがなかった。わしは曠《あ》れた雪の城下を、他目《はため》も憚《はばか》らずに泣きながら歩んだ。  侍が、町人が、大工が、子守女が、みな家々から走り出て、わしらに言うのじゃよ。  会津のお侍さま、お許しえって下んせ。おもさげなござんす、とな。  盛岡はやさしげな町であった。凜烈《りんれつ》の気をうちに秘めつつ、ほのぼのとやさしげであったあの吉村貫一郎の、そこはたしかに生まれ育った町であった。  そのやさしさが、わしを責めた。体じゅうの水という水が出つくしてしまうかと思われるほど、わしは泣きながら歩んだ。  南部ではわしらのために宿を用意してくれておったが、壮丁の先発隊は先を急がねばならなかった。  本街道はやがて城下を抜け、左右に貧しい足軽屋敷の続く、まっすぐな道になった。もしや吉村はこの組丁にて生まれ育ったのではあるまいかと思うたが、とても訊ねる勇気はなかった。  足軽屋敷のとぎれたあたりに、城下の出口を示す桝形《ますがた》があり、小雪の降りしきる中を大勢の人々が見送りに出ていた。粗末な身なりからしても、足軽屋敷に住まう人々にちがいなかった。  なけなしの米を炊き出したのであろう、人々は経木《きようぎ》にくるんだ握り飯を、まるで捧げ供えるようにして、わしらに差し出した。  わしは、受け取ることができなんだ。人々の手をすり抜けるようにして桝形を出ようとすると、前髪を結うた若侍がわしに追いすがってきた。愛くるしい顔の、足軽の子にしては様子のよい少年であった。 「会津のお侍さま。お食べえって下んせ」  若侍は行く手に立ち塞がるようにして、握り飯を差し向けた。 「おぬし、足軽の子ではあるまい。上士の子息までもが、このようなことを——」  わしは言葉に詰まって、立ち止まった。 「お食べえって下んせ」  若侍は経木の包みを開き、わしの鼻先に向けた。 「おぬし、吉村という足軽を知っておるか」  握り飯を口に入れながら、わしは勇をふるうて訊ねた。 「はい」と、子供は肯いた。それなりふと口を噤《つぐ》んだのは、奴が脱藩者であったからであろうか。 「吉村先生をご存じなのですか」 「いや」と、わしは握り飯を呑み下して答えた。 「以前に、これと同じほどうまい握り飯を、その御方からめぐんでもらったことがある」  そう言うたとたん、淀堤の吉村の姿が思い起こされ、わしはたまらずにその若侍をわが胸に抱きしめた。誰かに、この美しい盛岡の町の誰かに、わしは懺悔せねばならなかった。 「許してくれ。わしは吉村を見殺しにした。一国と替えてでも殺してはならぬ、かけがえのない男の命を、見殺しにしてしもうた。とり返しのつかぬ退却をしてしもうた」  慟哭《どうこく》するわしを扶《たす》け起こし、子供は着物の袖で瞼を拭うてくれた。 「泣かねで下んせ。南部も会津もこたびの戦には敗け申したが、決して賊軍ではござりませぬ。ともに義のために戦い申しました」  わしは去りぎわに、若侍の名を訊ねた。愛らしく賢いその南部の子は、「原」と名乗ったが、貴公はどう思われる。  さて——胸のつかえがおりた。  今宵は飲み明かそうぞ。さあ、飲め。肴は何もないが文句は言うな。  酒は会津の大銘物、飲むほどに酔うほどに甘くなる—— [#改ページ]  みつや——  いよいよ腹ば切ろうと思うて座《ねま》ったとたん、お前《め》のおもかげが胸にうかんでしもうた。  母《かが》様も嘉一郎もまだ見ぬ|赤ン坊《おぼつこ》も、ご苦労さんでござんした、心おきなく見事に腹ば切って下されと言うてくれるのに、お前だけが了簡してくれぬ。  父《とど》様、死なねで下んせとお前ひとりが泣く。  男親にとって、まこと娘とは始末におえぬものでござるな。叩《はた》くわけにもいかぬ。大声で叱ることもできぬ。宥《なだ》めすかしながらただおろおろと、泣きやむのを待つしかねのす。  はや八つになりあんしたなあ。さぞかしめんこい娘っ子に育ったことじゃろう。おぼっこのころから六年もの間、抱いてやることもできず口を吸うてもやれず、すまながったな。  お前の自慢話を始めると、新選組のお仲間たぢはみな、「またおみつの話か」と言うて笑う。「ほんの赤子のころに別れたきりの娘の話が、よくもまあ尽きぬものじゃな」とな。  みつや。  父《とど》はの、お前が可愛《めご》くて仕様《しや》ねかった。子を捨てておきながらこんたなことを言うても、お前は信じもせぬじゃろうが。  お前のことを、父は一日たりとも忘れたためしはながった。妙《ひよん》たな話じゃが、お前とだけは六年の間、かたときも離れず、ともにいたような気がしてならぬ。それぐらい父は、いつもお前のことばかりを考えておった。  男親にとっての娘とは、そんたなものよ。  んだからのう、おみつ。  父は八つになったお前の顔を、よおく知っておるのさ。嘘じゃというのなら、教えて聞かそう。  母様に似て色白じゃ。瞼は父に似て二皮目《ふたかわめ》で、目はまんまる。頬は夏でも林檎《りんご》のように赤かろ。八重歯が生えておると思うんじゃが、どったであろうな。  国を出ると決めてから、父はお前の顔ば見ると、泣けて泣けて仕様ねかった。何とかお前ひとりを背負うて行ぐことはできねもんかと、思い悩んだものじゃ。  毎夜、お前は父が抱いて寝たった。  それにしても、よう泣ぐ子じゃった。男なら叩《はた》きもしようが、叩くどころか大声で叱ることすらできぬ。わけもなく夜泣きするお前を抱いて、父はただおろおろと、上田の御組丁を行きつ戻りつするほかはながった。  宵っぱりの向かいの婆《ば》さまには、「吉村先生はおみっちゃんを嫁こさ出したら、腹ば切ってしまうのではねのすか」、などと笑われたものよ。  たしかに婆《ば》さまの言うた通りになってしもうたが、ちと早かったの。  のう、みつや。  お前《め》は父《とど》の顔も姿形も、よもや覚《おべ》てはおるまい。小さな体のどこかに、せめて温《ぬぐ》もりだけでも覚てはいねだろか。いつか惚れた男に抱かれるまで、覚ていてくれねだろか。  嫁こさ行って、ようやく父の温もりを忘れるのであれば、有難えことじゃと思う。さすれば向かいの婆さまの言うた通り、父はお前を嫁こさ出して、腹ば切ったことになるべさ。  外はさらさらの凍《すば》れ雪になりあんした。こうして畳に座《ねま》り、耳こさ澄ましておると、盛岡におるような気がしてならねのす。  囲炉裏《いろり》ばたで、母《かが》様は大きな腹ば抱えて手内職に精を出し、兄者はちんまりと座って論語の素読ばし、父はお前を膝の中であやしながら、兄者の声に耳ば傾けておる。  ああ、嘉一郎の声が聴がさる。 「子|曰《のたまわ》く、富貴《ふうき》は是れ人の欲する所なり、その道を以てこれを得ざれば拠《よ》らざるなり。貧と賤とはこれ人の悪《にく》む所なり、その道を以てこれを得ざれば去らざるなり」  父が脱藩を決意したことをば、賢い兄者は知っていたに違《つげ》えねな。そんたなこと、面と向こうて父に訊ねるわけにはいかぬゆえ、夜ごとその一節をばくり返し読んで、父を諫《いさ》めておったのじゃろう。  じゃがのう、みつ。  父は人の道をば踏みたがえてでも、富貴を欲したわけではねえぞ。貧と賤とを、徒《いたず》らに悪《にく》んだわけでもねぞ。お前たぢが贅沢はせずともせめてひもじい思いをしねのなら、父はあんたな大それたことをば、するはずはながった。生涯《しようげえ》、二駄二人扶持の足軽で良《え》がった。  野心が何もねがったといえば嘘になる。だども、あの年の冬だけァ、無事に越せるはずはねえと思うた。銭こさえあれば、はたから何と言われようが人は死なねで済む。よしんば武士を捨て、雫石の在所に身を寄せても、銭こさえあれば何とでもなる。お前たぢを生かすも殺すも、父の肚《はら》ひとつじゃと思うた。  父は盛岡が好きじゃった。江戸詰であったときも、盛岡より江戸のほうがええなどと思うたことは、ただの一度もねがった。いつも、お前たぢの待つ盛岡に帰《け》りてと思い続けていたった。  その父が、あえて盛岡ば捨てねばならねがった気持ちをば、察して呉《け》ろ。父は二駄二人扶持の小身者《こもの》でも、お前たぢと仲良く暮らしていけるのならば、それで良《え》がった。  出立の朝も、さらさらの凍れ雪が降っていたった。  暗えうちにそこっと起き出して、身仕度ば整え、お前たぢひとりひとりの寝顔ば見た。  母は藁蒲団の端ば噛みしめて、忍び泣いておった。吉村貫一郎は妻子を置き去って逐電したということにしねば、累が及ぶやも知れぬと思うたゆえ、送る言葉は無用と、きつく申し付けておったからじゃ。  出がけに、土間に座《ねま》った。なにゆえそんたなことをいたしたのかはわからぬ。われながら思いもかけず、気がつけァ土間に座って頭ば下げておった。  しづ。嘉一郎。みつ。そして、まだ見ぬおぼっこ。  わしは生きんがために国ば捨てるが、お前《め》たぢを捨てるわけではねぞ。  あれが脱藩者の妻よ子よと後ろ指ばさされるじゃろうが、いっときのことじゃ。わしは一所懸命に働いて、必ずや銭こば送るゆえ、しばし辛抱して呉《け》ろ。  母《かが》は奥の間で藁蒲団にくるまり、父《とど》は土間に座って頭ば下げたまま、たがいに忍び泣くばかりの別ればいたした。  父はそのとき、はっきりと気付いたのよ。  わしの主君《あるじ》は南部の御殿様ではねがった。御組頭様でもねがった。お前たぢこそが、わしの主君じゃ、とな。  何となれば、わしはお前たぢのためならば、いつ何どきでも命を捨つることができたゆえ。さしたる覚悟もいらず、士道も大義もいらず、お前たぢに死ねと言われれば、父は喜んで命ば捨つることができたゆえ。  んだから、お前たぢこそがわしの主君に違《つげ》えねと思うた。  女房に忠義を尽くすなど、人が聞いたら笑うじゃろう。じゃがわしは、心の底から感謝ばしておった。有難えことじゃと思うた。  男が惚れた。惚れて、惚れて、この気持ちどうしたら良《え》がんすべと思い続けるほど、惚れぬいておった。そのうえ、こんたなめんこい子らを産んでくれた。  のう、みつや。  お前の母様は、二駄二人扶持の足軽の女房なれど、千石もののおなごじゃぞ。  あのとき、父が土間に頭ばこすりつけて別れば告げたのは、脱藩の非を詫びたのではねがった。しんそこ有難えと思うたからじゃった。  わしは命ばかけて働ぐことができる。何の脇見もする要はねえのさ。おのれの生ぎる道に、何の疑いも持つことはねえのさ。男として、こんたな有難え道はなかろう。  未練ば断ち切って外さ出れば、上田の御組丁にはさらさらの凍《すば》れ雪が降っておりあんした。  本街道に沿うて、上田の桝形から城下へと続く、まっすぐな道。足軽たぢが身を寄せ合うて暮らす、清らかな小道じゃった。  生まれ育ったふるさとの雪が、父を責めた。  なしてお前さんは国ば捨てる。ひもじいのはどの家も同じじゃろう。んだば、なしてお前さんだけが御組丁をば捨てる。盛岡をば捨てる。見てみよ、どの屋敷にもお前さんと同じ立場の足軽が住もうておるのじゃぞ。忠義の道を以て貧と賤とに甘んずる足軽たぢが、どの家にもおるのじゃぞ。  そんたなことはわかっておった。わかっておるからこそ父は、切《せづ》のうてならなかった。  早足で歩き、正覚寺へと曲がる辻のあたりだったべか、「父上、父上、お待ち下んせ」と小声で呼びながら、嘉一郎が後を追うてきた。  雪闇から現れた嘉一郎は、小さな体にしっかとお前を抱きかかえていた。  何かを言わねばならなかった。じゃが、唇が凍えついてしもうた。 「見送ってはならぬ。帰《け》れ」  と、ようやく言うた。 「はい。見送りは致しませぬ。したども父上、今いちどだけ、みつを抱いてやって下んせ。大好きな父上が、別れも告げずにいなぐなったのでは、みつがあまりに不憫でござんす」  兄者はの、みつ。父の心残りをば察してくれておったのじゃ。  嘉一郎は掻巻にくるんだお前《め》を、わしに差し向けた。  お前は小さな掌を伸べて、父の頬に触れてくれた。そして泣かずに、「とど」と言うてくれた。  それは、お前がおぼっこの時分、まっさきに覚《おべ》た言葉じゃった。涙が出たった。お前は頬から顎へと伝い落ちるわしの涙を、小さな掌で掬《すく》い取るようになぞりながら、何度も、「とど」と呼んでくれた。  わしはたまらずにお前をかき抱き、顔を舐め、口を吸い、声ば上げて泣いた。 「父上、泣かねで下んせ。晴れの門出に、ご無理ば申し上げ、おもさげなござんした。んだば、これにて」  兄者は泣かながった。唇ばしっかと引き結んで、お前を父の手から抱き戻すと、たしかに見送りもせず、家へと戻って行った。  わずか十歳の嘉一郎の後ろ姿が、立派な南部武士に見えた。  ふしぎなものじゃ。降りしきる雪はそれきり、父を責めることがなぐなった。むしろ、心おきなく行かれよと、耳元で父を励ますようにすら聞こえたった。  さあて——  夜もすっかり更け申した。そろそろつまらぬ愚痴はやめにして、さぱっと腹ばかき切って死ぬるか。  じゃじゃじゃ……これはしたり。巾着の中に銭こばへえっているでねのすか。伏見奉行所を打って出るとき、頂戴した銭こをばすっかり忘れておった。  ひの、ふの、み。よォ、いつ、むう、なな、や、ここのつ、とお。二分金が十枚も。  弔いに遣うていただくべか。おのれの懐からおのれの棺桶代を出すのも、何だか妙《ひよん》たな話だけどねえ。  弔い代といやァ、地料道具代、供養供物で一両がとこが相場でがんす。穴掘り人足が二人で二分。しめて一両二分もあれァ、御の字じゃろう。  釣りをもらうにしても、もらう本人が仏では仕様《しや》ねな。んだば、釣りは蔵屋敷のお仲間たぢに、お清めということで良《え》がんすか。じゃがそれも、迷惑料みてえで気が引ける。酒もさぞかしまずかろ。  いっそのことわしの体なんぞは淀川に投げるか、そこいらの無縁墓にうっちゃらかすとして、この銭こは国元の妻《かが》に届けてはもらえまいか。二分金の十枚と言やァ、五両の大金でござんす。  んだども、まさか表座敷まで這って行って、次郎衛《じろえ》殿にかくかくしかじかとお頼み申《も》すわけにもいがねえな。  いんや。もうじき腹ば切って死ぬ者に、見栄も外聞もながんす。いっときは盛岡まで這ってでも帰ろうと思うたのじゃから、表座敷までの廊下を這って行けねえはずはねえ。  次郎衛殿はじめ御重役のみなみな様は、さだめし仰天するじゃろうが、お頼みしてみるべ。命がけの頼み事であることぐれえは、どなた様にもひとめでわかり申そ。  どれ。  あ痛たた、すっかり血が出きってしもうて、腰が立ち申《も》さぬ。這ってでも。這ってでも……。  おお、雪じゃ。  わずかの間に、真綿のごとく御庭を埋めてしもうた。まるで盛岡にいるみてえな、さらさらの凍《すば》れ雪でござんすなあ。  さよう。ここはきっと、大坂などではねえのさ。  わしは、奥州街道を江戸より歩き詰めて、盛岡さ帰《けえ》りあんした。上田には最早《もは》、戻る家はねがらね、北山の報恩寺の羅漢堂にでも転がりこんで、匿《かくも》うていただいておるのじゃろう。  暗え雪空に、杉木立が見える。羅漢様が、貫一、お前《め》さん何ばしてきた、そんたな血だらけのなりで、よもや殺生ばしてきたわけではあるまいな、などと口を揃えて言いなさる。  申しわけながんす、羅漢様。わしは京にて、殺生ばいたしてめえりあんした。日ごろ藩道場の子らには、剣は武士の魂ぞ、人ば斬る道具ではねえぞ、などと偉そうなことをば言うておりながら、わしは銭このために、何の恨みもねえ人を大勢|殺《あや》めあんした。  さようか、貫一。んだば、潔う腹ば切れ。人殺しの恥ば雪《すす》ぐには、最早、それしかねぞ。  ははァ、有難き幸せにござんす。  羅漢様に言いつけられたのであれば、南部の侍として、これにまさる幸せはねえな。  いま少し、障子に倚《よ》りかかって、雪ば見るべ。盛岡の夢ば見さしてもらうべ。  みつや——  父《とど》は腹ば切って死んでも、お前のそばにおるからな。嫁入りのときにァ提灯ばかかげて、お前の足元ば照らすからな。  そればかりではねぞ。父は三国一の婿をば、必ずやお前に添わし申そ。  銭のあるなしなどはどうでもよい。強うて、潔うて、やさしうて、何よりもお前のことば、命をかけで惚れぬく立派な婿殿を、必ずや添わしてやるからな。  婿殿が岩手山《おやま》なら、お前は姫神山じゃ。  あの四季折々にうっとりと見惚れるほどの姫神の山のごとく、美しく気高いおなごになり申せ。  そして、あっぱれな婿殿に抱かれたその夜からは、錦旗に弓引いて腹ば切った父のことなど、きれいさっぱり忘れて呉《け》ろ。  父はこれより、血ばはっ散《つ》らがしてくたばるまで、お前の名前を千べん呼び申す。  お前を捨てたわしをば、「とど」と呼んでくれたお前の名をば、万べんも呼び続け申す。 [#改ページ]  前略  煩雑な時候の挨拶はお許し下さい。  たびたびご書簡を頂戴いたしながらお返事も差し上げず、ご無礼いたしました。  一、多忙  一、筆不精  一、旧事不顧の信条  一、家人の反対  以上四項目が、ご無礼の理由です。  外来診療をおえ、入院患者のベッドを一巡いたしますと、夜も更けてしまいます。そのうえ毎夜一人や二人の急患が診療所の扉を叩きますので、まんじりとすることもできません。閑《ひま》を見つけまして、お知らせできる限りのことを書こうと思います。  つまり、私もさまざまの|逡 巡《しゆんじゆん》のあげく、さきの四項のうち三項までを解決してお返事をしたためるわけなのですが、あいにく残る一項目につきましては未だ家人の了解を得てはおりません。したがいまして、私の書簡に対する質問、御礼状等は今後一切お出し下さらぬようお願いいたします。  何ぶん、家人は私の妻にして看護婦、事務員まで兼ねておりますので、書簡はすべて私に先んじて開封いたします。  ちなみに、家人の言をそのまま借りますれば、 「貴方は他のことなぞ何も考えずに、病気や怪我を治していればいいのです。他に取柄は何もないのですから」  ということになります。  至言であります。四十数年も連れ添いますと、私自身よりも私のことを良く知っている。たしかに私は、病人の脈をとることの他は何ひとつとして取柄のない町医者であります。  以上、甚だ手前勝手な都合ですが、ご承知おき下さい。万がいち家人が臍《へそ》を曲げれば、去る日露戦役以来、ここ奉天市|四平街《しへいがい》に診療所を構えまするわが奉天大野医院も、たちまち閉業のやむなきに至りますゆえ。  ここ数日、満洲名物の蒙古風が立ちまして、奉天の町は黄砂におおわれております。  患者には室内の湿度の保持と、嗽《うがい》の励行を口やかましく言っておるのですが、どうやら満洲の人たちにとっては歳時記の程度であるらしく、かえって日本人の老婆心を笑われます。  目を上げれば、四平街は降りしきる黄砂にくるまれ、行きかう人々も、驢馬《ろば》も荷車も、みな朧《おぼ》ろげにかすんでいます。黄色い街灯の光の中を、それらが現れ、また消えて行くさまは何か走馬灯でも眺めるようで、なかなかロマンチックなものです。  私、大野|千秋《ちあき》は六十三、妻は五十五になりました。  残る人生は最愛の妻とともに、この満洲の大地にて使い果たそうと思います。  吉村貫一郎先生について知りたいという、貴方からの突然のお手紙をいただいたときは仰天しました。  たちの悪いいたずらかと思い、また何かの謀略ではないかとさえ考えた。それくらい動顛《どうてん》したのです。  どう考えてみても、あの方が歴史的な調査に値するとは思えない。小説や講談や芝居の素材になるはずもない。明治維新から五十年も経って、なぜ今さらあの方の名前が出たのか、私にはふしぎでならなかったのです。  再び家人の言を借りれば、 「これはきっと、貴方を快く思わぬ、薩長軍閥の陰謀よ。そうにちがいないわ」  ということになります。で、とりあえず触らぬ神にたたりなし。お返事は見合わせることとなった次第。  家人の言については、多少の説明を加えねばなりますまい。  お調べの通り、私の父親は旧南部盛岡藩の重臣で、大野次郎右衛門と申します。私もまた、大野家の嫡男として嘉永六年、西暦でいう一八五三年に、盛岡で生まれました。  いわゆる明治維新の年には、私が算《かぞ》えの十六、父は三十五であったということになります。  戊辰の戦で南部藩は朝敵とされ、父は賊将として捕えられて、明治二年の冬に刎首《ふんしゆ》されました。  私がその年のうちに盛岡を去って上京いたしましたのは、生まれ故郷にすら身の置きどころがなくなったからです。父はそれくらい、旧藩士の人々からも憎まれていたのでした。家老の楢山佐渡《ならやまさど》様をそそのかし、最悪の結果を招いた張本人として、父は刎首されたばかりか、藩士領民の恨みすら一身に負ってしまったのです。  父の死後、母と幼い妹たちは花巻の親類に身を寄せ、私は東京に出ました。ご書簡にありました幼なじみの桜庭《さくらば》弥之助《やのすけ》君より二年ほど早い上京でした。  明治初年の東京では、ともかく薩長出身の俄《にわか》役人が幅をきかせておりまして、私どもはたいそう肩身の狭い思いをしたものです。たとえば下宿ひとつを探すにしても、会津や南部の出身者にはそうそういい顔で貸してはくれない。天子様に逆らった朝敵という、まあそれも新政府のプロパガンダにはちがいないのですが、誰からも白い目で見られたものでした。  幸い東京には、父が大坂蔵屋敷の差配役をいたしていた関係で、何人かの頼るべき知己がおりました。むろん、私はその方たちを存じ上げませんでしたが、父は生前にあらかじめ何通もの書状を用意して、私に託しておいてくれたのです。  父は私とちがい、すこぶる筆まめな人でした。書状の中味を読んだわけではありませんが、要するにかくかくしかじか、倅を頼むという依頼状です。  事情はどなたもわからぬはずはない。しかし、その事情が事情ですから、できることなら関わり合いになりたくないというのが、書状を受け取った方々の本心であったにちがいありません。  所在がわからぬ方もおり、きっぱりと断わられる方もおり、すでにお亡くなりの方もいらっしゃいました。  札差商人、旧大藩の勘定方、廻船問屋等々、要するに父の仕事の関係上、利にさとい方が多いわけですから、未だ世情混沌として行方の定まらぬそのころ、賊軍の首魁《しゆかい》の嫡男と聞けば、尻ごみするのはけだし当然というべきでありましたろう。  他人はとやかく申しますが、私の父は南部武士を絵に描いたような、律義で几帳面な人物でした。しかもその仕事ぶりはすこぶる合理的で無駄がなく、要するに今日の役所や会社でいうなら、「仕事のできる男」でした。  依頼状は囚われの身であった盛岡の寺で書かれたものなのですが、宛先人の意思を確かめることのできぬ至極一方的な頼み事なので、五通を用意し、承諾の可能性が高そうな順に、番号をふった付箋が付けてありました。つまり、まず「壱」の宛先人を訪ね(この方は旧越前松平藩の勘定方でしたが、すでに亡くなっておられました)、了承されれば以下の四通は破棄する。その方が駄目なら二番目、三番目というふうに次々と訪ねて行け、ということです。  この方法ひとつを考えましても、父という人がいかに結果を重んずる、当時の侍としては珍しい合理主義の人物であったかがわかろうというものです。  二番目の宛先人は蔵前の有力な札差でしたが、会ってももらえませんでした。  三番手は徳川御三卿一橋家の御家臣。すでに駿河台猿楽町の屋敷を引き払って所在不明。  このあたりになると私にも焦りが生じてきました。父は先方の性格や交誼《こうぎ》の親密さや立場等を考えに考えぬいて付箋の順番をつけているのでしょうから、順位が下がれば当然承諾の可能性も低くなる。仮に承諾していただいたところで、その分無理を言っていることになります。  四番目の宛先人は本所深川の廻船問屋で湊屋と申しました(あえて実名をお書きするのは、未だに私の肚《はら》にはこの人物に対する意趣があるからです)。  そのころになりますと、私はすでに路銀も尽き果てており、右も左もわからぬ東京をあちこちと訪ね歩いて、疲れ切っていました。どうかご想像なさって下さい。盛岡の国表《くにおもて》しか知らぬ田舎者の青年が、朝敵の汚名を着、父は首を刎ねられて御家は断絶、遺書のごとき依頼状をひとつずつ反古《ほご》にしながら、見知らぬ東京を彷徨《さまよ》っているのです。  湊屋は紀州藩や伊達藩の御用を預かっていたという大店《おおだな》でした。同じ大店でも二番目の札差は、仕事柄のせいでしょうか、左前になっている感じがし、門前払いも無理からぬ気はしたものですが、湊屋は様子が違いました。うまく新政府の御用にありついたものか、それとも廻漕店という仕事のせいか、時代が変わっても見るだに活気がありました。  この機を逃せば生きて行く方途はないというほど、私は思いつめており、すっかり気も弱くなっていました。奥座敷に通され、湊屋の主人が父の書状を読んでいる間、私はずっと頭を下げ続けていたものです。  時は明治二年、私はまだ髷《まげ》を結《ゆ》い、刀を差し、湊屋の主人も江戸の豪商のいずまいそのままでした。つまり、浪々の身とはいえ二本差しの武士が町人に平伏して、ともかく東京で暮らしの立つよう面倒を見てくれと頼んだのですから、私もよほど進退きわまっていたのでしょう。  書状を読みおえた主人は、こんなことを言った。 「いやァ、これは往生いたしましたな。たしかに手前どもは、お父上様にはずいぶんお金儲けをさしていただきましたがね。そうは言っても、天子様に弓を引いたというのはうまかない。ましてや大野様はその科《とが》で首を刎ねられちまったとか。切腹すら許されぬ天下の大罪人でござんしょう。つれない返事で申しわけございませんが、手前どもとしては、鶴亀鶴亀と手を合わせたいぐらいの気持ちでございますよ」  耳慣れぬ江戸前の符牒《ふちよう》にとまどい、はてこの返答は是か非かと考えこんだものです。今にして思えば、ひどい断わり方でありました。 「ともかく、今日のところはこれで了簡なさい」  と、主人はかねてから用意していたように、剥き出しの太政官札を差し出しました。 「強請《ゆすり》ではござらぬ。御免」  私は太政官札を踏みつけて席を立ちました。強請あつかいされた上に、薩長政府の金を差し出されたのです。  さて、それからどうしたのか——ともかくやり場のない怒りと絶望とで、目の前が真暗になり、これほどの侮辱を受けても使い途《みち》がないのなら、刀など差していても仕方がないと思いました。  小川町の道具屋で刀と脇差を売り払い、得た金で髪結に寄って、髷を落としました。たしかその日のうちであったと思います。  私は父を尊敬しておりました。遺言はしかと胸に刻みつけていたのです。 「意趣返しは武士の誉《ほま》れではねえぞ。怒りはおのれで噛み潰さねばならぬ。いかな理不尽といえども、噛んで呑み下せばおのれの力に変わる。ええな、千秋。おのれも南部武士ならば、すべての憤りはおのれの滋養と心得て生きよ。命ば無駄にするではねえぞ。遣うべきときに無駄なく遣え。その使い途は二つしかねえ。一つは民草《たみくさ》のために捨つること。今一つは、義戦にて死することじゃ。ええな」  私は父の遺言をいくども反芻《はんすう》し、思い定めて、武士の魂たる刀を売り、髷を落としたのです。ここは死場所ではないと思ったからです。合理主義者の父が私の立場に立てば、やはりそうしたであろうと思いましたから。  民草のために命を捨てる。義戦にて死す。  私が砦とするこの四平街の診療所は、父の遺志にたがわぬ武士の死場所だと信じています。  五通目の——つまり最後の一通を携えて宛先人を訪ねたのは、その翌《あく》る日の夕刻でした。  刀を売り、髷を切った私の姿は、おそらく浮浪者のようであったと思います。身ひとつで盛岡を出てから、すでに一月が過ぎていました。  下谷広小路から上野の山下をめぐると、御徒士《おかち》長屋が続きます。幕府の御徒士では、とても食客を置く余裕などあるまいと思ううちに、家々のたたずまいはいっそう様子が悪くなる。道を訊ねながら幡随院《ばんずいいん》の裏手に回りますと、貧しい長屋ばかりがぎっしりと軒をつらねていた。折しも時刻はたそがれ時で、あたりには腐臭が漂い、空気はどんよりと濁っておりました。こうなると事態は絶望的で、宛先人に会っても仕方がない、やめておこうとまで考えたものです。  威勢のいい大商人の湊屋が四番手であったのはなぜかというと、つまり金銭的な余裕はあるが人間的な信頼度には少々疑問がある、と父が判断したからにちがいありません。だとすると、腐臭漂う破《や》れ長屋に住む五番手とはいったい何者だ、ということになります。宛名には、「江戸下谷山崎町二丁目 鈴木文弥殿」とありました。  身を晒すだに怖いような長屋の奥へ奥へと進み、いくらか安心できそうな子守女に「鈴木文弥」なる人の所在を尋ねますと、女は欠けた前歯を剥き出して、 「ブンさんなら、そこの三軒目。急病じゃなかったら、よしにしたほうがいいよ。ヤブだから」  と、答える。こういうわけならば手紙など見せず、挨拶だけして引き揚げようと思ったものでした。  時節はまだ春だというのに、件《くだん》の藪医者は浴衣がけで酒を飲んでいました。 「なんと。次郎衛《じろうえ》殿の倅かい。まんず、たまげるでねか」  南部訛が懐かしかった。そしてそのゆったりとした物腰や、目鼻立ちの大きい、いかにも人畜無害の風貌は、紛れもない南部人のものでありました。  勧められるままに、未だ覚えきらぬ酒を飲みながら、私は父の顛末を語りました。しばらく話が進むと、医者は盃を置き、浴衣の前を整えてきちんと座り直したのです。 「そんたなこと、なんも知らながったす。酒ば飲みながら聞く話ではねえな」  しんみりと腕を組み、時おり浴衣の袖で瞼を拭いながら、医者は私の話を聞きおえました。 「時にお前《め》さん、江戸さ出てきて何ばしておられる」  実は行くあてもないのだと、私はありていに言いました。むろん、この貧乏医者の世話になるつもりなどなく、父の手紙を差し出す気にもなれなかった。 「んだば、木賃宿になぞおらずに、身の振り方が定まるまでここに住もうて呉《け》ろ。御高知《おたかち》の若様にゃたまらねえかもしれねえが、わしも西洋医学ば修むる医者のはしっくれじゃから、三度の飯ぐれえは食わせ申そ。そうでもせねば、わしは冥土の次郎衛殿に顔向けばできぬ。さんざんに世話ばかけて、何の恩返しもできなんだゆえ。のう、そうして呉ろ」  お頼み申す、と医者は私より先に頭を下げました。  それが私の生涯の恩師、鈴木文弥《すずきぶんや》先生との出会いだったのです。  鈴木文弥先生のご生家は百石格の御徒頭《おかちがしら》でした。  天保二年の卯《う》のお生まれでしたので、私の父や吉村貫一郎先生よりも三つほど年上にあたります。だとすると、初めてお会いしたそのころは未だ四十前だったということになりますが、それにしてはひどく老けた、ともすると五十すぎの老人にさえ見えたものでした。もっとも、先年八十歳の天寿を全うされるまで、その印象はほとんど変わることがありませんでしたが。  部屋住みの次男坊であった鈴木先生は、藩校での成績がよほど優秀だったのでしょうか、長じて江戸への遊学が許され、そのころ神田佐久間町|向 柳原《むこうやなぎはら》にありました幕府の医学館で西洋医術を修められたのです。さらに選抜されて長崎に数年間学び、江戸に戻って幸橋門内潮見坂下にありました南部屋敷に御典医として召し抱えられたところまではよいのですが、若い時分からの道楽の虫がいよいよ昂じまして、江戸詰の御重役方をさんざ困らせたあげくに逐電。下町に潜って気楽な暮らしを過ごすうちにほどなく御一新ということになり、そのまま天下御免の町医者になってしまったのでした。  先生が私の父に対して感じていた恩義というのは、そうした放蕩無頼の時分に、あれやこれやとかばいだてをされたり、借金の後始末をしてもらったからなのでした。私の父は謹厳な外見に似合わず、案外面倒見のよい人物でありました。  ただし誤解のないよう言っておきますが、鈴木先生は名医でした。初めてお訪ねしたとき、長屋の子守女が「ヤブ」呼ばわりしましたのは、親しみのこもった東京流の洒落なのです。鈴木先生は貧乏長屋の誰からも神の如くに慕われ、かつ、愛されたにもかかわらず、自らを神とすることを潔しとはしなかった不世出の名医でありました。  患者から「先生」と呼ばれることを嫌い、「ブンさん」と呼ばれておりました。  薬品の処方に関しては漢方蘭方に精通した内科医であり、ひとたびメスを握れば目を瞠《みは》るほど鮮やかな手術をする、素晴しい外科医でもありました。  そして、生涯を愚直に生きつつ、断じておのれの節を曲げぬ、南部武士の典型でした。  貴方からのたびたびのご書簡について、家人が「薩長の謀略ではないか」などとあらぬ疑いを懐《いだ》きましたのは、このような出自経歴を持つ私どもからいたしますと、あながち冗談とは言いきれぬのです。  戊辰《ぼしん》の戦において奥羽越列藩同盟に伍《くみ》し、新政府軍に対抗いたしました国は、当初三十余藩を数えましたが、時局の推移とともに多くの藩が同盟から離脱し、寝返りました。ですから同盟諸藩の中には朝敵の汚名を着るどころか、寝返った後の戦功により加増されたり、何の処罰も受けなかった藩も数多いのです。  ではいったい、何を以て朝敵とするのかと申しますと、まず京都守護職として長州藩を弾圧した会津藩、江戸薩摩藩邸を焼討ちした庄内藩、戦の矢面《やおもて》に立って新政府軍と激しい戦をした長岡藩、二本松藩、そして盟約を守ってそれらとともに最後まで戦ったいくつかの藩が、事実上そのように決めつけられたのです。  私ども盛岡南部藩も、同盟を脱した隣国秋田を激しく攻め、津軽とも戦い、会津が陥落するまで列藩の盟約を守り続けたわけですから、朝敵の汚名は免れませんでした。  戦後、私どもはみな朝敵の烙印《らくいん》を押されたまま、白眼視され、ことあるごとに差別を受けなければならなかったのです。  とりわけ明治の初年には、教育の現場においても私どもに対する差別はあからさまでした。他人に倍する努力をして、誰も文句をつけられぬほどの成績を修め、尚かつ薪《たきぎ》に臥し胆を嘗《な》める忍耐を続けねば、我ら「賊軍」の子弟が世に出ることはできなかったのです。さきにお訪ねになられた桜庭弥之助君、政友会の原|敬《たかし》総裁、農政や教育の分野で活躍する新渡戸《にとべ》稲造博士など、みなそうした努力と忍耐の結果、今日かくあるのだということをどうかご理解下さい。  ある新聞社の社説が原総裁の人となりを「南部の負けじ魂」と評しておりましたが、私どもにしてみればそれほど簡単に言ってほしくはない。いかなる理不尽も噛んで呑み下し、すべての憤りをおのれの滋養と心得て、私どもはみな言うに尽くせぬ努力と忍耐とを重ねて参ったのです。  おそらくは、父が私に言い遺したと同じことを、どなたのお父上もそれぞれの子らに言いきかせたのではありますまいか。あの戦で死に損ね、朝敵の汚名を蒙った南部の子らは、みな命の捨てどころを知っております。それは不断の努力によっておのれの命の値打ちを高めたのち、民草のために死することです。義の戦のために死することです。矜《ほこ》り高き南部の子らは誰ひとりとして、畳の上にて安逸な死を迎えたいなどとは思っておりません。  明治元年九月二十四日、すなわち南部藩が降伏をしたその日、私どもはみなそれぞれ、いったんは腹を切ろうと決めたのですから。  鈴木文弥先生の助手として数年間医術の手ほどきを受けたのち、私は本郷元町に開設された済生学舎に入学を許されました。  当時、医師になるためには大学の医学部を卒業するほかに、医術開業試験を直接受験するという方法があり、済生学舎はいわばその受験のための医学校でした。  この私立学校はわずか三十年たらずの間に、一万人近くの医師を世に送り出したのですから、明治期の開業医中の最大勢力であったと言ってもよろしいかと思います。帝大医学部卒の高邁《こうまい》な医師たちとは別に、済生学舎は一万人の町医者を明治の世に送り出したのでした。そしてその学生たちの多くは医師の書生から叩き上げた若者で、なかんずく朝敵の汚名を蒙った旧藩の子弟たちも大勢いたのです。  済生学舎の創立者である長谷川泰先生をご存じでしょうか。先生は会津とともに朝敵中の朝敵とされた、越後長岡藩のご出身です。北越戦争では長岡藩の藩医として従軍なされた方でした。  明治新政府は多くの医師を世に送り出すことを急務としてはおりましたが、また反面、済生学舎とその卒業生は、帝大閥の牛耳る医学界においては徹底的に差別され続けていたのです。  たとえば、研究医としての活躍の場を与えられずに勇躍渡米して功名を遂げた野口英世君などは、その顕著な例といえるでありましょう。思えば彼も、「朝敵」会津の生まれであります。  母校済生学舎が突然と閉校いたしましたのは、さる明治三十六年のことです。専門学校令の公布にともない、当然のごとく大学への昇格を申請したにもかかわらず、なぜか許可を得られなかったのです。  つまり、一万人の町医者を世に送り出したのだから、その役目は終わったのだという、政府と医学界との非情な判定が下されたのでした。  どうかその折の、私や同窓生たちの憤りをご想像下さい。  そのころには下谷の鈴木医院も、三十床のベッドを持つ診療所に発展してはおりましたが、治療代もままならぬ貧乏長屋の住人ばかりを相手にしている私どもの労苦は、並大抵のものではなかったのです。鈴木先生は相変わらず患者さんたちから「ブンさん」と慕われ、私は小柄な体のせいか、あるいは「千秋」という名前のゆえか、「ちいさん」と呼ばれておりました。  ちなみに、長らく私の看護婦を務めております家人も、いまだに私のことを「ちいさん」と呼びます。  つまり家人は、その間に鈴木先生や私がことあるごとに受け続けてきた差別を、つぶさに見てきておるのです。貧しい人々の病を癒し、傷を治すことのほか物を考える余裕のない医者よりも、むしろ冷静に医者の労苦を観察してきたのでしょう。  貴方のご書簡を読んで、「これはきっと薩長軍閥の陰謀にちがいない」と家人が口にしたのも、あながち冗談ではないのです。  私が明治二十七年の日清戦役に、俄《にわか》軍医として駆り出されましたのは四十二の齢でした。いや、駆り出されたというのは少々語弊があります。臨床経験の少ない帝大出や軍医学校出の医者に、傷ついた兵士たちの命を預けるわけにはいかぬと思ったのです。  そしてもうひとつ、決して口には出せなかった理由がありました。私は「官軍」の軍医として、戦に従軍したかったのです。  すでに下谷の鈴木医院には済生学舎出身の後輩たちも勤務しておりましたし、さりとて私には独立開業するだけの資金もなく、そうしたさまざまの理由を考えましても、軍の要請に応えることが最善の方法であると信じました。  出征に際して、酒を酌《く》み交わしながら鈴木先生はこのようなことをおっしゃった。 「ちいさん。わしが甲斐性のねえばかりに、お前《め》さんに苦労ばかけて申しわけながんすな。この通りじゃ」  そう言って頭を下げて下さった先生の白衣は血のしみに汚れており、老いたお顔は日々のお仕事に疲れ切っていた。 「したども、ちいさん。戦に出る兵隊はみな百姓の次男坊や三男坊でござんす。支那の兵隊も同じでござんすべ。どうかどうか、お前さんの力で、ひとつでも多くの命ば救うて下んせ」  先生の笑顔の向こうに、私はそのとき荒涼たる南部の冬の大地を思いうかべました。  飢饉《ききん》がくれば飢えて死ぬほかはない百姓たち。そして領民の労苦を決しておろそかにはせぬ、生真面目な南部の侍たち。文明開化の荒波の中で長らく忘れていたおのれの出自を、私はそのとき改めて思い出したのでした。  忘れかけていた南部訛で言葉をかわしながらしたたかに酔い、酔うほどに涙が流れて仕様がなかった。  鈴木先生のお顔が、済生学舎の長谷川先生のお顔に変わり、やがて父の顔になり、そしてもうひとり——忘れてはならぬもうひとりの恩師のお顔が瞼に甦ったのでした。  辛夷《こぶし》の花が咲く春の初め、その人は藩校の子らを引率して東の岩山に登った。そして城下を見はるかす山の頂で、私たちにこう諭したのです。 (ええか、みな良ぐ聞け。南部盛岡は江戸より百四十里、奥州街道の涯《はて》ゆえ、西国のごとき実りはあり申さぬ。おぬしらが豊かな西国の子らに伍して身をば立て、国ば保つのは並大抵のことではねえぞ。盛岡の桜は石ば割って咲ぐ。盛岡の辛夷は、ほれ見よ、北さ向いても咲ぐではねえか。んだば、おぬしらもぬくぬくと春ば来るのを待つではねえぞ。南部の武士ならば、みごと石ば割って咲げ。盛岡の子だれば、北さ向いて咲げ。春に先駆け、世にも人にも先駆けで、あっぱれな花こば咲かせてみよ)  思えば、御一新の戦よりこのかた、手ひどい差別を受け続けた南部の人々は、ひとりひとりが石を割って咲かねばならぬ桜でありました。 「けっぱれよ、ちいさん」  と、鈴木先生は私の頭を、子供のように撫でて下さいました。  頑張ってきたと思った。またこの先も、頑張っていけると思いました。頑張って、頑張って、この体がばらばらに砕け散ってしまうまで頑張れると思いました。民草のために命を捨てることができると、義のために死することができると思った。  私はようやく言った。 「鈴木先生、わしは頑張らしてもろうたです。南部の子らはみな、原君も桜庭君もみな、石ば割って咲ぐ桜のごとくに頑張らせてもろうたです。わしらは朝敵でも賊軍でも良《え》がんすのす。民草のために、義のために、立派な花こば咲かせてみてえと思いあんす」  鈴木先生は相好を崩して、満足げに笑って下さいました。  ただいま家人が、突如として紅茶を運んで参り、私をうろたえさせました。  手元の書簡が貴方宛のものであるとは、気付かなかったようです。  続きはまた日を改めて書こうと思いますが、もし万々が一、連絡の途絶しましたときは、家人に見咎められて叱られたのだと思って下さい。  私は日清戦役、北清事変、日露戦役と、三つの戦に従軍したのち、戦場となった奉天の町に居据わって診療所を開設いたしました。こういう身勝手な男に付き合わねばならぬ家人の苦労を、どうかお察し下さい。  私どもは明治七年の夏に、鈴木文弥先生の媒酌で結婚をいたしました。私が二十二、妻が十四のときであります。  子供は三人もうけましたが、不幸にして長男は早逝し、無事に育った次男は母校済生学舎を出て、現在は東京で病院勤務をいたしております。末娘は御茶の水の女子高等師範を出て教員となり、先年遅ればせながら同業の教員と結婚いたしました。姉さん女房の共働きという、大正新時代を絵に描いたような所帯であります。  子供らには、「父母は死んだものと思え」と言っておるのですが、その死んだはずの父母に、佃煮だの梅干だの餅だの米だのと、たびたび海を越えて送ってくれるのはまことに有難い限りです。  吉村貫一郎先生のことについてお答えしようと思いつつ、私事ばかりを長々と書きつらねてしまいました。  しかし、私の人生を語らねば、吉村先生の話はどうとも始まらぬのです。手順を考えますと、どうしてもこのような体裁になります。思うところをとりまとめながら、このさき何通かの書簡で、私と吉村先生との関わりをご理解願えれば幸いに存じます。  先生と私とは、わずか算《かぞ》えの十歳の齢にお別れしたきりなのですから、何を面倒なとお思いのことでしょうが、実はそののちにも深い因縁がございまして、一言でのっぺりとお話しするわけにはいかないのです。  はてさて、またしても廊下から家人の声がかかりました。 「貴方《あなた》、いいかげんにしてお休みにならないと、お体に障りましてよ。さ、寝ましょ、寝ましょ」  いくつになっても愛らしい女であります。私よりも背が高く、体も頑健で、決して塞ぎこむということがありません。いつもにこにこと笑う顔が、すっかり地顔になっております。  そのくせ——ここだけの話ですが、結婚以来ずっと、私の腕の中でしか寝つくことのできぬ甘ったれです。支那人たちはそんな家人を、「光太太《グアンタイタイ》」と呼んで母のごとくに慕っております。  夜もすっかり更けました。近いうちに続簡をしたためたいと思います。  今日のところは、このあたりでご容赦下さい。 [#地付き]草々   大正四年五月吉日   奉天市四平街にて [#地付き]大野千秋  前略  このところ奉天には質《たち》の悪い感冒が蔓延いたし、多忙にかまけてなかなか筆の執れずにおりましたことをお許し下さい。  春の短い満洲ではすでに初夏の陽気ではありますが、今年はとりわけ黄砂がひどく、遥かなゴビ砂漠から吹き寄せる蒙古風のおさまらぬうちは、この質の悪い流行《はや》り風邪も鎮まらぬようです。  入院は気管支炎や肺炎を併発した重症患者に限っておりますが、それでも病棟は満床で、私どもの住居の温床《オンドル》の上にまで筵《むしろ》を敷き、臨時病棟としておる始末です。  しかし有難いことに、昨日張作霖将軍の格別のおはからいで大連から多くの医薬品が届き、野戦病院さながらの診療所も一息つきました。ことに、荷の中には独逸《ドイツ》軍からの鹵獲《ろかく》品と思われる薬品が含まれており、さっそく解熱剤を使用しましたところ、覿面《てきめん》たる効能を顕《あら》わしました。  東京で病院勤務をいたしております倅にサンプルを送り、簡単な手紙を添えたとたん、貴方へのお便りの続きも思い出した次第です。  幸い家人も、疲れ果てて寝入っております。  私の父大野次郎右衛門と吉村貫一郎先生の関わりについて、知る限りをお伝えしておきましょうか。  二人はともに天保五年、西暦でいえば一八三四年の午《うま》の生まれでした。思えば父親二人が同い齢、嫡男である私と吉村嘉一郎君もまた嘉永六年の同じ生まれで、何かしらそのあたりにも両家の浅からぬ因縁を感じずにはおれません。  父はもともと祖父の嫡出子ではなく、いわゆる「御脇腹」でありました。  大野家は藩祖南部信直公以来の古い家柄で、禄高も四百石取りという立派なものではありましたが、だからといってむやみに妾を持ってよいというわけではありません。藩のお定めにも「妾は猥《みだ》りに相成らず事」という条文があり、ましてや祖父には嫡出の男子がすでにいたのですから、「御脇腹」の存在は少なくとも公然のことではなかったのでしょう。  父はその幼少時代を、盛岡城下の与力小路というところで過ごしたそうです。いったいに盛岡の御城下では、何々小路と名の付く町は上士の居住区で、何々組丁と呼ばれるあたりは足軽同心の住む町とされておりましたが、なぜ妾と庶子とが与力小路に囲われていたのかは知りません。妾、すなわち私の実の祖母が、ある程度の格式のある上士の娘であったのか、あるいは世間体を|慮 《おもんぱか》ってそこに住まわせていたのか、はたまたたまたまのことか、いずれにせよ八十年も昔のこと、今となってはどうでもよい気がいたします。  吉村貫一郎先生の生まれ育った上田組丁と与力小路とはほんの目と鼻の先で、二人はともに赤沢塾というそのあたりの寺子屋に通う幼なじみでありました。  父が大野の家に迎えられましたのは十三の齢であったと聞いておりますから、逆算いたしますと弘化三年ということになります。私の伯父にあたる嫡男が突然の病で亡くなり、ゆくゆく女子に婿を取るよりは庶子を迎え入れて家督を継がせようということになったのでしょう。  その当時、御譜代世襲の家柄の嫡男は、元服をおえるとまず御近習として御城に上がり、二十歳を過ぎれば早くも父に代わって御役を継ぎましたので、十九歳の跡取りを突然失った大野家は相当に困惑したはずです。ましてや日蔭者の身から急遽四百石取りの若様となった父のとまどいは、いかばかりであったことでしょうか。  父は決して愚痴を言わぬ人でしたが、のちのち周囲の人々の口から洩れ聞くところによりますと、祖父は父をたいそう厳しく躾け、また生《な》さぬ仲である祖母や伯母たちも、父には相当に辛く当たったということでした。  性格とは裏腹な、一見して冷酷非情と思える父の印象は、おそらくそうした少年時代の労苦のなせるものだったのではないでしょうか。私も幼い時分の記憶として、父が祖父母から、まるで揚げ足を取られるような叱られ方をしていたことをよく覚えております。  ただし祖父母は初孫の私を、それこそ目に入れても痛くないほど可愛がりました。今にして思えば、「御脇腹」の出自である父は大野の家を絶やさぬための暫定的な当主で、私こそが正統の嫡子だという考えが、祖父母にはあったのかもしれません。  そうした成育環境のせいで、父は些細な立ち居ふるまいにも、言葉づかいのいちいちにも、むろん仕事ぶりにも、一点の瑕瑾《かきん》すらない完全さを持っていたのでしょう。そうした人格は、周囲から見ればまことに頼り甲斐のある侍であったことでしょうが、またその反面、人間味に欠ける冷徹な印象も与えたと思われます。父が御一新の折に、かつてはあれほど信頼を寄せられていた人々から、一転して恨み憎しみのことごとくを蒙りました理由も、つまりはそうした性格によるものなのです。  ただし、亡き父の名誉のためにこれだけは申し上げておきますが、父は決して冷酷非情な人間ではなかった。他人に対してはすこぶる思いやりのある、無私の精神を持った、心やさしい人物でありました。  たとえば、こんな記憶があります。  父は毎朝身仕度を斉《ととの》えると、奥座敷に隠居する祖父母に登城の挨拶をし、畳廊下をまっすぐに玄関へと戻ります。その廊下の角もまるでいったん立ち止まるような感じで直角に曲がるのです。それから玄関の敷台で、刀を母の手から受け取ると、まず正面からの立ち姿を検《あらた》めさせる。次に九十度体を回して横からの姿。そして後ろ向き。 「よろしゅうござります」  と母が言うと、父は「よし」と肯《うなず》く。  履物を履く前に、自分の手で鼻緒をぐいと引いて様子を確かめることも忘れません。袴の筋を指先ですっと延ばし、羽織の袖口を握ってぽんと突く。そして大小の刀を差すと、敷石の上を威風堂々、門に向かって歩き出すのでした。  父は身長が四尺八寸五分、足袋《たび》の大きさが九文三分という、当時の侍としても小柄な体格でしたが、小さな体を大きく見せる居ずまいや挙措動作を心得ておりました。目覚めてから玄関を出るまでずっと、表情は厳《いかめ》しい鷲か鷹のごとくでした。  父には佐助という中間《ちゆうげん》が常に付き従っており、父が歩き出すと控えていた駒繋《こまつなぎ》のあたりから走り出て、必要な道具の入った風呂敷包みを受け取り、荷物の多いときには手早く挟箱《はさみばこ》に担いで後を追います。  父の登城というのは、子供の目から見ても一種の厳粛な儀式でした。  むろん私も母のかたわらに膝を揃えてお見送りするのが習わしでしたが、あるとき何かの拍子に、佐助の後ろから門の外まで付いて行ってしまったことがあったのです。たぶん父が歩き出したとたんに、誰かに呼ばれた母が玄関からさがってしまったのでしょうか。私は中間を従えて堂々と歩いて行く父の後ろ姿を、かねがね見届けたいと思っていたのです。  ところが父を追ってこっそり門先から様子を窺った私は、そこでまことに思いがけない光景を見てしまった。  小路に面した表門は立派な長屋門で、向かって右側が中間の住まい、左側には「おばば」と呼ばれていた正体不明の老婆が住んでおりました。  この老婆は厠《かわや》を使うときと、人の寝静まった夜更けに真暗な下湯殿《しもゆどの》につかるときのほかは、まったく長屋門の自室から出ずに日がな機《はた》を織って暮らしているという、謎の人物でありました。  門を出ると、中間の佐助は父を追い越して小路のずっと先まで歩き、挟箱を肩に担いだまま向こうを向いて屈みこんだ。 「母上」  と、父が|おばば《ヽヽヽ》の部屋を背伸びするように覗き込んで声をかけた。そう、たしかに「母上」と言ったのです。  じきに、|おばば《ヽヽヽ》の皺だらけの手が窓格子を握った。 「お変わりございませぬか。何か欲しいものがございましたら言うて下んせ」  |おばば《ヽヽヽ》は何もないというようなことを呟き、早く行けというふうに掌を振った。 「んだば、母上。これをば召し上がって下んせ。食いごろの茱萸《ぐみ》の実にござんす」  柱の蔭からその様子を覗き見てしまった私は、わけがわからなくなりました。 「不自由ばおかけして、申しわけながんす。お許しえって下んせ。では、これにて」  父は半歩下がると、小さな体をいっそうちぢかまらせるようなお辞儀をしました。そういう父の姿を見るのも初めてでした。 「お静《すず》かにお出んせや。体ば気をつけてな」  |おばば《ヽヽヽ》ははっきりとそう囁きかけました。父は深く長いお辞儀をして、何ごともなかったかのように歩き出しました。  そのとき、小路の先で立ち上がった佐助が、私を見つけてしまったのです。佐助はアッと声を上げ、振り返った父もたいそう愕《おどろ》いた顔をいたしました。  父は私を手招いた。駆け寄りながら振り向いた窓に、もう|おばば《ヽヽヽ》の姿はありませんでした。  とまどう私の肩を抱き寄せ、早足で歩き出しながら、父はきっぱりと、しかもわかりやすくこう諭したのです。 「千秋。今しがた見聞きしたことは、お前《め》の胸にしまっておけ。ええな」  私は、はいと答えて肯いた。 「じゃが、父は何も悪いことをしたわけではねえぞ。奥の間におられる婆様《ばさま》は、お前の婆様ではねえのじゃ。お前のまことの婆様はの、長屋門に住もうておる、あの|おばば《ヽヽヽ》じゃ」  とたんに私は、血の気を失ってその場に倒れそうになるほど愕いた。しかし、しばらく父に支えられて歩くうちに、ふしぎな気分になったのです。何だかとても嬉しくなった。  どう表現したらよいのでしょうか。つまり、それまでは怖くて偉いばかりの人であった父が、急に近しい人に感じられたのです。  あの日を境に、私にとっての父は「怖くて偉いが、実はとてもやさしい人」になりました。むろん私に対する父の態度が変わったわけではありませんでしたが、私はその日から父を、心底尊敬するようになったのです。  科人《とがにん》として歴史に葬られてしまった父ではありますが、書面を以て一言、老いた倅の口から申し上げます。  大野次郎右衛門は私が六十二年間の人生の中で出会った誰にも増して、心根のやさしい人物でありました。  正体のままにやさしい男であることを、周囲の誰もが許さなかっただけです。その卓抜した能力と識見が、やさしくあることを断じて許さなかったのです。  時代からは不倶戴天《ふぐたいてん》の朝敵とされ、同胞からは鬼よ蛇よと罵られて首を刎ねられた父を、私は衷心より尊敬しております。  誰が何と言おうと、大野次郎右衛門の真実の苦悩を知っておりますのは、私だけでありますから。  父は蹄《ひづめ》に踏みしだかれた路傍の花を見つけても、袖に隠れてひとり涙するほどの、やさしい人でありました。  さて、吉村貫一郎先生と父との関わりを書こうとすれば、話の順序としてこの「|おばば《ヽヽヽ》」の存在が欠かせないのです。  私が藩校に通い始めるずっと以前から吉村先生は毎日のように、私の家の長屋門に住む|おばば《ヽヽヽ》のところに通っていたのです。  お勤めの帰りにひょっこりと立ち寄り、|おばば《ヽヽヽ》の部屋に小一時間もいて、またいつの間にか帰って行く。  はて、何のためにそのようなことをしていたのかは、今さら見当もつきません。  父が、なせぬ親孝行のかわりを吉村先生に依頼していたのかもしれませんし、あるいは幼なじみの母親の不自由な暮らしを慮って、吉村先生が毎日の話し相手になっていたのかもしれない。むしろその両方と考えるほうが正しいような気もいたします。  ともかく吉村先生は、|おばば《ヽヽヽ》の無聊《ぶりよう》を慰めるばかりではなく、織り上がった紬《つむぎ》を城下の問屋に届けたり、必要な品物を買ってきたり、いろいろと身の回りの面倒を見ていて下さっていたのでした。  いくら幼なじみとはいえ、父は四百石取りの御組頭であり、吉村先生は二駄二人扶持の組付足軽です。親しく口をきくことなどは決して許されません。ですから、|おばば《ヽヽヽ》のことについても、おそらく城下のどこかでひそかにおち合うか、藩道場の稽古の折などを利用して話し合っていたのではないでしょうか。 「母上のこと、いつもいつも申すわけねえな、貫一」 「なんの、次郎衛《じろえ》。お前《め》さんの母者《ははじや》はわしの母者も同しでござんす」  そんな会話を交わしながら酒を酌む二人の姿が、胸にうかんでまいります。  もうひとつ、吉村先生の思い出といえばこんなこともあります。  先生はご家族を連れて時折、私の屋敷に貰い湯にいらしたのです。他の組付《くみつき》同心が来たという記憶は余りありませんので、そのあたりは幼なじみの誼《よし》みだったのでしょうか。  屋敷には湯殿が二つあり、一つは玄関を入って畳廊下を左にぐるりとめぐり、祖父母の隠居部屋のさらに奥にある上湯殿。ここは檜《ひのき》造りの立派な湯殿で、私ども家族の使用するものでした。もう一つは下湯殿と申しまして、玄関から矢弓立てに沿って右に向かい、下居《しもい》と呼ばれた板敷の先の、若党部屋のそばにありました。造りは粗末ですが五、六人はいっぺんに入れるほど広くて、こちらは家来や使用人たちの専用です。むろん吉村先生のご一家が貰いにいらっしゃるのは、下湯殿のほうでした。  吉村先生が貰い湯にいらしたと知れば、私はこっそり居間を抜け出して、下湯殿に行き、一緒に風呂に入れていただいたものです。楽しみは二つ。一つは同い齢の嘉一郎と湯をかけ合って遊ぶこと。もう一つは、まるで人形のように美しい先生の奥様に、体を洗っていただくことでした。  まったくここだけの話ですが、私の初恋の女性というのは、南部小町と謳《うた》われたあの奥様かもしれません。  興に乗ってつい筆が滑りました。このような筆跡が家人の目に触れたらと、考えただけで鳥肌が立ちます。  ところで湯を出ますと、必ず行事がありました。  私と嘉一郎、そして私の姉妹たちが下居の炉端に座り、吉村先生の指導で読み書きの勉強を始めるのです。今から考えますと、どうやら先生ご一家の貰い湯と、その特別講義とはお対《つい》の行事であったような気がします。  吉村先生は貰い湯の見返りに半刻の学問を授けて下さる、大野家の家庭教師でもありました。  父が江戸詰を仰せつかって国元を留守にしておりましたのは、私が七、八歳のころであったと記憶しております。  吉村先生も父に従って江戸に上り、藩から推挙されて、神田お玉ヶ池の玄武館で北辰一刀流を修められたとのことでした。その頃玄武館の隣には瑶池《ようち》塾という学問所があり、道場に通うかたわら勉学に励むこともできたそうです。足軽の身でありながら、吉村先生が文武両道に卓越しておられたのは、おそらくこうした機会を逸することなく、一心に努力なさったからだと思われます。  江戸詰をおえて国元に戻るとじきに、吉村先生は藩校明義堂の助教となり、同時に藩道場で御師範の代稽古を務めるようになりました。  武家の子弟が文武の道をともに修めねばならぬのは当然のことですが、えてして学問に秀でた者は文弱であり、また剣術の達者には武骨が多いものです。そもそも武士とは、軍人と行政官とを兼ねていたわけですから、吉村先生のような人物は誠に得がたい、理想の武士であったことになります。  しかし、私の記憶に残る吉村先生は、貧乏足軽の標本のごとき人でありました。飢渇《きかつ》続きで藩の財政も逼迫《ひつぱく》していたあのころ、満足な御役料もいただけなかったことは、いたしかたなかったのかもしれません。封禄の切り下げや借り上げ、つまり一方的な減給や給与遅配が、毎年のように行われていたのですから、それ以下に減給のしようもない足軽に対して、格別の御役料を与えることはできなかったのでしょう。いいように使われていた、などとは言いたくありませんが。  それにしても、よくよく考えてみれば比類のない人物でありました。  人間にはそれぞれ与えられた環境があり、その中で相応の努力をすれば、自他ともに良しとするものです。ましてや昔の武家社会においては、いかに努力を積んだところで超えることのできぬ身分の壁があったのです。  その常識で言うならば、足軽は寺子屋に通って読み書きの一通りを学べばそれでよい。武術についても、藩の古武道である諸賞《しよしよう》流を通りいっぺんに修めればそれでよかったのです。  吉村先生は、努力が必ずや報われると信じていらしたのでしょうか。努力によっていかんともしがたい身分の壁を打ち破り、吉村貫一郎という個人が、吉村の家にまつろう宿命を超越できるのだと信じたのでしょうか。  結果はどうあれ、そうと信じて努力を重ねた吉村先生は、比類のない人物でありました。その魂を学んだればこそ、先生の教え子たちはみな御一新ののちに、常識ではできもせぬことをなしとげたのだと思います。 「南部の子だれば、石ば割って咲け」という吉村先生の訓《おし》えに支えられて、誰もが努力を重ねることができたのです。  今はこの異境の診療所を家人とともに守り抜くことだけが、私の務めであると信じております。支那の人々を同じ人間だと思わぬ帝国軍人たちや帝大出の医学者たちに、こんな方法で抗い続ける私を、貴方は愚か者だとお笑いになるかもしれません。  しかし誰に何と言われようが、私は石を割って咲く南部の子であります。  考えるばかりではなく、考えを書き留めるというのはいいことですね。  書簡をしたためながら今ふと、大変なことに気付いてしまいました。  吉村先生がなぜあれほどに、報われることのない努力を重ねられたか、ということについて思い当たったのです。  私の父と吉村先生とは、幼いころ上田の赤沢塾で竜虎と称えられるほどの、出来のよい子供であったそうです。仲のよかった二人は切磋琢磨《せつさたくま》して、学問に励んだのでしょう。  その一人が、ある日突然に御高知の跡取りとなってしまった。吉村先生にとって、これほどの理不尽はなかった。  四百石取りの上士といえば、上田組丁の足軽たちにとっては雲の上の人なのです。ましてや吉村の家は、大野の組付足軽三十人のうちなのですから、いずれ二人は主従の関係となります。  多感な十三歳の少年はこのとき、石を割って咲くことを考えたのではありますまいか。いつの日か藩政の場で、再び父と競い合うことを夢見たのではないでしょうか。そして、涙ぐましい努力を始めた。  そう考えますと、ひどく話の辻褄《つじつま》が合うのです。  ほどなく吉村少年は、上士の子弟しか通うことのできぬ藩校での聴講を許されます。むろん正規の生徒ではない聴講生というような立場で、教本も与えられなかったそうです。  当時の教場は、床の間を背にした助教の左側に十三畳の細長い座敷があり、そこに南部家御家門の若様方と、御高知の子弟が座る。一段下がった三十六畳の広間に、一般の生徒が机を並べるのです。  吉村先生は早朝から、教場の裏続きにある助教たちの詰所で下働きをし、廊下の拭き掃除をおえてから聴講を許されたのでした。むろん席などはなく、教場の外廊下に、きちんと正座をして講義を聴いていらしたそうです。  そのようにして身につけた学問であるから、吉村の教えには万にひとつも誤りはない、講義は心して聴け、と父は常々申しておりました。  おそらく父は、そうした吉村先生を畏友《いゆう》として、内心尊敬していたのではないでしょうか。しかし二人の間には、いかんともしがたい身分のちがいがあった。父は敬意も友情も、あらわにしてはならなかったのです。  なぜ私が、父と吉村先生との関係をこれほどはっきりと言うことができるのか。その種明かしをいたしましょう。  少年時代の父と吉村先生との関係は、そっくりそのまま、私と吉村嘉一郎君の間にも再現されていたからなのです。  私にとって吉村先生の嫡男嘉一郎君は、心底尊敬に値する、かけがえのない親友でありました。  父は子の範となり、子は父を範とすることが、武家社会のうるわしき伝統でした。すべての形において一子相伝とでもいうべき連鎖によって、「家」と「個」とは形成されていたのです。  明治、大正と急速な西洋化をめざすあわただしい世のうつろいにつれ、子供の教育は学校と母親の手に委ねられた観がありますが、武家の時代においては少なくとも男子の教育のほとんどは、責任を以て父親がこれに当たっておりました。そうしなければ、「家」というものを保つことができなかったのです。  したがってどこの家でも、男子は父親によく似ておりました。  自分の言動について、「父ならばどうするのだろう」「父ならば何と言うのだろう」と逐一考える。一事が万事そういう具合ですから、長じるにつれて誰もがいよいよ父親に似てくるのです。  三十も半ばになって父の享年を越してしまったとき、私は初めて父を喪ったような気分になったものでした。  鈴木文弥先生の口癖によれば、私は「気味が悪いほど次郎衛殿に生き写し」だそうですが、その伝で言うのなら私の目から見た吉村嘉一郎君など、幼い時分から気味の悪いほど吉村先生に生き写しでありました。  嘉一郎君はその短い人生の間ずっと、縁《えにし》の薄かった父を慕い続け、敬い続けていたにちがいありません。  吉村先生が意を決して脱藩なさった日のことは、まるで古写真でも見るようによく覚えております。  小雪の降る寒い朝、まだ薄暗いうちに、私は時ならぬ祖父の怒鳴り声で目を覚ましました。  寝所としておりました隅の間の襖のすきまから、隣の居間を覗き見ますと、病に臥《ふ》せっていた祖父が床《とこ》の上に身を起こして、たいそうな剣幕で父を叱りつけていたのです。父はすでに手甲脚絆《てつこうきやはん》をつけた追手の身仕度を斉《ととの》えており、前かがみにうなだれて、火鉢の熾《おき》を掻いておりました。  祖父が父を叱る光景は見慣れておりましたが、そのときの祖父の憤りは尋常ではなく、またふだんですと神妙に叱られている父が、どことなく開き直っているふうに見えたのが印象的でした。 「足軽ふぜいがなにゆえ立派な道中羽織を着、公用手形まで持って関所を越したのか、誰か親しい者が手引きをしたとしか思えぬ」  というようなことを、祖父は咳こみながら言っておりました。  父が祖父に口応えをしたのは、少なくとも私の記憶では後にも先にもその一度きりです。 「吉村は尊皇攘夷の志士たらんとして脱藩したのです。義を見てせざるわけには参りませぬ」 「何が尊皇攘夷じゃ。食うに困って逐電したにちがいない」  そのような言い争いが長く続きました。  のちのち考えれば、父は嘘をつき、祖父の言い分は正しかったことになります。子供心にはもちろん、父の主張を信じてはおりましたが。  やがて父は、捕方姿の若党を引き連れて屋敷を出て行きました。大騒ぎではありましたけれど、馬に跨《またが》った父の表情にも、追手の若党たちの顔にも、さほどの切迫は感じられませんでした。よもや尊皇攘夷の志を以て出奔した侍に、お縄をかけて引き戻すような真似はするまいと、私も考えたものでした。  門を出たあたりで、父は見送りに出た私にこう言ったのです。 「千秋。吉村先生は義のために国ば捨てたのじゃ。難しい理屈は言わんでもええ。もし万が一、藩校にて嘉一郎が責めを受くるようなことがあれば、お前《め》は身を以て嘉一郎ば守れ。嘉一郎が腹ば切ると言うのなら、お前もともに腹ば切れ。ええな、決して友の難儀をば、指くわえて見ておるではねぞ。父も貫一のためだれば、いつでも命ば捨て申す。お前も嘉一郎のために命ばかけ申せ。これは組頭と組付足軽のことではねぞ。竹馬の友だれば当然のことじゃ」  まるで塀ごしの祖父に向かって言うような大声でありました。いや父は盛岡の城下に向かって、いかんともしがたい武家社会の矛盾と理不尽とに向かって、そう叫んだのかもしれません。  小雪の降る小路を、父は栗毛馬の腹を蹴って駆け去って行きました。  さて、私はいったい見も知らぬ貴方に、どこまでをお報《しら》せせねばならないのでしょうか。  筆まめな人であった父の魂が、筆無精の私に宿ってこのような長い手紙を書かせているとしか思えません。それとも、とうとう筆まめなところまで、父に似てきたのでしょうか。  桜庭弥之助君とともに関わり合いました幼い日の出来事は、雄弁家の彼の口からすでにお聞き及びのことと思います。しばらく筆を擱《お》き、黄砂の降る四平街の灯を眺めながら、私しか知らぬ記憶の扉を開くことにいたしましょう。  実は——思い出すまでもない瞭《あき》らかな記憶があるのです。  私が、あのかけがえのない竹馬の友と、どのような別れをしたのか。誰にも語ってはいないその日のことを、できるかぎり正確にお伝えしたいと思います。  それは慶応が明治と改まった御一新の年の冬、すなわち奥州列藩の最後の砦であった盛岡城が降伏の白旗を掲げた年の、師走のころでありました。  終戦と同時に父は賊軍の首魁《しゆかい》として捕縛され、江戸に送られました。屋敷は閉門となり、進駐してきた官兵が昼夜を分かたず見張りを立てていたのです。  科人の屋敷のありかを示す篝火《かがりび》が、閉ざされた門の外に灯り始める、夕暮れどきであったと思います。日ごろから私ども家族の身の上を案じて、何やかやと親切にしてくれていた若い将校が、勝手口からそっと私を呼んだのです。  私はすでに元服をおえた、算《かぞ》えの十六でした。はて、その将校はいったいいくつだったのでしょうか、洋式軍服にシャ熊を冠った、私とはいくつも違わぬ剽悍《ひようかん》な若侍であったと記憶しております。  ただし言葉が皆目通じなかったのにはたがいに閉口しておりました。そのときも、勝手口の戸からシャ熊をつき入れて私を手招き、しきりに何ごとかを囁くのですが、これがまったく通じない。いったい何ごとであろうと土間に下り、勝手口から外に出かかって、私は立ちすくみました。  うっすらと小雪の積もった裏庭に、嘉一郎が佇《たたず》んでいたのです。旅仕度の袴の腰に、小さな妹がしっかりとしがみついておりました。  私の愕《おどろ》きはただごとではありません。何しろ新選組では人斬りと呼ばれて怖れられた吉村先生の子供らです。官軍はそれこそ血まなこになって、吉村先生とその家族の所在を探索していたのでした。  ましてや、嘉一郎は秋田戦争では大手柄を立てたとのもっぱらの噂で、官軍からすれば親子ともども憎い仇にちがいありません。 「遠縁の者でござんす。面会ばお許しえって下んせ」  言うが早いか、私は嘉一郎の腕を掴んで家の中に引き入れました。  もしかしたらあの官軍の将校は何か感づいていたのかもしれません。いや、あの嘉一郎のことですから、門前で堂々と姓名を名乗ったかもしれない。しかし武士の情けというものを知る彼は、あたりに気をとめながら嘉一郎の背を押し、安心せよ、というようなことを言ってくれました。  使用人たちには暇を出し、屋敷の中はがらんと静まり返っておりました。下居《しもい》の炉端に座ると、嘉一郎は妹を膝に抱き寄せながら、懐かしい大野の屋敷を見渡しました。しばらく見ぬ間に表情も居ずまいもすっかり大人びており、いかにも秋田の戦陣を先駆けした若武者の風貌でした。  私が炉の対《むか》いに座ると、嘉一郎は妹ともども姿勢を正して、深々と頭を垂れました。 「挨拶などどうでもええ。こんたな危ねえまねばして、命がいくつあろうが足らねぞ」 「お申しわけなござんす」  嘉一郎は父親に似て、口の重い男でした。しばらく言葉を探すふうをしてから、いきなりこんなことを言った。 「わしはこれより、蝦夷《えぞ》さ下って、箱館にめえりあんす。つきましては大野様、折入ってお頼みごとがござりあんす。お聞き届け下んせ」  私は嘉一郎の決心に動顛しながらも、止めだてするだけの勇気を持ちませんでした。むろん、止める理由もありませんでしたが。 「雫石《しずくいし》の母御は病中ながら、義のために死ねと言うて下さんした。したけんど、妹が承知しねえのす。兄《あに》さんとともに行くのじゃと、この通りわしにかじりついて離れねえのす——これ、みつ。お前《め》、まだわがらねがっ」  泣きながら私を見上げる妹は、母によく似た、愛らしい少女でありました。  前略  先日の書簡は妙なところで突然と筆を留めてしまいました。  あの晩、奉天市郊外の村が馬賊に襲撃されて、時ならぬ多くの負傷者が診療所に担ぎこまれてきたのです。  馬賊という連中はむろん無法者の集団にはちがいありませんが、日本の戦国時代に横行した野武士とは異なって存外義侠心に篤《あつ》く、黙っていくばくかの金を差し出せばさほどの無体は働かぬものなのです。  元来は村々の自警団であったものが遊兵化し、用心棒代だと称して強請《ゆすり》を働くようになった。ここだけの話ですが、今や満洲の実質的支配者である張作霖将軍も、元を糺《ただ》せば馬賊の頭目なのです。  ですから尚更のこと馬賊の跳梁は許せぬというわけで、その夜も報せを聞いて奉天軍の一個小隊が駆けつけ、激しい戦闘の末に多くの戦死者や負傷者を出してしまったのでした。  困ったことに、こうした事件が起きたとき彼らは、軍の病院には行かずにしばしば私のところに来るのです。なぜかと申しますと、負傷者の中には巻き添えになった村人のほかに、馬賊たちも混じっているからなのです。つまり、いったん戦闘に決着がつくと、怪我人は誰彼かまわず手当てをするというのが支那人の考え方であるらしく、かと言って軍の病院に馬賊を担ぎこんだのではうまくないので、町医者を頼ってやってくる。  いやはや、かりそめにも赤十字の旗を掲げる当診療所といたしましては、まさか急患を拒むわけにもいかず、待合室から廊下までを血腥《ちなまぐさ》い野戦病棟に変えてしまいました。  もっとも、彼らが私を頼みとする理由は他にもあります。日清戦役以来、長らく支那の戦場の最前線で治療に当たってきた日本人軍医の腕を、彼らは信頼してくれているのです。  そうしたわけで、書きかけの手紙を封書に押しこみ、翌《あく》る日に郵便局へと走った次第なのです。  万が一、書簡が家人の目に触れようものなら、どのようなお叱りを頂戴するかわかったものではありません。 「一体全体、貴方という人は何をお考えなのですか。ただでさえ猫の手も借りたい忙しさだというのに、手紙なぞお書きになる暇がよくもございますわね。しかも、家の恥を世間に晒したりして。おふざけにも程があります。ああ、情けない」  と、このようになりますことは必定《ひつじよう》であります。  当方の事情を斟酌《しんしやく》の上、ご無礼の段は平にお許し下さいませ。  のっけから甚だ珍妙なる書簡となってしまいましたが、先日の続きを書かせていただきます。  雪の来た冬の初めの一日、吉村嘉一郎君が幼い妹を連れて大野の屋敷を訪れた、という件《くだ》りでありました。  そう——嘉一郎は泣き続ける妹を宥《なだ》めたり叱りつけたりしながら、まこと進退きわまったというふうに、こんなことを言い始めたのでした。 「ごらんの通り、どうとも聞きわけてくれねのす。行かねで下んせと泣き続ける妹を、路端に捨てるわけにもいかず、とうとうここまで来てしまいあんした」  頼み事を口に出しかけて、嘉一郎は俯いてしまった。だが、そのさき彼の言わんとすることは、もうわかりきっていたのです。  雫石から盛岡までの雪の道を、兄妹がどのような思いで辿ってきたのかと考えると、いたたまれぬ気持ちになりました。私にできることなら何でもしてやらねばならぬと思った。 「わしは何としてでも蝦夷さ渡り、もう一働きせねば、このさきおのれの矜持《きようじ》をかけて生きていくことができね、と思い定めあんした。自分勝手なこととは重々わかっておりあんすけんど、お願いであんす。せめて雪の降りやむまで、妹をばお屋敷に留め置き下んせか」  嘉一郎はそう言って頭を下げ、妹はその腕にしがみついて、私を睨み上げておりました。  私はひどくうろたえていたのです。何と表現してよいものやら、ともかく頭の中が混乱してとっさの返答ができなかった。  まず第一に、南部藩はとうに降伏し、開城しているというのに、遥か蝦夷地に渡って意地を貫こうとする侍のいることが衝撃でした。しかもその侍は、私が内心畏敬する幼なじみなのです。  私の胸には、そうした友を誇らしく思う気持ちと、思いとどまらせようとする意思とがせめぎ立ちました。この際、友として、また父祖代々の組頭として、どう対処すればよいのかと迷いました。  それともうひとつ——嘉一郎は嘘をついていると思ったのです。  嘉一郎が参陣しようとしている蝦夷地の戦は、秋田戦争とはちがうのです。いわば藩命に背いてまで武士の意地を貫こうとしているわけで、そのようなことに母親が賛同するとは思えなかった。嘉一郎は母が止めるのも聞かず、あるいは一言の相談もなく雫石を後にしたのにちがいありません。だからこそ、それを知った妹が何とか思いとどまらせようと、懸命に追ってきたのでしょう。  だとすると、妹を説得してたとえ一時でも手元に留め置くには、私もそれなりの肚《はら》をくくらねばなりません。死地に赴く嘉一郎の背中を押したことになるのですから。  そうした思いがあれこれと錯綜したあげく、私は屋敷に居残っていた女中に粥《かゆ》をもてなすよう命じ、ひとり奥居に戻って考えあぐねたのです。  静まり返った座敷にぽつねんと座り、ずいぶんと長い間思い悩みました。  こんなとき、父ならどうするであろうと思った。そのころ父は江戸から盛岡に戻され、城下のはずれにある安養院という寺で沙汰待ちをいたしておりました。できることならばひそかに父の囚われている安養院を訪ねて、訊いてみたいと思いました。  むろん、そんなことはできるはずがない。いや、父に会えぬという意味ではなく、父に相談のできる事情ではなかったのです。  鳥羽伏見の戦で傷つき、大坂の南部屋敷に転げこんできた嘉一郎の父親に対し、断固として切腹を命じたのはほかならぬ私の父だったのですから。  話は少々前後いたしますが、大坂での一件を洩れ聞いたとき、私は父を詰問したのです。  父の強硬な主張により秋田攻めが決定し、戦仕度にあわただしいころのことでありました。 「城中にて噂を耳にいたしあんした。大坂蔵屋敷にての一件につき、皆々様は父上のことをば、鬼よ蛇よと申しておりあんす」  というようなことを面と向かって申しますと、父は眉ひとつ動かさずに、「何のことじゃ」と答えました。 「吉村貫一郎先生のことにてござんす。戦に傷つき、主家を頼って帰参を嘆願なされた吉村先生に向こうて、腹ば切って死ね、座敷だけは貸してやると申されたのは、まことにござりあんすか」 「まことだれば、お前《め》はどうする。師の仇じゃと、この父ば斬るか」 「そんたなこと、わしにできるはずはなござんす。したども、嘉一郎は父上ば、仇と思うやも知れませぬ」 「それならそれでええ」 「そうだれば父上、大坂での一件は噂通りなのでござりあんすな」  父はじっと私を見つめ、一言「まことじゃ」と呟きました。それから、話の矛先《ほこさき》をそらすように刀の手入れなどを始めたのでした。 「そうじゃ。お前にも言うておかねばならぬが、家伝の安定《やすさだ》は今生《こんじよう》の餞別に呉《け》でやったぞ。さすがは大業物《おおわざもの》じゃ、吉村はさぱっと腹ばかき切って果てたわ」  父は懐紙を口にくわえ、家伝の大和守安定ではない別の刀に打粉《うちこ》をはたきながら、こともなげにそう言ったのでした。 「わしは、父上を見損ない申した。父上は鬼でござんす」  私が面罵する間、父は黙って刀の手入れを続けておりました。  そうした経緯を考えてみれば、まさか父に相談をするわけにはいかなかったのです。  奥居でひとり懊悩《おうのう》するうち、私はやがてある重大なことに気付いたのでした。  吉村先生が脱藩をなさったとき、父が私に向かって諭すように言った言葉が、ありありと思い出されたのです。 (千秋。吉村先生は義のために国ば捨てたのじゃ。難しい理屈は言わんでもええ。もし万が一、藩校にて嘉一郎が責めを受くるようなことがあれば、お前《め》は身を以て嘉一郎ば守れ。嘉一郎が腹ば切ると言うのなら、お前もともに腹ば切れ。ええな、決して友の難儀をば、指くわえて見ておるではねぞ。父も貫一のためだれば、いつでも命ば捨て申《も》す。お前も嘉一郎のために命ばかけ申せ。これは組頭と組付足軽のことではねぞ。竹馬の友だれば当然のことじゃ)  大坂で起きた事件の詳細は知らない。しかし、父にはそうしなければならぬお役目上の理由があったのではなかろうか、と私は思いました。  もしそうであったとすると、そのときの父の心中は察するに余りあります。鬼よ蛇よと罵られても、泣いて馬謖《ばしよく》を斬るほかに、父の選ぶ道はなかったのでしょう。世の行く末が混沌として定まらず、まさに五里霧中であった鳥羽伏見の戦の直後、吉村先生は爆弾を抱いて蔵屋敷に転がりこんできたようなものだったのですから。  算《かぞ》えの十六とはいえ父の囚われた今、私は大野家の主《あるじ》でした。御組頭として、また竹馬の友として、このようなとき父ならどうするのでしょう。  戦が終わり、静まり返った御城下にはしんしんと雪が降り積んでおりました。一年ほど前の正月、父もやはり大坂の蔵屋敷で、同じように懊悩したのだろうと思った。  私は肚を決めました。父ならばきっとこうするにちがいないと確信したのです。  奥居を出て、父のように廊下を直角に曲がり、下居の柱の蔭から嘉一郎の妹を手招きました。 「みつ——」  私からいきなり名を呼ばれて、妹はきょとんと兄を見上げました。雫石からの長い道を歩きづめに歩いて、よほど腹をすかしていたのでしょう。兄妹はふるまわれた粥の椀を、胸元に抱きかかえるようにしておりました。  嘉一郎に背を押されて、みつは箸と椀を炉端に置くと、とまどいがちに歩み寄ってきた。 「ここさ座《ねま》れ」  私は炉端に背を向けて廊下に腰を下ろしました。言われるままちょこんと私のかたわらに座ると、みつは肩をすぼめて、粉雪の降りしきる庭を見つめました。つぎの当たった粗末な着物を着、膝の上に揃えた掌は霜焼けに爛《ただ》れておりました。  口元の飯粒をつまみ取り、私は慄《ふる》える肩を抱き寄せた。掌にすっぽりと収まってしまう、小さな肩でありました。  つらいことを言わねばならなかった。 「これから申すことは、組頭からの下知じゃ。お前《め》の家は父祖代々、大野組の組付同心じゃぞ。ええな」 「あい、御組頭様」と、|みつ《ヽヽ》は肯きました。 「お前も知っての通り、南部は不来方《こずかた》の御城をば開いて、薩長に明け渡し申した。武士として、こんたなお恥《しよ》す話はねえ。わしらはみな、命惜しさに降参ばした」  まるで、父が私の口を借りて語っているような気がしました。私はこみ上げる涙を噛みつぶして、雪空を見上げました。 「したども、お前の兄《あに》さはわしらのごとき弱虫ではねえのじゃ。何としてでも武士の道ば貫き、南部侍の魂をば薩長のやつばらに見せようとしておる」  語るほどに悔しさが胸を被いました。肩ごしに振り返ると、嘉一郎は炉端に座ったまま頭《こうべ》を垂れておりました。  ふと、妹が私を見上げて言った。 「んだば御組頭様は、なして兄さとともに蝦夷さ行かねのすか」  言葉は刃のごとく私の胸に刺さりました。 「組頭のわしが藩命にそむけば、ほかの組付同心の立つ瀬がなかろう」  言いながら、これは言い訳だと私は思いました。南部藩が敗れた今となっては、組頭も組付もない。しかし、おのおのの魂が敗れたはずはなく、ましてや嘉一郎と私との友情までがご破算になったはずはないのですから。藩命に言寄《ことよ》せて、私は生き延びようとしているにちがいなかったのです。 「のちのことは心配《しんぺえ》するな。わしは組頭として、お前《め》や母御に不自由はさせぬ。生涯かけて、お前たぢを守る。んだから、みつや。お前もさだめしつらかろうが、辛抱せえ。ええな」  とたんに妹は、体じゅうの悲しみを吐き出すように、大声で泣き始めました。  悲しみには何の理屈もなかった。この妹は心の底から兄を恋い慕っているのだと思いました。行く末の不安も、飢えも、母の病も、おそらく何も考えてはいなかった。ただ、愛する兄を喪う悲しみばかりが、赤子のように妹を泣かせているのにちがいなかったのです。  泣きわめきながら、そのままばらばらに砕け散ってしまいそうな小さな体を、私は胸に抱きすくめました。 「わしはこれより兄者を見送るゆえ、お前はここで待て」  妹は泣きながら、あい、と答えました。呆気《あつけ》ないほどの聞きわけのよさが、組頭の権威の重みによるものだと知ったとき、私は私自身を何たる卑怯者だと思ったものです。  肩を抱き寄せて下居に戻ると、嘉一郎はうなだれたまま何度も、「お申《も》さげなござんす」と言いました。  旅装束の膝元には、金梨子地《きんなしじ》の立派な拵《こしら》えに葡萄色《えびいろ》の柄巻《つかまき》を施した刀が置かれておりました。それは紛れもなく、父が佩用《はいよう》していた家伝の大和守安定でした。  嘉一郎は刀の来歴について何も語らず、私も訊ねようとはしなかった。十六歳の私たちにとって、その話題は余りに重すぎたのです。  弁当と路銀のほかに、何かしら餞別を渡さねばならぬ。私は思い立って奥居に戻り、仏壇から大野の家に伝わる宝物を下げて参りました。  それは、わが家の祖先が藩祖南部信直公より拝領した、御家紋、対《むか》い鶴の昇旗《のぼりばた》でありました。 「こんたなお有難えもの、頂戴いたすなんぞとんでもござんせん」 「いんや。腰抜けのわしらにこそ、今となっては無用の長物じゃ」  このさき大野の家のお宝など、どうなるかわかったものではありません。そして何よりも、矜《ほこ》り高い南部の旗印を掲げるつわものは、もはやこの世に嘉一郎をおいてほかにはいないと思いました。 「何とも、もったいねえことで……」  あとは言葉もなく、嘉一郎は昇旗をおし戴きました。  この男はきっと、対い鶴の旗印を高々と掲げて、蝦夷の戦場を先駆けるのだろうと思いました。そして、私たちがみな畏れ入ってしまった錦の御旗にも怯《ひる》むことなく、南部武士の意地と矜りとを貫くだろうと思った。  ——私はその日、最後の侍を、雪の峠まで送りました。  嘉一郎を長坂の峠まで送ったのは、雪の日のほのかに昏れかかる時刻でありました。  奥街道を北へ下るには、嘉一郎の生まれ育った上田の御組丁を通らねばなりません。菅笠《すげがさ》を冠り、簑《みの》を着ていれば、見知った人に出会ってもそうそう正体はわかりますまいが、嘉一郎はつらい思いをしなければならない。  そこで、正覚寺の門前を抜ける田圃の畔道を通って、私たちは上田の堤へと向かいました。  雪は曠田《あれた》をうっすらと隠すほどに積もっており、建ち並ぶ足軽屋敷の背中を斑《まだら》に染めておりました。  畔道は人に会う気遣いこそなかったが、そのぶん静まり返った足軽屋敷の家並みを、後ろから見続けねばならなかったのです。  生まれ育った家の裏をやり過ごそうとして、嘉一郎は一瞬足を止めてしまった。菅笠の庇《ひさし》を上げて、じっと草葺きの屋根や、庭の柿の木を見上げました。 「のう、嘉一郎。命ば粗末にするでねぞ。もういっぺん、この家《え》さ帰《け》ってこい。秋田でのお前《め》の働きは誰もが知っておるのじゃ。のちのことは、わしが何とでもする」  嘉一郎は唇の端をわずかに引いて笑いました。 「そんたなご無理ば、言わねで下んせ」  未練を断ち切るように、嘉一郎は雪を踏んで歩き出した。そこは、身分の上下もわからぬほんの子供のころ、私たちが蛍や蜻蛉《とんぼ》を追って遊んだ畔道でありました。  私はなぜ、嘉一郎とともに死のうとはせぬのだろうと思いました。まるで他人事のように、どうしてかけがえのない友を死地に追いやるのだろう、と。  なぜ。どうして。  答えはただひとつ、私は死ぬことを怖れていたのです。  父があのようなことになってしまったから私が家を継がねばならぬというのは、理由にもなりますまい。むしろ父の汚名を雪《すす》ぐにしろ、父の志を継ぐにしろ、嘉一郎とともに蝦夷の戦場で死ぬことこそ、最も理に適《かな》う選択にはちがいなかったのです。  私は武士の風上にも置けぬ臆病者でした。 「大野様、みつのこと、かえすがえすも宜しくお頼み申しあんす」  畔道を早足で歩きながら、嘉一郎は振り向きもせずに言いました。  旅立つ兄を見送ろうともせず、炉端に膝を揃えて地蔵のようにじっとしていた妹の姿が胸に甦りました。 「兄の口から言うのも何であんすが、あれは、てえしたおなごでがんす。いってえ誰に似たのだべなあ」  考えてみれば大したものです。女というものはなされるがまま、言われるがままに生きるほかはなかったあの時代に、みつは抗うことを知っていた。おのれの意志で、兄の固い決心さえも変えようとしたのです。 「まこと、強《つ》えおなごじゃな。誰に似たも何も嘉一郎、お前《め》にそっくりじゃ」  やがて私たちは上田の関所を避け、裏道ぞいに庚申の森を抜けました。  長坂の峠までの一里の道中、いったい何を話したものやら——いやたぶん、一声の言葉もかわさずに黙々と歩いたような気がいたします。  そのころ、奥州街道の下りといえば、早朝に盛岡を発って長坂の峠を越え、昼には渋民、夜は沼宮内《ぬまくない》で一泊。二日目は奥中山の峠を越えて一戸《いちのへ》か福岡の泊り、三日目は三戸《さんのへ》、というのが、ごくふつうの行程でありました。  夕刻に盛岡を出た嘉一郎は、夜づめで渋民か沼宮内まで歩いたのでしょうか。  幸い日昏れと同時に雪は已《や》み、長坂の峠に近付いたころには雲も晴れて、月は山の端に隠れてはいたものの、あたりは星明りに照らされておりました。  どうして星空のことなどを覚えているのかと申しますと、道々私と嘉一郎は、子供のように流れ星を探して歩いたのです。おそらくは、切ない会話をかわしたくはなかったのでしょう。だから童心に返って、流れ星を探した。  嘉一郎は父の吉村先生に似て、笑顔の美しい男でありました。その夜も決して淋しげな表情など見せず、まるで物見遊山にでも出かけるかのように、真白な歯を見せて微笑み続けておりました。  もっとも、吉村先生は鼻筋のすっと通った美男でありましたし、御母上様は雫石姉ッ子と謳われた評判の別嬪です。その両親のいいところばかりを合わせた嘉一郎は、今の世ならさしずめ活動写真の俳優のような、とびきりの二枚目でありました。だからと言って、なよなよとした優男《やさおとこ》ではありません。剣術で鍛え上げた立派な体を持ち、面構えはあくまで剛直な、偉丈夫《いじようふ》のふうがありました。  長坂の峠の麓に、黄金《こがね》清水と呼ばれる湧水があります。のちに明治天皇が御巡幸のみぎり、お召し上がりになったというほどの名水です。  私と嘉一郎はその清水のほとりで一息つきました。 「御組頭様。お見送りはここいらで良ござんす。かたじけのうござんした」  このさきどこまで送ろうと、なごりは尽きません。ここで別れようと私も思いました。 「そんだれば嘉一郎。せっかくの黄金清水じゃ、水盃ば交わすべ」 「肝心の盃がござんせん」 「なんもなんも、手盃で良かろう」  私は氷柱《つらら》の下がった岩間に両手を伸べ、清水を掬《すく》い取りました。  ちょうどそのとき、東の山の端から月が昇って、凍えた灌木《かんぼく》の茂みやら雪の道やらを、あかあかと照らし出したのです。掌の中の清水はまこと黄金のごとく輝きました。 「わしの盃ば受けて呉《け》ろ」  私が掌を差し向けると、嘉一郎はにっこりと笑い、指先に唇をつけて水を飲み干しました。 「まさしく黄金の水でごあんすな。んだば、ご無礼ながらわしの盃も受けていただきあんす」  嘉一郎はていねいに手を洗い、一掬《いつきく》の清水を私に向けた。  手に手を添えて今しも清水を飲まんとしたとき、私の体は凍えついてしまったのです。  たくましく思えた嘉一郎の手があまりに細く、清水をたたえた両の|掌 《たなごころ》は、まるで女のようにやさしかった。 「いかがなされあんした、御組頭様。水が汚れておりあんすか」 「そうでね。そんたなことではねってば。お前《め》、こんたな清らかな手で、秋田の戦場ば先駆けたのか。人ばぶった斬ったのか」  私にはとうてい信じられなかったのです。それくらい嘉一郎は、美しく清らかな手をしていた。 「妙《ひよん》たなことば申されあんすな。黄金清水の仕業でござんす。さ、お飲み下んせ」  きっと吉村先生も、こういう手をしていたのだろうと思いました。この手で人を斬り、ついにはこの手でおのれの命を断ち切ってしまわれたのだ、と。  そう思ったとたん、私は清水をたたえた嘉一郎の手を払いのけて、その首にすがりつきました。 「お前の水盃など、わしは受けられねえ。みながみな、命惜しさに降参ばしたのに、なしてお前ばかりが死ぬのじゃ。お前、十六のきょうまで、ええことなぞひとっつもながったろうが。そんたなお前が、なにゆえ死なねばならぬのじゃ」  私が嘉一郎を抱きしめているのではなく、父が吉村先生をそうして抱いているような気がいたしました。おそらく父が大坂の蔵屋敷でできなかったことを、私が嘉一郎にしているのだと思った。  耳元で、嘉一郎の奥歯がぎしぎしと軋《きし》みました。 「ちあき。ちあき」  そのときたしかに嘉一郎は、くぐもった声で私の名を呟いたのです。 「ちあき。ちあき。ちあき」  十ぺんも二十ぺんも、嘉一郎は呪文でも唱えるように私の名を呟き続けた。幼いころそう呼んだきり、長じたのちは封印されてしまった友の名を、嘉一郎は腹の底から絞り出すような声で呼んでくれたのでした。 「千秋。わしが箱館さ行がねばならぬわけを、聞いてくれるか」  嘉一郎の腕が私のうなじを強く抱き寄せました。 「わしの父はの、貧乏に負けて脱藩した。そんでな、わしはその父の送って呉《け》だ銭こで、十六のきょうまで育ち申した。わしの体は汚れておるのよ。はじめは、そんたな飯は食えねえと言うて母上を困らせたった。んだども、腹ばへって、食ろうてしもうた。飯ば食いながらいつも、わしは脱藩者の稼ぎにて育つ、うす汚ねえ人間じゃと思うていた。こんたな恥知らずの汚れ者が、このさき生きておってはならねえのじゃ。そんだれば、わしの選ぶ道はひとつしかねえ。父の罪をば、この汚れた体にて償い申さねばならね」  返す言葉の一言すらも思いつきませんでした。ただただ、私は嘉一郎の腕の中で身をよじって泣きました。 「千秋。わしは虫けらのごとき小身者《こもの》だども、お前のことが大好きじゃった。お前は、父が脱藩したとき、藩校の庭の老松の根方でわしをかぼうてくれた。愛染院の辛夷《こぶし》の下で、百姓のなりばしたわしのために泣いて呉《け》だ。泣き虫は昔も今も変わらねな。さ、そんたなお前《め》と水盃ば交わさねば、わしは死んでも死にきれね。飲んで呉ろ」  私は獣のように声を嗄《か》らして泣き続けながら、改めて目の前に差し出された清水を飲み干した。 「かたじけのうござんす、御組頭様。これで思い残すことは、何もなござんす」  それから嘉一郎は、月明りにしらじらと輝く雪の上を後ずさり、きっかりと腰を折ってお辞儀をしました。  頭《かしら》を上げると背筋を凜《りん》と伸ばし、うって変わった侍の声で、嘉一郎は言った。 「御組頭様に申し上げあんす。吉村嘉一郎は二駄二人扶持の足軽なれど、藩祖公の昔より御代物《おでえもつ》ば頂戴する南部武士にてござんす。こたびの騒動では、御殿様はじめ御家中の皆々様はどんたなことをばお考えか知らねども、わしは南部の侍じゃから、あっぱれ南部武士として死にてえと思いあんす。御意にそむくことでも、士道だれば仕様《しや》ねのす。何となれば、南部の侍は父祖代々、南部の領民より年貢ばいただいてめえりあんした。そんだれば、御殿様がならねえと申されても、わしは南部の誉《ほま》れのために死に申す。百姓領民のためば思うて御城に白旗ば掲げた御殿様のお心は有難えと思うだども、ならば尚更のこと、わしは南部の誉れのために死にてえと思いあんす。んでなければ、飢饉のたびにおのれが飢えて死んでも年貢ば納めた百姓領民に申しわけながんす。南部の百姓からいただいた体は、南部の百姓にお返し申す。南部の人々ば賊とした薩長を、一人でも二人でもぶった斬って死にてえと思いあんす。わしは、痩せても枯れても、南部の侍でござりあんす」  ごめん、と一言力強く叫んで、嘉一郎は峠を駆け下りて行きました。雪を蹴散らし、真白な息を吐きながら、そして二度と振り返らなかった。  堂々たる別れの言葉とはうらはらに、「ちあき、ちあき」と腹の底から絞り出すように呼んでくれた声が、いつまでも耳について離れませんでした。  あの少年が御一新を無事に生き永らえていたなら、いったいどれほどの傑物になったであろうと惜しむのは、今さら詮ないことでありましょうが。  あれから、まさに箭《や》のごとく流水のごとく、半世紀の歳月が過ぎてしまいました。  老いたわが掌を眺めるたびに、清らかな掌のまま死んだ嘉一郎が偲《しの》ばれてなりません。  吉村貫一郎先生は藩校での講義を始めるとき、「偶成《ぐうせい》」の一句を生徒たちに唱和させました。  少年老い易く学成り難し、一寸の光陰軽んずべからず。未だ覚めず池塘春草《ちとうしゆんそう》の夢、階前の梧葉すでに秋声。  机も教本もない嘉一郎は、冷たい外廊下に座って、誰よりも大きな声で唱和をしておりました。  永遠に目覚めることのない池塘春草の夢を、嘉一郎は極楽浄土で見続けているのでしょうか。一方、半世紀の時を生き永らえた私の掌は、すでに秋声を奏でる梧葉の色となり果てました。  もうひとつ、吉村先生が講義の締めくくりに必ず唱和させた陶潜の詩——。  人生|根蔕《こんてい》なく、飄《ひよう》として陌上《はくじよう》の塵の如し。盛年重ねて来らず、一日《いちじつ》再び晨《あした》なり難し、時に及んで当《まさ》に勉励すべし、歳月は人を待たず。  教場の畳の上に座る生徒たちすべての声を圧倒する、嘉一郎の大声が耳に残っております。  人生には確かな根などなく、ひとたび風が吹けば路上の塵のごとく舞ってしまう。その人生を、一日に二度の朝はやってこないと思い定めて勉励をしたのは、嘉一郎ひとりでありました。そして、重ねて来らぬ盛年のまま、彼は逝ってしまった。清らかな掌のまま、美しい面ざしのまま。  嘉一郎が別れのあのとき、私の耳元で絞るように囁いた死する理由と、一転して堂々と陳《の》べた死する理由の、いったいどちらが本心であったのでしょう。  長い年月を思い悩み、私が答えを得たのはつい先ごろのことでありました。  それは、ともに彼の本心にちがいなかった。なぜなら、武士道とはそういうものでありますから。  ところで、すでにお気付きのこととは思いますが、嘉一郎が私に托した妹のみつ女は、やがて私の妻となりました。  支那人たちから「光太太《グアンタイタイ》」と母のごとく慕われる当診療所の名物看護婦であります。  つい今しがたも、やおら書斎の扉を開けてふくよかな顔をつき入れ、 「ちいさん。いいかげんになさいませんとお体に障りましてよ。さ、寝ましょ、寝ましょ」  と、低い声で私を手招きしました。五十五歳になっても、夫の手枕がなければ眠ることのできぬ可愛い妻であります。  叶うことならばこの妻より一日でも生き永らえ、今し息の上がるその瞬間まで、抱きしめていてやりたいと思っております。  国に抗い、軍に抗い、ひとり満洲の沃野《よくや》にてメスを握る偏屈な医者が、身勝手さゆえにひどい苦労をかけた伴侶にしてやれることは、それくらいだと思っておりますから。  ちあき、ちあき、ちあき、と血を吐くように呼んでくれた嘉一郎の声を、月明りの長坂の峠で私は肋《あばら》の一筋一筋に、しかと刻みつけました。あの少年の友であるという矜《ほこ》りだけで、私は半世紀の艱難に耐えてくることができたのです。  夜も更けました。黄砂の降る音を聴きながら、みつを抱いて眠りにつきます。私どもは奉天の街では笑いぐさの蚤《のみ》の夫婦ではありますが、ふしぎなことに私の腕の中のみつは、夜ごと時を越えて八歳の少女に戻るのです。  そんな妻が、愛《いと》おしくてなりません。 [#地付き]草々   奉天四平街にて [#地付き]大野千秋  再啓  黄砂もようやく已み、薫風緑樹をわたる季節と相成りました。その後お変わりございませんでしょうか。  こちらは相変わらず猫の手も借りたいほどの忙しさで、感冒が一段落ついたと思ったとたん井戸水が感染源と思われる赤痢が蔓延いたしております。  幸いなことには馬賊も赤痢に罹《かか》ったのでしょうか、このところとんと騒ぎを起こしません。  槐《えんじゆ》の若葉が風に戦《そよ》ぐ、静かな夜であります。  先日の書簡にて、貴方のお知りになりたいことはすべて書きつくしたと思っておりましたが、本日家人とともに大西門大街をランデヴーし、お伝え残したことに思い当たりました。蛇足ながら認《したた》めさせていただきます。  嘉一郎を長坂の峠に見送った翌《あく》る朝、私はひとりで父の囚われている安養院を訪ねました。  庫裏《くり》の一室に向き合って座り、昨日の出来事の一部始終を語りますと、父は一言、「それでええ」と肯きました。 「つきましては父上、妹御のことでありあんすが、嘉一郎より重々頼まれ申しましたゆえ、しばらく大野の屋敷に置いて下働きでもさせようと思いあんす。いかがなものでござんしょうか」  父は少し考え、それからまっすぐに私の目を見つめて申しました。 「大野の家の当主はお前《め》じゃ。思うた通りに致せ」  家族の安否すらも訊こうとはせず、父は裏座敷へと戻って行ってしまった。おそらく父は、私の胸中のすべてを一瞬のうちに読み取ったのでしょう。そして、私の思うところに間違いはないと言ったのです。「思うた通りに致せ」というのは、決して「勝手にせよ」という意味ではなかったと思います。  雫石は盛岡御城下より西へ三里、岩手山南麓の雪深い村であります。  吉村先生のご家族が身を寄せている母御の在所は、杉林を背にした曲がり家でした。雪こそ降っておりませんでしたが、岩手おろしが灰色の空に唸る、たいそう寒い日であったと記憶しております。  厩《うまや》と続きになった土間を覗きますと、竈《かまど》の煙が燻《いぶ》る中で、百姓夫婦が藁を打っており、子供らが遊んでいた。  ごめん、と声をかけたとたん、夫婦は素頓狂な声を上げました。愕《おどろ》くのも無理はないのです。盛岡城下に進駐してきた官軍は、血まなこで新選組隊士吉村貫一郎を探しており、しかも前日には、その嫡男がものものしい旅仕度でいずこかへと逐電したのですから。 「怪しい者ではねえ。昨夜娘御をお預かりした南部藩の者じゃ。大野が訪ねて参ったと、母御にお伝え下され」  嘉一郎やみつの伯父らしき百姓が奥に取り次ぐ間、私は敷台に腰を下ろして待ちました。  南部の曲がり家と呼ばれる鉤形《かぎがた》に曲がった農家に足を踏み入れるのは初めてのことでした。嘉一郎は七年ちかくもの間、この家に身を寄せて百姓をしていたのです。にもかかわらず、武士の矜持を捨てずに成長した。秋田打入りに際しては、雫石口の橋場の陣に馳せ参じ、戦場を先駆けたのです。そして——ただひとり降伏を潔しとせず、遥かな蝦夷地に向けて旅立った。  わずか十歳ばかりで帰農した嘉一郎の、内なる士魂を支えたものは何だったのでしょうか。  やがて通された母御の寝間は、常居《じようい》の北側の薄暗い小部屋でした。やつれ果てた母は、蒲団の上にようやく身を起こして座り、私に向かって深々と頭を下げました。  おたがい満足な挨拶さえ交わすことができなかった。 「嘉一郎は——」  唐突に私が言いかけるのを、母は頭も上げずに遮りました。 「嘉一郎のことはおっしゃらねで下んせ。ご迷惑ばおかけいたしあんした」  まるですべてを察しているような口ぶりでした。  母は蒲団の上に両手をついたまま、ぽたぽたと涙をこぼすばかりでした。言うに尽くせぬこの人の悩み苦しみを、いったいどうすれば軽くして上げられるのだろうと私は思いました。 「御殿様より、秋田攻めのご褒美ばお届けするよう内々に申しつかってめえりあんした。お収め下んせ」  ほんの思いつきで懐から巾着を取り出すと、母は泣き濡れた顔を上げ、まじまじと私を見つめました。 「大野様、お気持ちは有難えと思いあんすが、そんたなこと、あるわけなござんす」  ふと、背後に人の気配を感じて振り返りますと、母の兄夫婦が常居の引戸を少し開けて、こちらを窺っている。その姑息《こそく》な目を見たとき、私には何となく、二家族が暮らすこの曲がり家の有様を知ったように思いました。 「凶作続きで、百姓は身が持たねのす。ましてや兄さは七人の子持ちで、近在の五人組ともどもただの一人も飢え死なずにすんだのは、主人が京より送って下さんした銭このお蔭でありあんした。んだども、主人が亡ぐなってしもうたこの先は、いってえどうなることやらと……」 「ならば尚更のこと、お収め下んせ」  私が巾着を胸元に押しつけると、母は常居の戸をちらりと見て恭《うやうや》しく受け取りました。 「医者には診《み》てもろうておられるのすか」  母は巾着を抱いたままかぶりを振り、それからなぜか、にっこりと笑いました。 「主人のところさ行きてえと、朝晩神仏にお頼み申しておりあんす」  まるで吉村先生のおもかげを慕うような物言いに、私は返す言葉をなくしてしまいました。 「切《せづ》ねえことを……」 「いんや。心底そう思うておりあんす」 「嘉一郎は立派な武士だれども、親不孝者にござんすな」  私が思った通りを口にすると、母は微笑を消してうなだれてしまった。  嘉一郎が去るにあたり、母と子との間ではいったいどのようなやりとりがあったのでしょうか。少なくとも、母が嘉一郎の意志に賛同したはずはない。蝦夷地に渡って士道を全うするなど、一千余の南部藩士の誰も考えぬ暴挙にちがいなかったのです。  しかも、母と妹は再び捨てられることになる。 「嘉一郎のことは、おっしゃらねで下んせ」  母はもういちどそう言って、顔を被ってしまいました。  吉村先生とうりふたつの嘉一郎が、おなごのようなやさしい掌を持った嘉一郎が、病の母と幼い妹を捨てた理由について、私は考えねばならなかった。  昨夜、長坂の峠で嘉一郎の言った別れの言葉が胸に甦りました。 (父の罪をば、この汚れた体にて償い申す) (南部の百姓からいただいた体は、南部の百姓にお返し申す)  父の犯した脱藩の罪を、嘉一郎はおのが罪として生きてきたのです。飢えて死ぬ百姓の姿を目のあたりに見ながら、父からの送金で生き延びるおのれを、憎み続けたのです。あの少年には武士道も正義も意地も、実は何もなかった。大いなる罪と、その償いとがあるばかりでした。  それに気付いても尚、私は嘉一郎を偉いと思った。いや、徹頭徹尾おのれの存在を見つめ続け、考え続けるその精神は、大義に殉ずることよりも遥かに尊いと思いました。  苦悩の果てに、嘉一郎は愛する家族とおのれの存在とを秤《はかり》にかけたのでした。そして万斛《ばんこく》の思いで、母と妹を捨てた。  嘉一郎はおそらく母にも、真実の心のうちは伝えなかったでありましょう。うまく言葉にすることができなかったかもしれません。  もどかしいやりとりの末に、嘉一郎は出奔し、妹は泣きながらその後を追った。  絶望を亡き夫への思慕にすりかえて、母は微笑み続けているのでした。 「お願いがござんす。お聞き届け下んせ」  私はさして考えもせず、自分でも思いがけぬことを口にしました。 「|みつ《ヽヽ》を、わしの嫁こに下んせ」  母は丸い目を瞠《みは》りました。 「そんたなこと、ご冗談にも申されますな」 「いんや、冗談ではござりませぬ。ましてや憐愍《れんびん》の情にかられたわけでもなぐ、嘉一郎への義理立てでもござらぬ。年端がいがねと申されるのだれば、妻にふさわしき年になるまで、妹と思うて大切に育て申しあんす。祝言ば挙げたのちは、生涯ばかけて、みつを幸せにいたしあんす。後生一生のお願いにござんす。どうかお聞き届けて下んせ」  私はそう言うと、母の膝前に平伏いたしました。  ——どういうわけか、私の記憶はそこで途切れます。家人の母が、とっさにどのような返答をしたのか、とんと覚えがないのです。  ただ、帰りの雪道を村はずれまで、嘉一郎とみつの弟だという少年が私を送ってくれたのを覚えております。 「父上は鳥羽伏見の戦で討死ばして、兄上は仇討ちさ出て、姉上はお前《め》さんの嫁こになるんだすか」  杉木立に雪玉を投げながら、みつに良く似た丸い目の少年はそんなことを言っておりました。  その後ほどなく、私たちの家族は屋敷を引き払って花巻の親類の家に身を寄せました。父が亡国の科人《とがにん》として首を刎ねられたのち、家族はとうてい盛岡にも住み続けることができなくなったのです。むろん、私が許嫁《いいなずけ》と定めたみつも一緒でした。  家族が落ち着くのを見届けてから私は単身東京に出ました。つまりここで、話はこの長い書簡の振り出しに戻る、というわけです。  鈴木文弥先生のもとで医術の修業をしていた私が、みつを東京に呼び寄せたのは明治七年の夏のことです。 「ちいさん、かねがねふしぎに思うていたのじゃが、お前《め》、二十二にもなって女郎遊びもしねのは、どこか体が悪いのではねか」  などと執拗に訊かれて、私はとうとう許嫁がいることを先生に告白したのでした。 「じゃじゃ、びっくらこくでねえか。なしてそんたな大事《でえじ》なこと、言わねでおったんじゃ。んだば早よ呼べ。満足なことはしてやれねえが、形ばかりでも祝言ば挙げて、破《や》れ長屋のひとつも探し申そぞ」  さっそくその旨の手紙を書きますと、まるで待ち侘びていたかのように、みつは花巻の親類に付き添われて東京に出てきたのでした。  五年ぶりの再会でありました。千住《せんじゆ》の掃部宿《かもんじゆく》まで迎えに出た私は、明けやらぬうちから今か今かと、大橋の上を行きつ戻りつしたものでした。  日も高くなったころ、砂埃の舞う小塚原に、美しく成長した娘の姿が見えました。私はすっかり有頂天になり、みつや、みつやと声を上げながら大橋の上を走りました。  日ざかりの中に佇む十四歳のみつは、雫石姉ッ子と謳われた亡き母に生き写しでありました。人目も憚らずにみつを抱き止めたとき、忘れかけていたふるさとの景色が、まるで袱紗《ふくさ》を解いたように、ありありと瞼の裏側に甦りました。  南部の母なる北上川の流れの彼方に岩手山がそびえ、不来方《こずかた》の御城の向こうには艶《あで》やかな裳裾《もすそ》を曳いた姫神山が見えた。幼いころ、寝物語に聞いた二つの山の伝説のように、私はこのおなごを心の底から恋い慕おうと誓いました。  はてさて——このような手紙がもし万々が一、家人の目に触れましたなら、どうなりますことやら。 「一体全体、貴方には羞恥というお気持ちがございませんの。夫婦のロマンスを他人様に開陳なぞして、この恥知らずっ」  さて、物はついで。毒を食らわば皿までの覚悟でお読み下さい。  みつが到着したその日のうちに、長屋の人々が寄り集まってささやかな祝言を挙げ、鈴木先生の用意して下さった段取りのままに、私たちは隅田川畔向島の川宿に送り届けられたのでした。  どこから調達してきたものか、大きな葦毛馬に大八車を曳かせ、白無垢の花嫁と紋付袴の婿とが飾り雛《びな》のごとく座りまして、下谷から雷門、吾妻橋を渡って向島まで練り歩いたのですから、派手好きの江戸ッ子たちは拍手喝采の大喜び。  先達は鳶《とび》の親方が拍子木を叩き、その後ろから提灯をつらねた若い衆が木遣《きやり》を唄いながら続く。田舎者の私らは、もう嬉しいやら恥ずかしいやら、道中ずっと俯いたままでありました。  その当時は、いかに目抜き大路とはいえ街灯もない闇でしたから、何十もの提灯に照らし上げられた花嫁道中は、まさしく花電車のごとき賑わいでありましたろう。  しかし、江戸ッ子の仕切りというのは粋なもので、川向こうの宿に着いたとたん、みながみな黒子のようにいなくなってしまった。  大川に張り出した二間続きの座敷には緋毛氈《ひもうせん》が敷かれ、差し向かいの膳が置かれている。何とはなしに襖を開ければ、行灯に照らされた羽二重の蒲団に枕が二つ。  これが噂に聞く初夜の新床だと思えば、未だ女を知らぬ私は、できることなら大川に躍りこんで逃げ出したいほどの気持ちでありました。  みつのほうが落ち着いていたことは確かでした。  黙りこくって酒を酌むうちに、誰が仕掛けたものか向こう岸の花川戸《はなかわど》の土手から、ぽんと大玉の花火が打ち上がった。何だか床入りをせかされているような気がいたしまして、それをしおにどちらが言い出すでもなく、奥の寝間に入りました。 「んだば、みつ。末永う、よろしゅうな」 「いく久しゅう、お頼み申しあんす」  そう言って顔を上げたとき、みつの白い頬にはらはらと涙が流れ落ちました。 「お前《め》は、可愛《めんこ》いコケしゃんのようじゃの」  羞《はじら》って俯いたまま、みつは私の懐に飛びこんできました。勢い余って私を押し倒し、そのときみつの言った言葉を、私は忘られません。 「父《とど》が、みつにこんたな幸せば下さんした。提灯ばかかげて、嫁入り道中の足元をば照らして下さんした」  お前《め》、父の顔も覚《おべ》てなかろう、と私は言いました。 「いんや、覚ておりあんす。父はみつの顔ば舐めて下さんした。口ば吸うて下さんした。名前ば呼び続けて下さんした」  そんなまぼろしを思い描くみつが愛おしくてならず、私は慄える体をかき抱きながら一言、「そんたなこと、忘れろ。ええな」と申しました。  長い手紙になってしまいましたが、私のお伝えすることは、これですべてです。  恩師であり岳父であり、子供らの祖父である吉村貫一郎先生の鴻恩《こうおん》を、思い出させて下さった貴方に、心より感謝いたします。  妻とともに槐《えんじゆ》の葉の囁きを聴きつつ、今夜はことさら安らかな眠りにつけそうです。  御身、御大切に。 [#地付き]敬具   大正四年六月吉日   奉天四平街にて [#地付き]大野千秋 [#改ページ]  御廊下の柱に背をもたせて雪ば見ておるうちに、寒さも痛みもなぐなってしまいあんした。  雪はええもんじゃな。何もかも被い隠してくれる。こうしてぼんやりと眺めておる間にも、御庭先の石を被い植込を被い、寒さも痛みも、恨みつらみも、すべてを被いつくしていく。  ああ、群青《ぐんじよう》の夜空からとめどなく降り落つる雪こば見上げておると、力尽きたおのれの体が天に浮き上がっていくかのようじゃ。何ともはあ、気持ちのええもんでござんすな。  懐の中からひょっこり出てきた二分金十枚、妻《かが》のもとへ届けて下さるようお頼みしてみるべと思うてここまで這い出てきたが、やはりやめておくべか。  何じゃ吉村、お前《め》ぇまあだ生きておったのかと、次郎衛《じろえ》殿もご同輩の方々も呆れ返《けえ》るに違《つげ》えねから。  はい、皆々様。あいにく吉村は未だ腹ば切る決心がつかず、ぐずめっておりあんす。ついてはこの五両、冥土に持って行っても仕様《しや》ねから、雫石《しずくいし》の妻《かが》に届けて呉《け》れ。後生にてござんす。  後生……ははっ、笑いごとではねな。図々しいのは生まれついての取柄だども、程度というものがござんすべ。このうえ次郎衛殿はじめご同輩の皆様方に、いやな思いをさせてはならぬ。わざわざ表座敷にまで這って行かずとも、かくかくしかじかと書き遺しておけば良《え》がんす。  ひの、ふの、みの、よ。いつ、むう、なな、やあ、ここのつ、とお。  銭勘定は面白えな。ましてやこれが今生《こんじよう》の算《かぞ》えおさめと思えばひとしおじゃ。ぴっかぴかの二分金が十枚、しめて五両。わしの体などはそこいらの無縁墓にうっちゃらかしてもかまわねから、どうかこのお代物《でえもつ》、雫石までお届けえって下んせ。  子供の時分からずっと、銭こは命の次に大事《でえじ》なものと心得ておりあんしたが、こうしてしみじみ眺めておりあんすと、何ともはあ、命より大事な気がするもんであんすな。  ひの、ふ。  まず一両は妻《かが》の帯。  みの、よ。  この一両は嘉一郎の袴。  いつ、むう。  これは|みつ《ヽヽ》の雛飾り。  なな、やあ。  まだ見ぬ|赤ン坊《おぼつこ》のベベ。もっとも、はや七つになりあんしたか。んだば、温《ぬぐ》い綿入れでも。  ここのつ、とお。  これはさんざ世話ばかけ申した雫石の兄さに。  じゃ、じゃ……嘉一郎に刀ば買うてやりてと思うておったが、銭こが足らねではねか。さて、どうすべ。  足軽にたいそうな刀は要らねえ。分相応の数打ちで十分じゃが、打ちおろしの新品の方が良《え》え。未だ人の血を吸うておらぬ、おろしたての刀を差して欲しい。わしの口から言うのも妙じゃが、刀は人を斬る道具ではねがらね。  んだれば仕様《しや》ねな。こたびばかりは、妻《かが》にもみつにもおぼっこにも兄さにも辛抱してもろうて、しめて五両、嘉一郎に打ちおろしの刀ば買うてやるよう、書き遺しておぐか。  回らぬ頭でこんたなことばかり……ははっ、またまた笑いごとではねえが、わしもとことんの親馬鹿でござんすな。  もっとも、馬鹿でねば人の親は務まらねがね。  小利巧な親は、飢饉の折にゃ赤子ば殺して肉を食らう。そんたなことをするのは人間ばかりじゃろう。畜生ならばおのれの肉を子に与えるのさ。  ああ、体が空さ昇っていく。ええ気持ちじゃが、まだ死んではならねぞ。  座敷さ戻って、書き置きばして、武士らしくさぱっと腹ば切り申そ。  ええな、嘉一郎。お前《め》はゆめゆめ人など斬ってはならぬ。刃に一点の翳《かげ》りもねえ打ちおろしの刀ば差して、平和な世を支える強《つ》え男になれ。そうだればこそ、刀は武士の魂なのじゃ。過《あやま》てる武士道は、父がすべて背負うていく。  さあて——よいこらしょ、と。  最早《もは》痛くはねえが、手も足も動かぬ。座敷さ戻って、最後のお務めばしねばならね。ははっ、まるで蛇か百足《むかで》のようじゃの。ちっとも笑いごとではねえが。  まったく、こんたなときにもへらへらと笑うてばかりいる、何たる性分じゃろう。ずいぶん不都合もあったが、いざこうとなってみれば、かえって便利なものじゃ。  障子は開け放しておいても良《え》がんすべ。せめて雪こば見ながら死にてえし。やれやれ、それにしても、人の生涯《しようげえ》とはまこと難儀なものでござんすな。  ところで次郎衛殿。  痛みがなぐなったとたん、わしは初めてお前さんのことがわかり申《も》した。いんや、御庭に降り積む雪こが、お前さんの心のうちをわしにわからせて呉《け》た。  わしの推量におそらく違《つげ》えはねえと思うのじゃが、聞いてくれるか。  わしとお前さんは、この世に二人とはおらぬ親友じゃ。身分の違えこそあれ、わしらは固い絆で結ばれておった。上田の赤沢塾でともに学んだ幼いころそのままに、わしらはずっと信じ合うてきた。  運命のいたずらで大野の家ば継ぐことになってから、お前さんがどれほど肩身の狭い思いをしてきたか、わしは良ぐ知っておる。お前さんはわしにだけァ、包み隠さず愚痴ばこぼして呉《け》た。組付足軽の分際では、口で励ますほかにできることは何もながったが、誰にも言えぬ辛さ苦しさを語ることでいくらかでもお前さんの気が晴れるのなら、どんたなことでも聞くべと思うた。  大野の家に入《へ》ったばかりのほんの子供のころにァ、そこっとわしの家ば訪ねてくれたな。んで、裏の納屋さ入って、父の冷たさや継母の意地悪をとつとつと語りながら、しめえにはいつも泣いたった。  いくらか年がいってからは、道場の帰《けえ》りに上《かみ》ノ橋の下で、逢い引きみてえにおち合った。泣き虫のお前《め》さんは、その年になっても良ぐ泣いたっけ。  すまねえな、貫一。わしは愚痴どころか、屋敷に戻ればろくに言葉を返すこともままならぬ身の上ゆえ、やり場のねえ心のうちをお前に聞いてもらうほかはねえのじゃ。そのかわり、泣ぐだけ泣いたら背筋ばしっかと伸ばして、父母の無体はすべて受け止めるからな。怒鳴られても叩《はた》かれても、奥歯を噛みしめてじっと耐えるからな。  そんたなお前さんの本性を知っておるのは、わしひとりじゃった。  わしも、ずいぶんと愚痴ばこぼしたと思う。わしの本性を知っておるのも、次郎衛、お前さんだけじゃ。  二人して同じおなごにも惚れた。さよう、わしの妻《かが》じゃ。そのことで、掴み合いの喧嘩もしたな。じゃが、わしが八幡様の祭りのどさくさに抜け駆けて、しづと行く末の契りをば交わしたと知ったとき、お前さんは一言の恨みつらみも口にせず、良《え》がった良がったと喜んで呉《け》た。んで、それをしおにきっぱりと、未練ば断ち切って呉《け》た。  わしはあんとき、つくづく思うたぞ。身分こそ違え、お前さんはかけがえのねえ親友じゃ、とな。  この借りは、生涯ばかけて返さねばならねえとも思うた。んだから、そののちの暮らし向きの辛さは、けっして口には出さながった。お前さんは水臭えと思うじゃろうが、そうではねえってば。惚れたおなごを譲ってもろうて、知れきった貧乏ばさせて、あげくに御組頭のお前さんに、米や銭この無心などできるものか。  とうとう、借りは返せずじまいじゃった。  貧しさに耐えかねて、わしが脱藩ば決心したとき、お前さんは上ノ橋の上で血相変えて翻意ば促したな。  脱藩などよせ。銭金のことなら、わしが何とでもする。組頭だから止めるのではねぞ。友として言うのじゃ。お前のせいで蒙る迷惑ならば痛くも痒くもねえ。いんや、迷惑じゃとも思わね。のう貫一、脱藩などするな。のう、思いとどまれ。  有難えと思うた。じゃが、わしはお前さんの親友だれば、甘えてはならながった。  藩校では多くの子弟に学問ば教え、藩道場では剣術ば授ける立場のわしが、食うに困って御組頭から銭こば借りるなど、とんでもねえことじゃ。吉村先生は憂国の至情おさえ難く、尊皇攘夷の志ばもって脱藩いたしたと、そうするほかはねべ。じゃからわしは、銭こがねえなどとは口が裂けても言わながった。  子は国の宝じゃ。いつかこの子らが、南部一国のみならず、日本の国を背負って立つのじゃと思えば、わしはわしの訓《おし》えをば身を以て全うせねばならぬと思うた。  銭こば借りてはならね。じゃども妻子は食わせねばならね。そうとなれば、尊皇攘夷の志ばもって脱藩ばするほかに、考えつく手だてはながった。  そんたなわしの心のうちを、次郎衛、お前《め》さんはすべて読み切ってくれたのじゃろ。  上ノ橋での別れのとき、お前さんは言うてくれたな。  貫一、すまねな。わしの思いやりが足らねえばかりに、お前をそこまで追いつめてしもうた。許して呉《け》ろ。大野の家を継いだとはいえ、わしは未だ御隠居の操り人形にすぎぬのじゃ。御役目の上でも、まだまだ力が足らぬ。わしの力が足らぬばかりに、こんたなお前をどうすることもできねえ。  そして最後に一言、他目《はため》を憚りつつ欄干の上でわしの掌を握り、絞るような小声で言うた。  貫一、死ぬな。死んではならねぞ。もしお前が死ねば、わしも死ぬからな。  次郎衛殿——お前さんのこたびの御指図につき、わしは恨みもし、呪いもいたしたが、昔のことをひとつひとつ思い起こすにつれ、良ぐわかり申した。  鳥羽伏見はさんざんの敗け戦で、このさき世の中がどう転ぶかわからね。そんたなとき、お前さんが差配なさる大坂の蔵屋敷に、新選組の落人が転がりこんできたのじゃ。  最も辛えのは、わしではねえ。死ね死ねとわしにせっつかねばならぬ、次郎衛殿、お前さんじゃな。  御指図の通りにわしが死ねば、お前さんも死ぬつもりか。  今さら面と向こうて言えぬのは歯痒い限りじゃが、そんたなこと、してはならねぞ。ええか、次郎衛。この期に及んではっきりと言うておくが、二駄二人扶持の足軽と四百石取りの御高知とでは、命の重みが違うのじゃ。  足軽がいかに命ばかけても、できうることはせいぜい、妻子を養うぐれえのものじゃが、お前さんは違うぞ。どうせ死ぬるつもりならば、大野次郎右衛門にふさわしい命の高売りば致し申せ。  そんたなこと、頭の良いお前さんのことじゃ、わしが言うまでもながんすべが。  またひとつ、思い出した——。  上ノ橋にて脱藩の意志ば告げた晩、お前さんは願ってもねえ餞別を、わしの家さ届けてくれたな。  霙《みぞれ》まじりの空が鳴る、凍《しば》れる晩じゃった。時ならぬ呼び声に戸を開けてみれば、中間の佐助が立っておった。  お前さんからそこっと托されたという風呂敷包みば解いてみると、愕くでねか、まるで道中奉行のごとき立派な旅装束と、道中手形とが入《へ》っていた。  佐助は志家《しけ》の御小人町に生まれ育った卑しい小身者《こもの》じゃが、まこと信頼に足る、誠実で侠気に溢るる男じゃ。  かたじけない。次郎衛殿にはかえすがえす、吉村が頭ば下げておったとお伝え下んせ、とわしが言えば、佐助は仁王のごとき顔をくしゃくしゃに歪《ゆが》めて、涙ばこぼしたった。  一人扶持の中間である佐助は、誰よりもわしの悩み苦しみをわかってくれておったのじゃろう。  言葉少なにとつとつと、佐助は言うた。  吉村先生、どうかどうか、次郎衛様を恨まねで下んせ。この道中手形も、次郎衛様は腹ば切る覚悟でお渡しするに違《つげ》えながんす。あのお方のお立場は、他《はた》で考えるよりずっと御不自由でがんす。御家と御役目とにがんじがらめにされているのであんす。  そんたなこと、言われるまでもなぐわかっておった。  のう次郎衛。お前《め》さん、江戸までの道中を無事に通行できる公用の手形など、どうやって手に入れたのじゃ。それさえあれば諸藩の関所も、お調べもなぐ通り抜けることができる。本街道をまっすぐに歩くことができる。  組頭としての御役目上、追手に出たのもお前さんじゃろう。穀丁《こくちよう》の惣門から先は馬を急《せ》かせることもなぐ、斬り捨て御免の脱藩者をば、のんびりと追うたのか。んで、日も昏れたころ御城に戻って、御重役方に頭ば下げ回ってくれたのか。  手形の一件が露見して腹ば切れと言われたら、お前さんは言いわけのひとつもせずに、死ぬるつもりじゃったのか。  そんたな友情になにひとつ報ゆることもなぐ、あまつさえ蔵屋敷に死に損ねのまま転げこんで、命乞いばするとは……はあ、何とも情けねえ侍もいたものでござんすな。  砲声も聴げなぐなったな。  戦が終わったのか、それとも、わしの耳がいよいよ聴げなぐなったんだべか。  いんや、降り積む雪が砲声すらも被ってしもうたのじゃろう。  雪こは冷てえが、冷てえ分だけやさしいねえ。雪国に生まれて、きょうのきょうまで雪このやさしさに気付かなかったわしは、何たる馬鹿者でござんしょか。  次郎衛殿。お前さんは真白な雪じゃ。冷たさを恨むばかりで、わしはお前さんのやさしさについぞ気付かなかった。許して呉《け》ろ。  今しがたわしが寝ている間に、火桶を運んで呉て、温《ぬぐ》い蒲団まで掛けてくれたのは佐助じゃろう。お前さんがそこっと佐助を呼んで、そうするよう指図ばしたに違《つげ》えね。何から何まで厄介になって、まこと申しわけなござんす。  佐助はしばらくそこいらに座《ねま》って、わしの寝顔ば見ておったのじゃろうか。あの仁王面ばしかめて、泣いておったのじゃろうか。  おそらくはわしの形見の品々も、このお命代の五両も、佐助が雫石まで届けてくれるのじゃろうな。  厄介のかけ通しで、このうえ下げる頭もござらねが、わしはわしなりに、一所懸命生き申した。どうあがいたところで、わしにできることはこればかりでござんした。  どんたに努力ばして、先生と言われ達者と呼ばれても、生まれついての足軽にできることは、命ばかけて妻子に銭こば送ることばかりでござんした。  夜が明けて、みっともねえ死に様をご覧になったなら、どうか足軽よ小身者《こもの》よと、お笑い下んせ、次郎衛殿。  ええな、けっして泣ぐのではねぞ、次郎衛—— [#改ページ]  まあ、そう|鯱 鉾《しやつちよこ》ばらず、楽におつきなさんし。  おおい、誰かいねえのかい。お客人に渋茶ぐれえ、さっさとお出ししねえか。  ——大正の新|時代《じでえ》てえんですか、そりゃあ新しい時代がくるのは結構なこったが、その新時代の若《わけ》え衆《し》はどうも気が利かなくっていけねえ。  私《あつし》らが部屋住みのころはね、親分を訪ねてやってくる客人にちょいとでも粗相があったら、それこそ半殺しの目に遭ったもんです。台所《でえどこ》の当番はいつもピリピリしてまして、客人がおつきになって一服つけたとたんに、まず温《ぬる》い白湯《さゆ》。そいつで渇いた咽《のど》を湿らせたと見れば、熱い渋茶。親分があれこれ指図するのは、酒と肴を出すときだけでした。  もっとも、躾の悪さを時代のせいにしちゃいけねえな。私も七十三の年寄りで、いちいちああせいのこうせいのと口はばったく言うのも億劫になっちまって。親の躾が足らねえんです。  この平和な世の中で、やくざな稼業に足を入れるってのは、どだいろくなもんじゃあねえ。学校は行かねえ、奉公は続かねえ、ほっぽっときゃ何をしでかすかわからねえてえ悪ガキをね、親御さんが連れてきなさるんで。  そういうやつらを、叩いて叩いて一人前の男にするってのが、今も昔も変わらねえやくざの仕事なんでござんすよ。  それでもまあ、ここんところは世界大戦の動員で、軍隊が若え者の躾をしちゃくれますがね。大戦景気なんて、私《あつし》ら下じもにはあんまし関係のねえことですが、若え者がきちんと躾をされて、体も鍛えられるてえのは結構なことでござんしょう。  いかんせん、口の利き方も知らねえ、箸の上げ下げも知らねえ若え者が多すぎやす。  ときに、客人——  かたぎさんとお見受けいたしやすから、面倒な渡世の仁義は省かせていただきやすが、先ほど奥で桜庭弥之助《さくらばやのすけ》さんからの紹介状を拝見いたしやして、いやはや、びっくりしちまいました。  べつにそちらさんを疑うわけじゃあござんせんがね、私から御一新当座の話を聞きてえっての、そいつァ本当《マブ》でござんすかい。  いえ、こちとらは構やしません。お武家の出なら口に出せねえ昔話もままありやしょうが、私ァこの通り、恥なんてえものとはもともと縁もゆかりもねえ渡世でござんす。そりゃまあ、この齢まで生きてくりゃあいろいろなことはござんしたがね、何だって馬鹿は馬鹿なりにまっつぐやってめえりやしたから、聞かれて困るようなこたァ、ひとっつもござんせん。  桜庭さんとこちとらとの因縁てのも、おかしなもんでしてね。ほら、あの方は洋行からお帰《けえ》りになってしばらく宮仕えをなすってから、建築の会社をお始めになったでしょう。ビルヂングを建てるのにァ大工《でえく》ばかりじゃ仕方がねえ、人足が大勢必要になりやす。で、そのころこの界隈で口入れの稼業も張っていた私《あつし》のところへ、ひょっくりとご本人が訪ねてきなすったんです。  明治の三十年ぐれえのころでしたかねえ。上野の口入れ屋から人足を周旋してもらっていたんだが、あの辺の連中は日雇い根性があって使いもんにならない、てわけで、この新宿に目を付けたんだそうで。  あのころの日雇い人足の手間賃っていやあ、三十銭かそこいらでしょうが、五十銭をはずむから真面目なやつらを集めてくれって。  意気に感じましたですねえ。話を聞けば帝大出の学士様。官費で英国に留学して、つい先ごろまでお役人だったてえ、そんなたいそうなお人がね、ビルヂングをおっ建てるんだって、おん自ら足を棒にして人足を集めてらっしゃるんだ。  へい、ようござんしょう。そちらさんがそういう心意気で、立派なお国を造ろうとおっしゃるんなら、こちとら手間のピンハネなんざビタ一文いたしやせん。幸い鉄道もずんずん延びて、甲州や信州からも働き手がこの新宿に出てめえりやす。私ァ江戸ッ子じゃあねえが、そのかわり食いつめた田舎者ンの気持ちはよおくわかっておりやす。そいつらに五十銭の大枚を投げて下さるんでしたら、私だって一肌脱がぬわけにはいきますめえ。  するてえと、桜庭さんは私の男気に感じ入ったと見えてね、国はどちらですかとお聞きになった。  よくぞ訊ねて下さいやした。申し遅れやしたが手前、生国は南部盛岡にてござんす。天保の十四年に北上川にて産湯につかり、さる御一新の戦では天朝様に弓引いたかどで天下の賊に成り下がりましてよりこのかた、大東京にしゃしゃり出てやくざ渡世を張っておりやす。  とたんに、桜庭さんはエッと声を上げて仰天なすった。続けてお口から出た昔懐かしい言葉は今も忘らんねえ。 「もしやお前《め》さん、大野さんの中間《ちゆうげん》ばしておった、佐助さんではねのすか」  私ァね、お暇をいただいて東京に出てきてから、勝手に「大野佐助」と名乗っていたんです。もともと苗字なんてたいそうなものは持ってなかったもんで。  考えてみりゃあ、「桜庭弥之助」てえ名刺を頂戴しておきながら、ちっとも気付かなかった私のほうがどうかしている。もっとも、こちとら難しい字は読めねえもんで、口で言ったお名前をちょいと聞き流しちまっていたんだね。  これがまあ、私と桜庭さんの奇《く》しき因縁話でござんす。  どうか膝なんぞお崩しになって、楽におつきなさんし。  てめえで言うのも何だが、新宿の大野一家といやァ、大東京でもちっとは名の売れた博徒でござんす。かたぎのお客人にはさぞかし敷居も高かったでござんしょうが、わざわざお訪ね下すったお方を、けっして粗略にはいたしやせん。  お話を始めます前《めえ》に、ひとつこれだけはご承知おき下さんし。  手前、ご覧の通りのしがねえ渡世人ではござんすが、一人扶持の小身者《こもの》なりに南部の魂を貫いてめえりやした。  たとい命を取られたって、嘘はつきやせん、愚痴は申しやせん。ただまっつぐに御一新の後の世を歩き通して、千人の手下《てか》をお天道様から預からせていただきやした。  お客人もどうかそのつもりで、私《あつし》の話をお聞き下さんし。  さあて、吉村貫一郎さんのことといえば、いってえどこから話せばようござんしょうか。  吉村さんは私が長くお仕えした大野次郎右衛門様と同い齢でしたから、九つ齢上てえことになりやす。  私が大野様の御屋敷に奉公に上がりましたのは算《かぞ》えの十四。次郎右衛門様と吉村さんは同じ天保五年の午《うま》でござんしたから、二十三だったてえことになりやす。お二方ともすでに奥方をお迎えになっておりやして、惣領の坊ちゃんもお生まれでした。  そうです。千秋さんと嘉一郎さん。  このお二人は身分の違《ちげ》えこそありやしたが、たいそう仲の良い、いいお友達でござんしたよ。その当座、四百《しひやく》石取りの御高知《おたかち》様の嫡男といったらあんた、末は御家老職を約束された若様ですからねえ、足軽の子供と遊ぶなんてえのはとんでもなかった。ところが千秋さんてえ人は、ほんのガキの時分から、家の者の目を盗んで上田組丁の足軽屋敷に遊びに行っちまうんです。御隠居様に言われて、千秋さんを連れ戻すのはいつだって私の役目でした。  したっけ、無理やり連れ戻したりはいたしませんよ。何たって子供は、上下の隔てなく泥だらけになって遊ぶのが面白えに決まってるんですから。  千秋さんはお医者になられて、奉天にいらっしゃるそうで。ときおり奥方様からお便りをいただくんですけど、私ァ字が書けねえもんだから、かわりにお米だの梅干だの佃煮だのをね、勝手に送らしていただいてます。  今から考えてみれァ、それらしい人生でござんすねえ。千秋さんも、弥之助さんも。三つ子の魂百まで、ってやつですかい。  へえ——そいつァ驚いた。  満洲くんだりの消息までご存じてえことは、お客人。あんたのご執心も並大抵じゃあねえなあ。だったら話は早え。ことの成り行きの大方はご存じてえことで、先を進ませていただきやす。  千秋さんと嘉一郎さんが親友《マブダチ》なら、そのお父上どうしも大の仲良しでしてね。もっともお二人は御組頭と組付足軽ですから、大っぴらに付き合うわけにァいかねえんだが、そのあたりの仲の良さは、次郎衛様に一日じゅう付き従っていた私はよおっく存じておりやした。  中間てえのは侍じゃありやせんからね。正しくは御家来じゃなくって、使用人です。だからお侍様から見れば空気みてえなもんで、私の手前なんか何|憚《はばか》ることもねえんですよ。あのお二方の本当の付き合いを知っているのは、私だけでござんした。  ま、渋茶でも啜って、新宿名物の甘納豆でもお食べなさんし。  こうして御神前を背にして、火鉢の向こう前にお客人を座らせるなんざいささか行儀が悪いが、齢の功てえことで了簡しておくんなさいよ。  私《あつし》が十四で御奉公に上がった時分、次郎衛様の評判てえのはすでに大変《てえへん》なもんでござんした。  御城では勘定方の御役目をなすってらしたんですがね、ともかくあのお方はめっぽう計数に明るいんです。懐にいつも算盤《そろばん》を入れておられまして、そいつがまあ、次郎衛様にとっちゃ伝家の宝刀みてえなもんだ。  なにせあのお人は、よきにはからえとか、その件は追って後ほど、てえことがねえ。相手が誰であろうが場所がどこであろうが、サッと算盤を出して、チャチャチャッとはじくんです。で、かくかくしかじか、かようなことにて、と結論をお出しになる。  次郎衛様に言わせれば、藩のお台所《でえどこ》が苦しいのは飢饉のせいばかりじゃあねえんです。お侍が「よきにはからえ」って、ずっと商人まかせ庄屋まかせにしてきたからこんなことになっちまったって。  それでずいぶん、藩のお台所も立て直しましたんでね、御殿様はじめ御重役の皆々様方は、次郎衛様をたいそう信頼なすっておられたんですよ。そんなの、道端にちぢかまって見ていても、はっきりとわかりました。みんながみんな、次郎衛様を頼りになすっているんだとね。  ですから、私がお仕えしている間じゅう、まさに八面六臂《はちめんろつぴ》のご活躍。  安政三年から御一新の年まで、お齢でいうなら二十三から三十五までの十二年てえことになりやすか、国元と江戸表と大坂の御蔵とをしょっちゅう往き来なすっておられました。むろん私ァずっとお供をさしていただきましたよ。  吉村さんが脱藩なすったときのことは、よおく覚えておりやす。  正直のところ、私ァうすうす感づいちゃいたんです。そう言っちゃ何だが、貧乏人の懐具合てえのは、同じ貧乏人でなけりゃわからねえ。私ァ大野様から一人扶持のお給金をいただいちゃおりましたが、志家《しけ》の御小人丁には年寄りを抱えておりましたしね。  吉村さんのお給金は二駄二人扶持でがしょう。貧乏人どうしてえのは、どういうわけかたがいの懐具合を知ってるものなんです。  二駄二人扶持てえのは、一年に玄米が四俵と御蔵米が十俵、しめて十四俵てえことです。これに薪と塩と味噌とのお下がりはつくんだが、他のことは何から何まで賄わにゃならねえんだから、一家四人の暮らしが楽なはずはありやせん。  そりゃあ、私みてえに体がいいばかりで字は書けねえ、ヤットウもできねえてえんじゃどうしようもねえが、いっぱしのお侍が江戸に出て一旗揚げようと考えるのは人情てえもんでがしょう。ましてや吉村さんは、読み書きならば藩校の助教までお務めになる、剣をとっちゃ北辰一刀流の免許皆伝だあな。ひもじい思いをしていろてえほうが、どだい無理な相談じゃあござんせんか。あの人にとっちゃ、二駄二人扶持の足軽てえ身分が、そもそも牢屋みてえなものじゃなかったんですかねえ。  あのころには、脱藩はさほど珍しかなかったんです。だから私ァね、うすうす危ねえなあと思っていた。脱藩するのは腕に覚えのある侍と決まっておりやしたから。  次郎衛様はお気付きになってらっしゃったんだかどうだか。多少はお気に留めてらしたにしても、だからってどうこうするわけにもいきませんや。それに、吉村さんは御城下でも有名な、子煩悩で奥方思いの人だったからねえ。よもや家族を捨てて脱藩などするまいと、高をくくっていなすったんじゃありますめえか。  吉村さんが脱藩なさる前の晩に、私《あつし》ァ次郎衛様にこっそり言いつかって、上田のお宅に届け物をしたんです。  夜も更けたころ、次郎衛様が私の住んでいた長屋門の部屋にひょっこりおいでになってね、「佐助、一ッ走りして貫一の家さこれを届けて呉《け》ろ。誰にも気付かれるでねぞ」なんておっしゃった。  ピンときましたですよ。  お客人なぞにはわかりもすめえが、そいつァ大変《てえへん》なこってす。御組頭が組付同心の脱藩を手助けするなんて、露見すりゃあそれこそ腹切りもんですからねえ。  小雪の降る、寒い晩だったと思いやす。上田組丁の足軽屋敷を訪ねましてね、いくら真夜中だって、ひやひやし通しでしたよ。だって、上田組丁の通りは各組三十人ずつの御同心が軒を並べているわけですから。こう、ずうっとね、小野寺五郎兵衛組とか、岡田金太夫組とか、阿部勘左衛門組とかね。で、吉村さんの家のまわりはずらっと三十軒が、大野次郎右衛門組てえわけさ。そんなところに、次郎衛様の中間がこっそり訪ねるんだから、誰かに見つかったらひとたまりもありやせんや。  ようやっとたどり着いて、出窓のすきまから小声で呼びますと、吉村さんはおそるおそる引戸をあけた。脱藩の目論見がばれて、捕方でもやってきたのかと思ったんでしょうか、私だと知るとホッとしたお顔をなすったもんです。  私ァ大野の家の中間だからね。そんときもたしか、次郎衛様をかばうようなことを言ったと思いやす。  そりゃあ、吉村さんは気の毒だと思ったが、それよりも次郎衛様に万一のことがあっちゃならねえと、ハラハラしておりやしたから。  かたじけない、と吉村さんは私に向かって何べんも頭を下げましたっけ。お侍に頭を下げられるなんて生まれて初めてのことでござんしたから、私ァ切なくなって泣いちめえました。  だって、頭を下げる吉村さんの向こうにはね、まだ十ばかりの嘉一郎さんが、こう、土間の上がりがまちにきちんと膝を揃えてね、私に向かって、じっと頭を下げてらしたんだもの。  吉村さんの脱藩は、さほど大《てえ》した騒動にゃならなかったような気がいたしやす。  つまるところ足軽なんてのは、そんなものだったんでござんしょう。もっとも、大野の屋敷の中じゃ御隠居様がひどくお腹立ちになりやして、次郎衛様をさんざお責めになっておられやしたが、それだって二日三日のことで、お上からどうこうお仕置があったてえ記憶もござんせん。  考えてみりゃあ何です。あの時分は御城の台所《でえどこ》が火の車なんだから、たとい二駄二人扶持だって金食い虫の足軽が一人でもいなくなれァ、そりゃあそれで結構だったんじゃあないでしょうか。きょうびの会社とちがって、景気が悪いから社員を馘《くび》にするってわけにもいきませんしねえ。足軽の脱藩なんざ実は大歓迎てえのが、本音だったんじゃあねえんですかね。  ところで、私《あつし》ァそののち江戸でバッタリ吉村さんに出会ったことがあるんです。  文久が元治と改まった年の秋でござんしたか、もっとも元治てえ年は足掛け二年、正味一年こっきりしかなかったんですが、ともかく吉村さんが脱藩なすった翌々年の秋のこってす。  その年は参勤交代で、旧暦の九月の半ばに盛岡を御発駕、半月かけて十月のかかりに江戸に到着したと思いやす。逆に盛岡への御下向は翌《あく》る年の二月だったから、あんがい忙しい御在府でござんした。  私ァ次郎衛様のお供をいたしやして、御在府の間も何やかやと身の回りのお世話をさしていただいておりやした。  ある日、次郎衛様に用事を言いつかりましてね、瀬戸物町にあった島屋てえ定《じよう》飛脚の店《たな》に行ったんです。日本橋の北詰の、今ならちょうど三越の斜向《はすか》いあたりでござんしょうか。日比谷の潮見坂下にあった南部藩の上屋敷からは、ほんの一ッ走りのところでござんした。  島屋からは毎月四の日と九の日に定飛脚が出ておりやしてね、五街道筋のどこへでも、銭や荷物や書状を送ることができたんでさあ。書状一通が盛岡まで六十何文か、ただし冬場は雪が降るてえんでいくらか割高になった。  次郎衛様は何せ筆まめなお人でござんして、御在府中も三日にあげず国元に宛ててお手紙を書いてらっしゃいましたから、私も島屋には日参してたってわけです。  その瀬戸物町の島屋のお店で、バッタリ吉村さんに出くわした。  今でいやァさしずめ、為替も手紙も小荷物も扱う郵便局みてえなところでござんす。上を下へとごった返《げえ》すお店の中で、ふと南部訛が耳に入《へえ》りやしてね。 「たかだか一両の銭こば送るのに、百五十文の飛脚賃は高え。ましてや冬は割増だなぞと、蝦夷《えぞ》の果てならともかく、盛岡まではまだ雪こも降ってはおらぬ。百文にまけて下んせ」  まったく、飛脚代を値切るたァ南部の面汚しだと思いながら声の主を振り返りやすと、驚くじゃあありやせんか、そこにつっ立ってるのァ吉村さんだ。  おたげえ、アッと立ちすくみましたですよ。 「これはこれは、妙《ひよん》たなところで。江戸詰にてござんすか」  などと、吉村さんは気まずそうに頭をかきなすった。  何とも変わり果てた、みすぼらしい身なりでござんしたよ。月代《さかやき》は|百日 鬘《ひやくにちかづら》でも被ったみてえに伸び放題、髭もぼうぼう、秋だてえのに麻の単衣物の着流しで、まったく絵に描いたような御府内浪人だ。尻端折《しりばしよ》りに半纏《はんてん》を着こんだ私のほうが、よっぽど様子がいいぐれえのもんでした。  こっちが侍だったら、気まずい思いをする前《めえ》に面倒なことにもなりかねやせんが、苗字もねえ中間にとっちゃあ脱藩の罪科《つみとが》なんてのァ関わりのねえこってす。で、昔懐かしさのほうが先に立ちやして、どっちが誘うともなくそこいらの一膳飯屋に行った。  日本橋から江戸橋にかけての濠ぞいは、一日で千両の銭が飛びかうてえ、江戸三千両のひとつでござんして、景気のいい河岸《かし》問屋がずらっと軒を並べておりやした。  私ァ、江戸詰てえとどういうわけか懐具合がよかったんです。細かな用事を言いつかったり、あちこちのお屋敷やお店にお供することも多かったんで、駄賃やお心付けをたんまり頂戴できましたしね、それに、懐具合のいい中間たちが夜な夜な暇にかまけて、国元じゃ御法度《ごはつと》の博奕を打《ぶ》つもんだから、生まれつき勝負事のめっぽう得意な私《あつし》ァ、左団扇《ひだりうちわ》だったてえわけです。  よっぽど淋しい思いをしてらしたんですかねえ。昼日中の酒をちびちびやりながら、吉村さん、しゃべり通しでしたよ。いや、たぶん昔なじみのおしゃべりにこと寄せて、ご自分の近況を次郎衛様に伝えているつもりだったんでござんしょう。ともかく、出奔してからそれまでのいきさつを、こと細かに話して下さいやした。  何でも、以前江戸詰だったとき、お玉ヶ池の玄武館で知り合った青山なにがしとかいう御旗本の食客になって、若様方に学問と剣術を教《おせ》えてるようなことをおっしゃってましたけど、話が細かすぎて、じきにぼろが出た。あの人、嘘が下手なんです。  その青山なにがしを頼って行ったのも、いっときそこの食客だったこともたしかだとは思いやすが、身なりをひとめ見たって今はそうじゃあねえってことぐれえはわかりやす。  おおかたお屋敷の若党どもにいびり出されて、どこかのお店かやくざ者かの用心棒でもしてらしたんでしょう。で、わずかな給金をね、食うものも食わず、着るものも着ずに倹約して、奥方の在所に送ってらしたに違《ちげ》えねえんです。  話しながらふと真顔になって、今年の作柄のことをお訊ねになりやした。 「ところで佐助。この秋の実りはいかがなものじゃろう」なんてね。  奥方とお子様方が宿下りしている先は、雫石のご実家だてえことは知っておりやした。 「ご心配《しんぺえ》には及ばねす。今年は日照りも長雨もなぐ、まずは上々に実が入《へえ》っておりあんす」  とっさに、そんな嘘をついちまった。本当のことを言えば、さぞかし気に病みなさるだろうと思ったもんで。  幕末のあのころァ、凶作が毎年のお定まりみてえなもんでして、その年も夏冷えに秋口の長雨が重なって、まともに実の入った稲なんてなかったんです。江戸に上る道みち、その惨状は目のあたりにしてめえりやした。  新|時代《じでえ》のモダンなお客人に、こんなこと言ったってひとっつもわかりゃしねえでしょうけどねえ。あのころの飢饉てえのは、きょうびの不作たァわけがちがうんです。口に入《へえ》るものが、豆一粒もなくなるっての。  生きんがための百姓が、ぼろぼろの亡者の群になって盛岡の御城下に押し寄せるんです。それをそっくり受け容れてたら無茶苦茶なことになっちまうもんで、街道筋の寺に救い小屋を建てるんだが、それもしめえには戦場みてえな屍《おろく》の山になった。  雫石街道が御城下に入る夕顔瀬橋のあたりにも、そんな救い小屋があったんでござんすよ。  なけなしの一両を、飛脚賃まで値切って仕送りしようてえ吉村さんに、そんな有様を言えるもんか。ましてや一蓮托生の五人組でおたげえの暮らしを見張っている村のこってす。その一両が果たしてご家族の命を救えるかどうかだって怪しいものでした。  どうしてこの人は脱藩なんぞしちまったんだろうって、しみじみ思いやした。たしかに剣術は達者です。学問もありやす。字なんか書かせりゃあんた、私にァ上手も下手もわかりゃしねえけど、大野の御隠居様が唸るてえほどの御能筆なんです。国元でやっていけねえはずはねえんだ。  人間はそんなにも器用なのに、生き方がぶきっちょだってえの。何だって真正直に生きることしか知らねえお人だったんです。  世渡りのできねえ人間が、生き馬の目を抜くてえ江戸にのこのこ出てきて、いってえどんな苦労をなすってるんだか、その日の吉村さんの顔にははっきりと書《け》えてありましたっけ。  そう言やァ——  そんとき、新選組の話をいたしやした。江戸じゃあ噂しきりだったんでござんすよ。牛込は試衛館道場、天然理心流の剣客近藤勇が率いる新選組てえの。京都守護職会津肥後守様の下で、徳川の天下をゆるがさんとする不逞浪士どもを、バッタバッタと斬りまくってるって、瓦版《かわらばん》どころか早くも講談話になるてえほどの大した人気でした。  その年の夏に、有名な池田屋騒動がありやして、今で言やァさしずめ三面記事の大見出しでござんしょうか、一躍江戸っ子の間で大評判になったらしいんです。  徳川の屋台骨がぐらついているってのはわかってましたからね、新選組の風聞はお膝元の江戸っ子たちをたいそう喜ばせたんでしょう。ともかく江戸市中の飲み屋じゃあ、酒の肴は新選組でござんした。  瓦版を片っ端から読みあさって、まるで見てきたようなことをしゃべるやつもいたし、俺ァ近藤勇の知り合いだてえ酔っ払いが、そこいらじゅうにいたもんです。  正直のところ、天然理心流だの試衛館だの、それまで誰も知らなかったぐれえのちっぽけな町道場でござんしょう。それが、話に尾鰭《おひれ》のつくうちに、天領多摩の地侍は実はみんな天然理心流だってことになりやして、腰くだけの幕閣に業を煮やして、多摩の壮士たちが不逞浪士を成敗するために京へと上ったんだてえ筋書きができ上がっちまったんです。何だって噂話てえのは、酔っ払いの口から口へと伝わるうちに、都合よく面白えものに変わっちまいます。  ちょうどそのころの目新しい噂といえば、深川佐賀町の伊東道場てえのが、御師範門弟こぞって京に上り、新選組に合流したから、こいつァ鬼に金棒だてえことだった。私《あつし》ァその伊東道場が何様かは知らねえが、「通」に言わせれァ、千葉周作の流れを汲む北辰一刀流の名門なんだそうです。 「わしも、近々京さ上って新選組さ雇ってもらえねえもんかと思うておるのじゃ。北辰一刀流の免許ば物を言わせるのは、これを置いて他にはねえべ」  そいつァ結構な話だ、ぜひそうなさいと私も賛成いたしやした。べつに私が言ったからそうしたわけじゃありますめえが、それからわずか三年ののちに世の中がひっくり返《けえ》っちまうなんて、誰も考えちゃいません。たしかに吉村さんほどの腕前ならば、近藤勇の目に止まって一働きなさると思いやしたし、何よりも知り合いがあの新選組に入《へえ》るなんて、考えただけで胸がわくわくしやしたから。  包み隠さず申し上げやすとね、私ァ飲み屋でいい顔がしたかったんです。 「おうよ。お前《め》ら、わしを南部の田舎者だと思うて馬鹿にするでねぞ。新選組の調役監察、剣術師範の吉村貫一郎先生てば、国元じゃこのわしのよおく見知ったお人じゃ。新選組の鬼貫の昔話なら、何でも聞かせてやる」  なんて、言ってみたかったんですよ。  よかったら一服おつけなさんし。  私《あつし》もこのごろ煙管《きせる》はやめて、巻煙草にしちめえましてね。バットってえ、野球のバットじゃあなくって、蝙蝠《こうもり》のことなんでござんすかい。旨えたァ思わねえが、面倒がねえってのが新時代なんでござんすねえ。  ところで、世界大戦はどうなるんでがしょう。ドイツは手強《てごわ》いからねえ。海軍の力じゃイギリスが上なんだろうけど、やつらは飛行船だの飛行機だの潜水艦だのって、新兵器を使いやがる。いずれイギリスも往生しちまって、本格的に日本が参戦せずばならねえてえことになるんでしょうか。  そのつもりでなけりゃあ、こんなにどんどん軍艦をこさえるもんか。ついこの間、榛名と霧島が進水したと思ったら、今度は三万トンの扶桑《ふそう》が完成だ。三十六サンチ砲が十二門てえ、いってえどんな馬鹿でけえ軍艦か知らねえけど、威力は今までの戦艦の五割増なんだそうです。  まったく、これが五十年ばかり前《めえ》にダンビラ提げてチャンチャンバラバラやってた同じ国かと思や、夢を見ているような気になりやす。  ま、私みてえな旧弊《きゆうへい》にァ、新時代とやらについて行くにも、煙管をバットに替えるのが精いっぺえのようでござんす。  あの日——私ァ吉村さんに、懐の中の銭をそっくりお渡ししやした。  中間の分際でお侍に情けをかけるなんてのァもってのほかだが、こちとら食うにァ困らねえ身の上だし、まだ二十一、二かそこいらで威勢もよかったからねえ。  京に上る路銀の足しにでもしておくんなさい、と言って巾着ごと渡しやすと、嬉しそうに受け取って下さいやした。  なあに、仲間うちの博奕《ばくち》で稼いだあぶく銭《ぜに》でさあ、恩着せるような大した金じゃあござんせん。  上屋敷に戻って、次郎衛様のお耳には入れやした。すると、常日ごろはまず槍が降ったって顔色ひとつ変えねえお人が、ぎょっとなさいやしてね、居場所をお訊ねになるんです。私ァ、吉村さんの家《やさ》を聞いてなかった。もっとも事情が事情ですから、訊いたっておっしゃるはずもありやせんがね。むろん、御旗本の青山なにがしのお屋敷にいらっしゃらねえことはたしかです。  うっかり聞き忘れやしたと言うと、次郎衛様に怒鳴りつけられやした。 「お前《め》は何たる気の利かねえ男じゃ。お前が貫一と会うて、身の上話ば聞いてどうする。なしてわしに引き合わせようとは思わながったのじゃ」  実のところ、そう思わなかったわけじゃあねえんで。しかしそのあたりの気働きってえのは、難しいところでござんすよ。  なにせ大野次郎右衛門様は、藩の御重臣方々がこぞって頼りとするお人でござんすからねえ、中間の私から見てたって、どこまでが公人でどこからが私人なのか、よくわからなかったんです。  国元ではあれほど仲が宜しかったんだから、一目お会わせせずばなるめえと思う反面、もし顔を合わせたならおたげえ立つ瀬がなかろうって。いえ、次郎衛様はもう吉村さんにかかずり合っちゃならねえんだって、私《あつし》ァ考えたんです。  その晩でしたか、私ァ次郎衛様のお部屋に呼ばれましてね、根掘り葉掘り、見聞きしたことを訊かれました。  どんな身なりをしていたか、痩せてはいなかったか、顔色はどうだったか、って。  いくらかうまいふうに言っちまいました。次郎衛様が心の底から吉村さんを気遣っているんだってのがわかりましたから、少しは安心していただこうと思って。  びっくりいたしやしたのはね、話が終わって下がるときに、次郎衛様は私を呼び止めてお足《あし》を下すったんです。 「佐助、お前、貫一に銭こば呉《け》でやったろう」ってね。  まったくあのお方は、他人の立場というものを深く斟酌なさる、思慮深え人物でござんしたよ。  吉村さんと江戸でお会いしたのは、その一度きりでござんす。  もっとも、それが今生のお別れになったわけじゃあござんせん。お客人もおそらくご承知なんでしょうけれど、それから四年後の戊辰の年の正月に、もういっぺんだけお会いすることになりやした。  冷てえようですけどね、私ァその間、吉村さんのことなんざちっとも考えてなかったような気がいたしやす。  それどころじゃあなかったんですよ。まあ忙しいのなんの、いえ正しくは私が忙しいんじゃなくって御主人の次郎衛様が忙しいんですけどね。こちとらお供の中間だから、やっぱし忙しかった。  大野家は四百石取りの御高知《おたかち》ですから、正式には藩でお定めになった諸士軍役てえのに従って、お供揃えをぞろぞろと連れ歩くものなんです。供侍が四人、槍持と甲持《かぶともち》がそれぞれ一人ずつ、具足持が二人、馬口取《うまくちとり》が二人、あと、雨衣箱持が一人、小荷駄持の人足が二人の、つごう十三人ですか。御高知の供揃えてえのは、それぐらい賑々《にぎにぎ》しいものだったんでござんすよ。  ただし、そういうのは正式なお定めごとでござんして、べつに年がら年じゅうそんなふうに行列していたわけじゃあねえ。私がご奉公に上がったころには、御禄の借上《かりあげ》なぞで御高知衆の台所《でえどこ》も苦しかったんでしょうか、どこのお屋敷にもお定め通りの頭数なんて揃っちゃいなかったと思いやす。  御禄の借上てえのは、早え話が給金の遅配でござんす。  で、正月の初登城のときなんざ、きちんと軍役通りのお供揃えをしなけりゃならねえから、暮のうちにバタバタと員数《いんずう》合わせの人探しなんぞをしたもんです。  私の本来のお役目は馬口取なんですけど、ほかに人がいねえんだから何でも屋でござんす。次郎衛様てえお人はともかく物事を本音でお考えになるご性格だったもんで、表《うわ》っ面《つら》だけの御家来衆などお連れにはならねえ。どこへ行くにもお供は私ひとりで十分てえわけです。  御隠居様はしばしば、「も少し体面を気にせえ」とおっしゃっておられやしたけど、次郎衛様は「体面ば気にする時世ではござんせん。藩の勘定方ば仰せつかるわしが、率先して倹約せねば、財政など語ることはでき申さぬ」なんて、言い負かしておられやした。  次郎衛様は孝行息子のお手本みてえなお人でござんしたが、ご自分の考えは頑として譲らぬ強情なところもありやして、またそのお考えてえのがいちいち尤《もつと》もなもんだから、さしもの御隠居様も無理強いはできなかったんです。  したっけ、親子の仲はよろしかった。そりゃあ、お武家のことですからねんごろな仲睦まじさはお見受けできねえけど、次郎衛様は孝行の限りをつくしていらっしゃったし、御隠居様にとっても自慢の倅だったはずでござんす。妾腹ってことで、お若い時分にはずいぶんと辛い目にも遭われたんでしょうが、次郎衛様にはそうしたご苦労も、いい肥やしになってらしたんでしょうねえ。  ま、ともかく、そんな次第《しでえ》でいつだってお供は私《あつし》ひとり。  もっとも体はご覧の通りの十人力でござんすし、挟箱《はさみばこ》を担いだまま馬の口取りもするなんてのァ朝飯前のお茶の子さいさいでござんす。読み書きはからきしできねえけど、頭が足らねえわけでもねえ。つごう十三人分のお役目は、ちゃんとさしていただきやした。  ところが、次郎衛様の忙しさてえのァ、まったく半端じゃねえんで。  弁はたつ。計数にァ明るい。体はお小せえけど色白の小肥りで、押し出しも利く。「よきにはからえ」なんて、口がさけたって言わねえご性分だ。で、商人《あきんど》どもにやりくられねえためにァ、とにもかくにも大野次郎右衛門しかいねえってわけで、ここ一番のお役目や交渉事には決まって担ぎ出されたんです。  年に何度も、国元と江戸とを往ったり来たり。ふつう半月もかかる江戸までの百四十里を十一日で歩《ある》ったり、火急の御用のときは七日の早駕籠《はやかご》ですっ飛ぶんです。で、どんなに忙しくたって、御重役方々の納得するようにきちんと話をまとめ上げるもんですから、いよいよ信頼も増して、いよいよ忙しくなるって寸法。  いやはや、帳面を睨みながら茶漬を食うなんてのァ当たり前《めえ》、尾籠《びろう》な話ではござんすが、糞小便せえ勝手にひれねえような働きっぷりでござんしたよ。  今にして思えば、次郎衛様は三十そこそこの若さで、南部二十万石の身代を背負《しよ》って立ってらしたんですねえ。  大坂の御蔵屋敷差配役を仰せつかったのァ、御一新の前年、慶応三年卯の年の秋でござんした。  何てったって、年貢米を金に替える大坂の御蔵は藩財政の咽元でござんす。そこには長えこと御留守居役と呼ばれる役人が詰めていたんですけど、爪の長え大坂商人にさんざやりくられちまっていてどうしようもねえ。で、藩としては切り札の次郎衛様を送りこんで何とかさせようてえことだったらしい。  大坂詰の役人方や出入りの商人は、次郎衛様のことを「御差配様」と呼んでました。責任者は従前通り「御留守居役様」がいるんですけど、その方とは別の御差配様てえのは、さしずめ急場に駆けつけた助ッ人の親分みてえなもんでしょうか。  大坂は天下の台所で、日本中の米が集まるんです。  米の内訳は、地方の商人《あきんど》が買いつけた納屋物《なやもの》と、諸藩が徴収した年貢米です。大坂に集まる米は年間四百万俵もあったそうでござんすが、そのうち納屋物は四分の一、残る四分の三は年貢米で、諸藩の蔵屋敷に入ったんです。そのほかにも御蔵には、各地の名産品などが集められましたから、それを商人に売って金に替えるお役目てえのは、それこそ藩財政の要《かなめ》だったんでしょう。  南部にゃいろんな名産品がござんしてね。長崎貿易で物を言った銅や、三陸の塩干物《えんかんぶつ》を詰めた俵物、ことに大豆は虎の子だった。もともと米の作柄は大したものじゃあねえんですけど、南部大豆といやァ大坂の相場を左右するほどの名物でした。たとえ米が不作でも、大豆はそこそこに収穫できやすから、こいつの高売りをするてえのが、どうも次郎衛様のお役目だったらしい。  それにしても、大名の御蔵屋敷が淀川の両岸にずらりと建ち並ぶ様ァ、豪気なもんでござんしたよ。  その繁盛ぶりばかりァ、天下の雲行きなんぞたァ皆目関わりがねえんで。  中之島は大藩の御蔵屋敷ばかりでござんした。その中之島を中洲にして、堂島川の北岸、土佐堀や江戸堀の両岸につらなる御蔵屋敷は、しめて百三十いくつてえ壮観でした。  南部藩の御蔵はその土佐堀の岸にございやして、お隣が彦根の井伊様、栴檀木《せんだんき》橋を渡った向こっかしの中之島が、石州浜田の松平様、福井の松平様、薩摩の島津様の御蔵屋敷でした。  北浜の過書《かしよ》町と呼ばれていたそのあたりはわりあい御蔵が少なくって、商家だの銅座だの商人の寄合会所だのが建ち並ぶ川筋に、南部と彦根の蔵屋敷が隣り合わせになっておりやした。  次郎衛様がお着きになったときの仰々しい出迎えは忘られやしません。まるで腫れ物にでも触るみてえに、お供の私《あつし》にさえほかの中間たちがヘコヘコとへつらうんです。  そりゃあ、大野次郎右衛門といったら、名前を聞いただけで三井|鴻池《こうのいけ》だって慄え上がるてえほどの切れ者でござんす。それまで奴らと結託して何をしてたかわからねえ蔵役人たちにしてみれァ、さぞかしおっかなかったんでしょう。  御留守居役は勘定方の先輩。ほかの御役人の中にも、家禄でいうんなら次郎衛様より上の方が何人もいらっしゃいました。  出入りの商人たちも大勢出迎えておりやした。蔵屋敷てえのは何ともふしぎな仕組になっておりやしてね。建前上は幕府のお達しにより、諸藩が大坂に蔵屋敷を持つことは禁じられていたんです。だから、南部藩の御蔵屋敷といったって、名義人は「名代《みようだい》」と呼ばれる御用商人でして、それに蔵物の出し入れをつかさどる「蔵元」てえ商人がおり、代金の決済を代行したり国元へ送金したりする「掛屋」てえ商人がいた。  どこの蔵屋敷にもそれぞれ三軒の商人が出入りして実務を取りしきり、藩の御留守居役以下の御役人は、いわばそれを監督する立場だったてえわけです。「よきにはからえ」ってやつでござんすよ。  ええと——わかりづれえですかい。  なら、うんとわかりやすく申し上げやしょう。  侍が商売に手を染めるてえのが、そもそもご法度《はつと》なんです。だから、実務はみんな商人まかせだった。  蔵屋敷はたしかに南部藩の専用なんですけど、名代と蔵元と掛屋がその場を借りて商売をしていた。つまり、その三つの商人てえのは、今日びでいうならさしずめ、不動産屋と商社と銀行。お上の御用をこの三つが請けてしこたま銭儲けをするってえ仕組は、何のことはねえ、今も昔も変わっちゃいねえってこってす。  無学なやくざ者が、こんなことを口にするのは何ですけどねえ、昔を知っている私《あつし》なんぞに言わしてもらえるのなら、こうした根っ子の仕組てえのを改めずに、五十年が百年たち百五十年たった日にゃあ、へんてこな国になりやすぜ、日本も。  こんな慣れ合いの商売をしてたら、その監督役の役人がいい思いをするのァ当たり前《めえ》です。で、揉め事が起こりゃあ、私みてえな無学だけれど世間がよく見えていて、腕っぷしが強えやくざ者がしゃしゃり出て、丸く収める。  そういう世の中が、たとえ万事丸く収まったにせえ、いいものだとは思えやせん。  つまり、私らが到着した日にァ、御玄関に御留守居役以下のお役人が勢揃い、御門から御玄関にかけての砂利の上にァ、出入り商人の主人から手代まで、ずらりと土下座して出迎えたてえわけです。  どの顔にも、「お手やわらかに」って書《け》えてありやしたっけ。  私ァしがねえ中間でござんすから、次郎衛様がいってえどんなお仕事をなすってらしたんだかは存じやせん。だが、それまで慣れ合いでだらだらやっていたものが、まるで赤銅《あかがね》の箍《たが》でも嵌《は》めたみてえに、ピシッと引き締まった感じはいたしやした。  それもけっして、次郎衛様のご威光のせいばかりじゃあねえ。あのお方はともかく働き者だったから、それまで商人まかせでのんびりしていたお役人たちも、じっとしているわけにァいかなくなったんでしょう。  なにせ次郎衛様は、商人を呼びつけるてえことをしねえ。根がまめなうえに、何だって人任せにできねえ性分だから、どんどんこっちから出かけてくんです。だもんでお供の私も、毎日息つく間もねえぐれえの忙しさでござんした。  私がここまでやってこられたのも、次郎衛様の仕事っぷりを学ばせていただいたのと、ずっとお供をして、忙しい思いをさしていただいたからだと思っておりやす。  人を束ねる器量てえのは、学問じゃあござんせん。苦労の分だけ、そういう器はちゃあんと備わるものでござんす。  ——やい、人の話を帳面に書きとるてえのはたいげえにしない。そういう了簡じゃあ、いくら足を棒にして歩き回ったって、いい仕事はできやせんぜ。他人様《ひとさま》の話はみんな説教だと思って、一言一句、胸の底にお収《しめ》えなせえ。  まだ若えな、客人。  さて、話はいよいよ慶応四年、すなわち明治元年戊辰の年の正月七日てえことになりやす。  三日に切って落とされた鳥羽伏見の戦は幕府軍の大敗、すわ大坂城に立て籠ってもう一戦かと思いきや、公方様はとっとと天保山沖から軍艦に乗って江戸へとお逃げになる。  はてさて、このさき世の中はどう転がっちまうものやらと、私《あつし》らは息をつめて見守っておりやした。  南部藩はのちに、奥羽越列藩同盟に伍《くみ》して官軍と戦うことになりやすけど、このときにァまだどっちつかずの立場でござんした。  だが本心を申しやすとね、誰も幕府が負けるたァ思ってもいなかったんです。そりゃあそうでしょうよ、薩摩長州がどれほどのもんか知らねえが、こちとら東照神君の再来だてえ慶喜《けいき》公が、とうとう堪忍袋の緒を切ってご出馬なんだ。一万五千てえ大軍が大坂城を出て京に向かったのも、この目で見ておりやしたしね。  次郎衛様のお指図で、蔵屋敷からは物見が出ておりやした。その方たちのもたらす戦況をとりまとめて、次郎衛様がこと細かな書状にしたため、毎日国表へと早馬を出すんです。  初めのうちは幕軍優勢、ところがじきに怪しくなって、まったく寝耳に水の総崩れてえことになっちまった。  こうなると大坂が戦場になるかもしらねえってんで、蔵屋敷の塀まわりに御家紋の入った高張提灯《たかはりぢようちん》を竿竹にくくりつけて、ずらっと並べ立てやした。中立の印ってわけです。  次郎衛様のお指図はみごとなもんで、ともかく戦装束は相成らん、平装に襷《たすき》がけで門だけを固め、飛び火を消す用水は十分に用意しておけ、落武者等は一切かまうべからず、追手等ももてなすべからず、戦の帰趨《きすう》についても語るべからず、ここは商人どもが取りしきる御蔵屋敷にて、われら南部衆は取引を見届けるために滞留しているのだ、てえわけです。  そういう態度を徹底していなけりゃ、どんな火の粉が降りかかってくるかわからなかった。なにせ私らは、国表を遥かに離れた大坂で、早瀬に取り残されたようなものだったんですから。  私らがそんな具合に、高張提灯を張りめぐらした御蔵屋敷の中でじっと息をひそめていた正月七日の夜更け——あの人がやってきたんですよ。  もし神さんや仏さんが本当にいなさるんなら、あれァ、まったく悪いいたずらだ。  たまさか次郎衛様が御差配役を申しつかっていた御蔵屋敷に、半分死にかかった吉村さんが転がりこんでくるてえの。私ァいまだに、その偶然てえやつが信じられねえんです。酔狂な仏さんが、そんなとんでもねえ筋書きをお書きになったとしか思えねえんで。  雪が降っておりやした。  何だか外が騒々しいんで、門続きの中間部屋の曰《いわ》く窓からね、顎をつき出すみてえにして覗いて見たんです。  門前に焚かれた篝《かがり》の下に、ひとめで鳥羽伏見の落武者とわかる傷だらけの侍が、蹲っていた。まわりを門番たちが取り囲みましてね、お指図通りに追い返そうとしているんです。  門番の足元にすがりながらの、必死の命乞いが耳に届きやした。 「わしは、去る年に仔細あって南部国表ば脱藩した者にござりあんす。どなたか覚《おべ》てはおらねがか。吉村貫一郎と申す組付同心にてござんす」  私《あつし》ァ腰が摧《くだ》けるほどびっくりいたしやして、下帯に半纏を羽織ったまま、中間《ちゆうげん》部屋から転がり出ました。  夜更けのことですから、むろん御蔵屋敷の門は閉まっておりやした。  すぐ内っかわにある門番所はもぬけの殻で、控えの侍たちも表の物音を聞きつけて飛び出したんでしょうか、門の潜り戸が開けっ放してあったんです。  長屋門の真暗な闇の中に、小さな縦長の潜り戸が、まるで貼りつけたみてえに真白く開いておりやしてね。ちょうどすっぽりと、そこに吉村さんの姿だけが嵌まっていた。  うっすらと降り積もった雪の上に、吉村さんは抜身の刀を握ったまま、土下座するみてえな格好でちぢかまっていなすった。門前の篝火と、番人たちが持つ提灯のあかりが、お気の毒なその姿を照らし出しておりやしたっけ。  いや、ちがうな……こんなことを言うと、あんまり不憫《ふびん》な気もいたしやすが、嘘のつけねえ性分なもんで仕方ありやせん。  吉村さんは土下座するみてえな格好をなすってらしたんじゃあなくって、本当に土下座してらしたんです。  命乞い、ってやつでござんすよ。  同輩の誼《よし》みをもってどうか匿《かくま》ってくれ、というようなことを、ひとりひとりの足元に頭をこすりつけるようにして、しきりにお願いしてらっしゃいました。  私はね、吉村さんを扶《たす》け起こす侍がいねえのが、ふしぎでならなかった。だって、門番なんてのは足軽の仕事だもの。吉村さんと同じ分際の足軽が十人も雁首そろえてね、そりゃあ六年ぶりのことなら知らねえやつもいるだろうけど、中には上田組丁のお仲間だっているだろうし、剣術や読み書きを吉村さんから教わった若侍だっていねえはずはねえんだ。  ところが、誰も吉村さんを労《ねぎら》おうとはしねえ。それどころか、悪口雑言を浴びせかけるわ、六尺棒で小突き回すわ、しめえには「斬れ、斬れ」なんぞと言い出す始末でね。  私にァ、どうすることもできなかったんです。お侍のやっていることに、中間が横から口を挟むなんてとんでもねえや。  吉村さんの一言一言にァ、胸のかきむしられるような思いがいたしやしたよ。 「わしは、雫石の在所に、妻《かが》と三人の子がおりあんす。脱藩ばいたしたのも、元はと言やァ妻と子らに、ひもじい思いばさせてはならねと思うたゆえでござんす。妻も子らも、わしの帰《けえ》りを待ちわびておりあんす。どうか、この命ばお助けえって下んせ」  すると門番の一人が声を荒らげて言った。 「足軽ならばひもじい思いはみな同じじゃ。わしの子らがひもじい思いばしておるときに、お前《め》の子はたらふく食うておったのじゃろう」  むろん、それも道理でござんしたよ。吉村さんを罵る足軽たちの声も、いちいち私の胸には応えました。 「そんたなことは、重々承知の上のお頼み事にござんす。皆々様のお情けばもって帰参が叶い申《も》したなら、吉村貫一郎、今度こそは命ばかけて、忠君のため勤皇のために働き申す。どうかして、御蔵役様にお取次ぎ下され」 「昨日は佐幕、明日は勤皇と、そんたな日和見の侍に何の働きができる。さっさと去《い》ね。行かねのなら、お隣の彦根屋敷にでも、川向こうの薩摩屋敷にでも突き出すまでじゃ」 「そんだば、こちら様。お願いでござんす。組こそ違《つが》えども、たしか上田組丁にお住まいの方とお見受けいたしあんす。ならばわしの顔もご存じのはずではござらんすか。この通りでござんす、どうかお取次ぎ下され」  足にすがられた侍は、後ずさりながら言ったもんです。 「わしは、お前《め》など知らぬ。なして南部の侍が新選組におるのじゃ。お前、騙《かた》りではねのか。命惜しさに、そんたな出まかせば言うておるのじゃろう」 「いんや、わしは代々南部の御禄ばいただいてた、足軽にてござんす。嘘ではござらぬ。騙りなどではなござんす」  私《あつし》の勝手な想像ですがね、あんときは門番たちも、内心たいそう辛い思いだったんじゃあないでしょうか。そうでもなけりァ、血まみれの吉村さんがよほどおっかなかったのかもしれねえ。  そうこうするうち、門番の中でもちょいと年かさのお侍が、物も言わずにひょっこりと潜り戸から入《へえ》ってきたんです。で、暗闇で立ちすくんじまってる私に気付いて、 「御差配役様にお訊ねして参る。良《え》な」  と、小声で言った。  私ァたしかに次郎衛様の中間にァちげえねえけど、御家来てえほど偉かねえんだから、そんなことをいちいち言うこたァねえんだ。だがそのお侍は、私の目をじっと見て、「良な」と念を押したんです。  たぶん、その人は上田組丁の足軽で、大野様と吉村さんの関係をいくらか知ってらしたんじゃあねえんでしょうか。だから私なんぞに、ひとこと声をかけたんだと思います。  私はね、手を合わせましたですよ。唇が凍えちまって何も言えやしなかったけど、よろしくお願いします、ってね。  夜更けに次郎衛様の寝間まで上がりこんで話を取次ぐなんて、中間《ちゆうげん》にゃできることじゃなかったから。  それからしばらく、私ァ御玄関と門の間をうろうろと行きつ戻りつしておりやした。考えてみれァ、褌《ふんどし》の上に半纏一枚で、草履もはかねえ素足だったんです。そんでも、寒いとか冷てえとかも感じねえぐれえに、気分が昂《たかぶ》ってました。  正直のところ、これで吉村さんは助かると思ったんで。あの人にはきっと、神仏のご加護があったんだと思いやしたですよ。  門番はじきに奥から戻ってきて、御玄関先でうろうろする私に言った。 「佐助、御差配役様がお呼びじゃ。あの者を通すゆえ、灯りば持て」  私ァ、体じゅうの力が抜けちまうほどホッといたしやした。  客人。お前《めえ》さん、神仏てえの信じますかい。  私《あつし》ァ、こうして御神前に座っちゃいるが、実のところはこれっぽっちも信じちゃいねえんです。  もともとは信心深えほうではござんしたがね。御一新の年の正月七日のあの晩を限りに、金輪際、信じるこたァやめにしたんで。  じゃあ、私のこのうしろにあるものは何かってえと、神棚じゃあねえ。お酉《とり》さんの熊手とか、鰯の頭と同《おんな》し縁起物でござんす。だから私ァ、毎朝お神酒《みき》を上げて柏手のひとつぐれえは叩きやすが、ああせえこうせえなんぞと頼み事をしたためしはござんせん。  神さんも仏さんも、そんなものはありゃしねえと思ってますから。神仏に手を合わせてどうにかなるてえんなら、世の中誰も苦労なんざしませんや。  一家を張ってる貸元の背中にこういうもんがなけれァ、格好がつかねえでしょう。それだけのこってす。  吉村さんだって、どのぐれえ神仏にお願いしたか知れねえよ。倅や娘にひとめ会わせてくれろって、あの人はずっと願い続けていたに違《ちげ》えねえんだ。  門前での命乞いだって、てめえの命を惜しんでしたわけじゃあねえ。あれほど大事《でえじ》にした女房子供を、もういっぺん抱きてえ一心の命乞いだったに違えねえ。  そうでなくっちゃおめえ、二本差しのお侍が土下座なんぞできるもんか。たとえ足軽にせえ、昔の侍てえのはそのぐれえ気位の高いものだったんだ。  その願いが、天に通じたんだと思った。神も仏もあるもんだと、私ァそのときしみじみ思ったもんでござんすよ。  私が灯りを持って御廊下に上がりますと、評定をなすってらした座敷からどやどやと上士の方々が出てきた。真先に歩いてくる次郎衛様のお顔は青ざめてらっしゃいましたよ。  長い御廊下の足元を照らしながら、奥座敷のほうへと参《めえ》りやすと、雨戸が一枚開いておりやして、そこから雪明りが差しこんでいたんです。  御廊下を歩《ある》って行く間じゅう、私ァ次郎衛様のお顔色をずっと窺っておりやした。蝋燭に照らし上げられたお顔がね、だんだん変わってくんです。真青だったものが、こう、だんだんに、だんだんに、赤みを帯びてきて、終《しめ》えには仁王様みてえな恐《こえ》えお顔になっちまった。  御廊下の途中にある座敷から、騒ぎを聞きつけた藩士の方々が起き出して参りやして、みんなおそるおそる、次郎衛様の後ろからついていらしたんです。何ごとじゃ、何ごとじゃ、とね。  吉村さんは裏庭の雪の上に、両脇を門番に支えられるみてえにしてかしこまってらっしゃいました。  雪明りの差しこむ御廊下に立つと、次郎衛様は刀の鐺《こじり》を床について、物凄く恐えお顔をなすった。で、庭先の吉村さんをじっと見下ろしやしてね、いきなり、信じられねえことをおっしゃったんです。 「この、戯《たわ》け者が。お恥《しよ》すとは思わねがっ」  とね。  肚の底から絞り出すような、そりゃあおっかねえお声でござんしたよ。  ぎょっとしたのは私ばかりじゃなかった。みんながみんな、門番たちも、廊下の先からついてきた御重役や藩士たちも、ぎょっと次郎衛様に目を向けたもんです。  一番びっくりなすったのは他でもねえ、吉村さんでござんしょう。ちょいとの間、ぽかんと次郎衛様を見上げてらっしゃいました。それから、何だかんだと言いわけがましいことをおっしゃったと思います。  脱藩をしたのは志のためだとか、何かの行き違いで不本意な戦をしちまったが、帰参が叶えば一所懸命に働くとか。  門の外で言っていたこととはてんで違うんです。したっけ、そんなふうに言うほかはなかったんでござんしょう。次郎衛様はそれぐらい、きっぱりとした御役目の顔で向き合ってらしたんですから。  聞くだけのことを黙ってお聞きになると、次郎衛様は吐き棄てるみてえにおっしゃった。 「何を今さら、壬生浪《みぶろ》めが」  こうもおっしゃいました。 「お前《め》が勤皇の士じゃなぞと、誰が信じるか。せめて南部武士のはしっくれなら、新選組の屯所さ取って帰《けえ》し、潔く会津様のご馬前にて討死せえ。良《え》な、吉村。不義不忠の限りばしおって、あげくに帰参ば願い出るなど、とんでもねえことじゃぞ」  吉村、という名前を聞いたとたん、廊下の先に集まっていた藩士たちの間からどよめきが起こりやしたよ。そりゃあそうです、足軽の中にァ組が違えば吉村さんのことを知らねえ人はいただろうが、藩道場で剣術の稽古をしたり、子弟を藩校に通わせたりしている上士の方々が、吉村貫一郎という名前《なめえ》を知らねえはずはなかったんです。  ひでえ話じゃあござんせんか。大勢の足軽たちは、毎日が食うだけでかつかつなんだ。だから道場に通う間があったら内職でも何でもしなくちゃならねえ。子供らだって藩校に通えるのは上士の家ばかりで、足軽の子らはみんな寺子屋さ。そんなわけだから、足軽たちの中には吉村さんのことを知らねえやつもいただろうし、よしんば知っていても、関わりを避けて知らん顔をせずばならなかった。だが、御禄をたんと貰っている上士の方々は、みんな吉村さんのことを知っていた。  北辰一刀流の免許皆伝。藩校の助教。足軽の分際で藩士たちに稽古をつけ、上士の子弟に学問を教えていた吉村貫一郎の名は、上士の誰もが知っていたんです。  次郎衛様からあしざまに罵られても、吉村さんは怯《ひる》まなかった。縁先にまでにじり寄って、懸命にお命乞いをなさいましたよ。だが次郎衛様はそんな吉村さんを、「死に損ね」と言った。「不埒者《ふらちもの》」とも、「南部武士の面汚《つらよご》し」とも言った。はっきりと、そうおっしゃいました。  そしてとうとう、人々が耳を疑うようなことをお口になすったんです。 「んだば吉村。武士の情けじゃ、奥の一間を貸すゆえ、腹ば切れ」  その一言で、あたりのざわめきはしんと静まっちめえました。  他の人たちはどうか知りやせんがね、そんとき、すぐお側にいた私《あつし》にはわかったんです。次郎衛様の本心が。だって、足元の廊下がぎしぎしと鳴るぐれえに、次郎衛様のお膝はふるえていたんだもの。  きっと胸の中では、こうおっしゃってらしたに決まってます。 (貫一。お前《め》、なして戦の前に逃げなかったのじゃ。こんたな体になっては、最早《もは》逃げるにも逃げられねでねえか。ならば、なして新選組や会津の侍たぢと一緒に、大坂城さ入らなかったのじゃ。みなと一緒ならば、生きる道もあったでねが。なして、こんたなところに来てしもうたのじゃ。わしはお前のために死ぬことはできても、お前と南部一国を秤にかけるわけにはいかねぞ。お前ひとりのために、南部二十万石を朝敵とするわけにはいかねのだぞ)  だけどねえ……満身創痍の吉村さんが、どうして南部の御蔵屋敷にやって来たか、そんなことはわかりきってたんですよ。  だって、南部の侍だもの。盛岡の城下で生まれ育った人だもの。  対《むか》い鶴の御家紋の入《へえ》った高張提灯はね、くたびれ果てたあの人にとっちゃ、ふるさとの灯りだったんですよ。その紋所はね、御家紋じゃなくって、恋女房や子供らの住む、ふるさとのしるしだったんでござんすよ。  しかし何だねえ、客人。  新|時代《じでえ》もデモクラシイも結構だが、世の中が良くなったせいで、ここんところとんと男がいなくなっちまった。  そうは思いませんかい。  私《あつし》のとこへ下足《げそ》をつける若い者にしたって、ちょいと叱言《こごと》を言うとすぐにプイッといなくなっちまう。部屋住みの辛抱てえのができねえんです。  もっともこの大戦景気で、誰も食うのにァ困らねえ。何もすき好んでやくざな稼業なんざやらなくたって、三度のおまんまはちゃんと食えるんだから、男を磨けなんてえのがそもそも無理な相談だ。  苦労の足らねえやつらばっかしだから、どいつもこいつも年よりか若く見える。女なら悪かねえが、男が年より若く見えるてえのァ、決していいことじゃありやせん。そんだけ馬鹿、ってこってす。  軍隊じゃあたしかに、死に方は教《おせ》えてくれるがね。生き方ってのを教えちゃくれません。本当はそっちのほうがずっと肝心なんだ。生き方を知らねえ男に、死に方なんざわかるもんかい。  世の中が良くなって、生き方を知らねえそういう馬鹿な男が増えたってこってす。  私なんざこうして生き恥を晒しておりやすが、今にして思や、大野次郎右衛門様も、吉村貫一郎さんも、生き方を心得た立派な男でござんしたよ。いい生き方をしたから、いい死に方ができた。  おや、そうは思わねえんですかい。  次郎衛様や吉村さんの生きかた死にかたが、いいものだとは思えねえって——いいじゃあござんせんか。それが良く思えねえってのは客人、お前さんもやっぱり苦労知らずの新時代なんでござんすねえ。  私はいいと思いやす。武士道なんざくそくらえだ。男が男の道を貫いて生きれァ、ああいう見事な死に方ができるんだって、私《あつし》ァ今も信じてますから。  男なら男らしく生きなせえよ。潔く死ぬんじゃあねえ、潔く生きるんだ。潔く生きるてえのは、てめえの分《ぶ》を全うするってこってす。てめえが今やらにゃならねえこと、てめえがやらにゃ誰もやらねえ、てめえにしかできねえことを、きっちりとやりとげなせえ。  そうすりゃ誰だって、立派な男になれる。  次郎衛様も吉村さんも、それぞれの分をきっちりと全うなせえやした。私に言わせりゃどちらさんも、男の中の男でござんす。  なあに、難しいことなんざひとっつもありゃしません。女房子供や身内の苦労を、男だったらそっくり背負《しよ》えってこってす。私ァ生涯《しようげえ》女房子供を持たねえ博徒渡世だが、その分、手下《てか》千人の苦労は背負って立ってるつもりでござんす。  客人もこのさき長《なげ》え人生、功名を挙げようなんてケチな了簡はお捨てなせえよ。  ただひたすら、男らしく生きなせえ。  あのときの次郎衛様のお気持ちは、言わずともおわかりでござんしょう。  前の年の秋の終わりに、公方様は|政 《まつりごと》を朝廷にお返しになった。世の流れでそれは仕方ねえけど、官位も領地も全部返せと言われりゃあ、はいさいですかとはまさか言えねえ。公方様だって旗本御家人は食わせにゃならねえんですから。  そこで、一万五千の大軍を大坂城から押し出して京に上り、強談判《こわだんぱん》てえことになった。ですから鳥羽伏見の戦てえのは、はなっから天下分け目の戦をしようてえわけじゃあなかったんです。  薩長にしてみれァ、公方様が素直に恭順しちまうより、ちょいとした悶着ぐれえあったほうがいいと思ってたんでしょう。それでこそ、錦の御旗に弓引いた賊軍てえことになりやすからね。つまり、思うつぼってやつでござんす。  私ら中間《ちゆうげん》は天下のことなんざ皆目わかりませんでしたけど、長屋門の隣の部屋が門番の詰所でしてね、襖ごしに侍たちの話がよく聴こえたんです。  鳥羽伏見の戦が始まったのが、正月の三日。東照神君家康公の生まれ変わりだてえ慶喜《けいき》様が、とうとう堪忍袋の緒を切って御出馬だてえんだから、薩長なんざ赤子の手をひねるようなものだろうって、みなさんおっしゃってました。  天朝様が幕府にかわって天下をお治めになるってのァやぶさかじゃねえけど、誰だって薩摩長州の西国大名の下《しも》に立つのはいやです。だからどうしたって、気分は徳川に加勢していた。  公方様が京に上って、天朝様を操っている薩長の賊を追いちらし、天下に号令する。徳川方の先兵は何て言ったって会津様でさあ。そのときは同じ奥州大名の誼《よし》みで、南部藩も立たずばなるめえってえ——まあ、大方はそんな話をしていたような気がいたしやす。  ところが何のこたァねえ。蓋を開けてみれァ、徳川方はさんざんの敗け戦でござんす。こうなると、このさき何がどうなることやらさっぱりわからなくなっちまった。  前にもお話ししましたように、大川ぞいのあのあたりにァ、諸藩の御蔵屋敷がびっしりと軒を並べておりやしてね、それこそどこのお屋敷も息をひそめて、天下の成り行きを窺っていた。私ァ後にも先にも、あんなに静かで、そのくせのっぴきならねえ正月てえのは知りません。  もしかしたら、次郎衛様のお役目は、米や大豆の売り買いじゃあなかったのかもしれないね。その表向きのお役目にこと寄せて、天下の情勢を見きわめろって、御殿様や国元の御重役から言いつかってらっしゃったんじゃねえだろうか。なにせ次郎衛様は、商人筋との繋がりも深かったし、諸藩の蔵役人にもたいそう顔が売れてましたから。  もしそうだとするなら、すっかり説明がついちまうんです。命乞いをする吉村さんに対して、次郎衛様のとった態度とか、おっしゃったこととか。  そりゃあ、とっさには私《あつし》もみなさんもびっくりしましたけど、のちのち考えりゃどうしたって、あのとき鳥羽伏見の落武者を匿うわけにはいかなかった。ましてやその落武者は、新選組の生き残りだてえんですから。  吉村さんを奥座敷に入れたあとで、次郎衛様はいちど裸足で庭にお降りになった。で、しばらく塀ごしに、お隣の様子を窺うふうをなすってらしたんです。  お隣てえのは、御譜代彦根藩の御蔵屋敷でござんした。ご存じでがしょう。桜田門外で討たれた、御大老井伊|直弼《なおすけ》の彦根藩でござんすよ。その彦根が、どういうわけか鳥羽伏見の戦では徳川方につかずに、薩長側で戦っていたんです。  塀ひとつ隔てた向こっかしが勝ち組だてえんですから、落武者を座敷に上げたらそりゃあ気にもなりまさあね。もし察知されて、どういうことだと詰め寄られたなら、とんでもねえ火種にもなりかねねえんです。  それに、もともと隣り合わせの彦根と南部とはしっくり行ってなかった。なぜかてえと、これがちょいとした因縁話でしてね。  南部藩は水戸藩と御縁が深くって、御当主美濃守様の奥方様も、水戸からお輿入《こしい》れになった。  一方の彦根は、なにしろ先代のお殿様を桜田門外で水戸浪士に嬲《なぶ》り殺されてるってわけです。  御譜代大名にもかかわらず彦根が薩長の側についたってのは、水戸出身の慶喜将軍が気に入らねえってこともあったんじゃねえでしょうか。殿様が水戸浪士にやられたそもそもの原因も、将軍の跡取りの問題だったそうですからねえ。井伊大老は慶喜様を推さなかったんですよ。  ま、鳥羽伏見の戦の後で、とっとと江戸へ逃げ帰っちまった将軍の男気のなさを考えますとね、井伊大老の人を見る目は確かだったてえことにもなりやすが。  そういうわけで、彦根藩と南部藩てえのもしっくりとは行っていなかったてえわけです。もともと気に入らねえお隣さんに、新選組の落武者が匿われてるなんてことが知れたらあんた、どんな因縁をふっかけられるかわかったもんじゃありやせん。  次郎衛様はそのあたりを、たいそう気になさってらしたんだと思います。  なにせ次郎衛様てえお人は、気の毒なぐれえの心配りをなさる方だった。その気配りてえのがまた、いちいち尤《もつと》もなんです。だからあのときのことだって、他《はた》は鬼よ蛇よと言ったけれど、決してそうじゃあねえ。この危急のときに、ともかく国を守らねばならねえてえお気持ちが勝ってらしたんです。  たぶん、毎夜のように雪の庭にお立ちになって、塀向こうに耳をそばだてながらね、南部の御家紋の入《へえ》った高張提灯を、じっと見つめていなすったんじゃねえんでしょうか。  対《むか》い鶴の御家紋は吉村さんにとっても、次郎衛様にとっても、かけがえのねえふるさとの旗印だったんでござんすよ。  奥座敷に百目蝋燭を挟んで向き合ったお二人の姿は、忘れようにも忘られねえ。  床の間を背にして上座に座った次郎衛様は、それまで私《あつし》が見たどんなときよりも、背筋が伸びてらした。  本物の男てえもんはね、そこがちがうんです。  どんなにてめえより強え相手に立ち向かうときだって、本物の男はあすこまで気魄を見せることはねえ。本当に力が入るのはね、てめえ自身の心に立ち向かうときなんだ。  あのときの次郎衛様は鬼だった。背筋をぴんと伸ばして、鬼か夜叉《やしや》のように、吉村さんを見おろしていらっしゃいましたよ。  吉村さんのご様子、ですかい。  そりゃあもう、生きていなさるのがふしぎなぐれえのもんで。体じゅう膾《なます》みてえに切られて、鉄砲玉だって何発もくらってらしたんじゃあねえでしょうか。動くたんびに着物のあちこちから、濡れ手拭でも絞るみてえにぐずぐずと血が流れるんです。  それでも次郎衛様の向かいの下座に、こう、きちんとお座りになりやしてね、「お申《も》すわけなござんす、御組頭様」と頭をお下げになった。  あの傷じゃあ、逃げようったって逃げ切れるもんじゃあねえ。どこをどう彷徨《さまよ》って御蔵屋敷までたどり着いたんだか知りませんけど、正直のところ生きて物をしゃべってるのがふしぎなぐれえの深手《ふかで》でした。  私はね、次郎衛様がこっそりお医者でも呼んで傷の手当てをして、折を見計らって逃がすんじゃあねえかと、そう思ってたんですよ。みなさんの手前、腹を切れなんて言っただけなんじゃねえかって。  でも、そうじゃあなかった。二人きりになったあと、次郎衛様のお顔はいよいよおっかなくなったもの。  吉村さんは抜身の刀を握ったまんまだったんです。切先がおっ欠けて、|※[#「金+示+且」]元か《はばきもと》らぐにゃりと弓みてえに曲がった刀でした。そいつを右手に、腰手拭か何かを裂いた木綿でぐるぐると縛りつけてらしたんですよ。 「すまねがほどいて呉《け》れ」  と、吉村さんは私に言った。  真黒に血を吸った木綿はしっかりと締まっちまって、解くに解けねえ。往生しておりやすと次郎衛様が見兼ねて、小柄《こづか》を貸して下さいやした。  いってえいつからそうやって縛りつけてらしたもんだか、ようよう紐をほどいても今度は指が血糊で貼りついちまってるんです。いや、掌がかちかちに凝り固まっちまってたんでしょうか。  指をこう、一本一本、ひん曲げるみてえにして柄からはがしやしてね、すると、ようやくがらりと音を立てて刀が落ちた。  いやはや、物凄え刀でござんしたよ。何十人の人を斬れァ、鋼の刀があんなふうにぼろぼろになるんでしょうかね。  次郎衛様はしばらくの間じっと、畳の上に転がったその刀を見つめてらっしゃいました。  御廊下から障子ごしにさし入る雪明りが、次郎衛様の横顔をしらじらと照らしておりやしたよ。舞い落ちる雪の影が、走馬灯みてえに座敷を染めていたっけ。  相変わらず冷ややかなお顔のまんま、次郎衛様は低い声でおっしゃった。 「貫一。お前《め》、何やらかして来たっけな。畏れ多くも錦旗に弓ば引いて、武士としてお恥《しよ》すとは思わねか。南部の侍が、銭このために人生ひん曲げて、さんざんに打ち負かされ、死に損なって、六年|前《めえ》に砂かけた主家に阿呆面《あつぺづら》さげて命乞いするとは、呆れて物も言えん。さぱっと腹切って死ね。そんたな刀では切るにも切れねのなら、わしの刀ば呉《け》でやる。ほれ、大和守安定の大業物《おおわざもの》じゃ」  次郎衛様はそう言って、かたわらの御腰物を、吉村さんの目の前に置いたんです。  それは金梨子地《きんなしじ》の立派な拵《こしら》えに葡萄色《えびいろ》の柄巻を施した、大野家伝来の名刀でござんした。 「ええな、貫一。こんたなときに及んで、ぐずめくのァ、士道に背くことじゃぞ。くれぐれも不調法《ぶしよほ》せずに、さぱっと腹切って死ね。ええな」  ——ひでえ話だとお思いになりやすかい、お客人。  実のところ、そのときは私《あつし》もそう思いやした。事情はどうあれ、刀がぼろぼろになるまで働いてきなすった吉村さんに、値をつけたらそれこそ何百両もするような名刀を押しつけて、腹を切れとせっつくなんて、たとえ思いつきにしたってひどすぎる。大和守安定と言やァ、足軽ふぜいにゃ逆立ちしたって拝むことすらできねえ名刀でござんすよ。  だから私ァ、そのとたんに次郎衛様のお考えが、さっぱりわからなくなっちまったんです。この人は、やっぱし鬼なんじゃあねえかと思った。  よほどがっかりしなすったんでしょうか、吉村さんは返《けえ》す言葉もなくうなだれちまった。 「ええな、貫一。ぐずめくのではねえぞ。腹切って死ね。ええな」  もういっぺん念を押すと、次郎衛様はそれきり座敷を出て行っちまったんです。私ァ、ただおろおろしちまいましてね、「吉村さん、早まらねで下んせ」とだけ言い置いて、次郎衛様を追っかけました。  ずんずん御廊下を歩って行く次郎衛様に、うしろからすがりつきましたですよ。 「お願えでござんす、旦那様。腹ば切れなどと、切《せづ》ねえことはおっしゃらねえで下んせ。何とか吉村様をお助けえって下んせ」  次郎衛様は私の顔を思いっきり足蹴になさいましたよ。ご奉公に上がってこのかた、足蹴どころか手を挙げられたことすらなかったんですから、私ァ痛えよりも何よりもすっかり畏れ入っちめえましたっけ。 「下郎の分際で、主人に意見ばするとは何ごとじゃ、黙れ」  そのときはね、さすがに御高知《おたかち》様ってのはこんなものなんだって思いましたよ。いざとなれァ、てめえのことしか考えねえんだなあ、って。  あちこちの座敷から障子を開けて、お侍たちが首を出してました。歩きながら、御蔵屋敷じゅうに響き渡るような大声で、次郎衛様はおっしゃったもんです。 「ええか、おのおのがた。わしの指図を違《たが》える者は許さぬ。恥知らずの不埒者に情けは無用じゃ」  私《あつし》ァね、お客人。あの晩|以来《いれえ》、雪ってやつが大嫌《でえつきれ》えになっちまったんです。  雪もよいの日にァ、どんな大事《でえじ》な約束事だってうっちゃらかして、猫みてえに丸くなってまさあ。そんな私を子分どもは、「親分は北国の生まれなのに、何で寒がりなんですかい」、なんぞとふしぎがりますけど、そうじゃあねえ。寒がりなんじゃあねえんです。  雪を見るとね、あの正月七日の晩のことを思い出しちまうんですよ。  私ァあの晩、広い御蔵屋敷の中をうろうろと居場所も定まらずに歩き回ってたんです。  はじめは、次郎衛様から何かお下知があるんじゃあねえかって、寝間の外の御廊下に座っておりやした。そのうち次郎衛様から、「佐助、用事など何もねぞ。部屋さ帰《け》れ」と追っ払われましてね。すっかり雪化粧をした御庭を横切って、長屋門の中間《ちゆうげん》部屋に戻ったんですけど、むろん寝るどころじゃあねえ。で、門番の詰所を覗いたり、門の外に出てみたり、御玄関先に座りこんだり、ともかく御屋敷の中をあちこちうろつき回ってたんです。  中間なんてのはねえ、次郎衛様のおっしゃった通り、下郎なんです。お武家様の話にァ言葉も挟んじゃならねえ、奴隷みてえなもんでござんすよ。ましてや二十四か五ぐれえの若僧でござんしたからねえ。吉村さんのお命を何とか助けていただきたくたって、お願《ねげ》えすることも、口に出すことせえもできなかったんでさあ。  だから、あっちこっち、うろうろするほかはなかった。  あの晩はずっと雪が降ってましてね。宵口の牡丹雪が、夜の更けるほどに小粒になって、終《しめ》えには凍《しば》れ雪ってえ、氷を砕いたみてえな細かな雪に変わりました。  さいです。盛岡に降るのと同《おんな》じ、さらさらの凍れ雪でござんすよ。  御玄関の敷台に裸の膝を抱えて座りながら、吉村さんはいってえどんなお気持ちでこの雪の音を聞いていなさるんだろうと思った。そうしていると、私だって盛岡にいるみてえな気分になるような、さらさらの凍れ雪でござんしたからねえ。  五十年前のあの当座は薬だってろくなものはなかったから、人はあんがい簡単に死んじまったもんなんです。命が軽かった。でもねえ、そのときの私にァ、吉村さんのお命が重たくって仕様がなかったんです。  私ばかりじゃなかったと思いますよ。御玄関のすぐ先は長屋門なんですけど、くぐり戸の向こうに立っている番人たちも、番所に控えている侍たちも、みんな口をきかずに俯いて、真白な溜息ばかりついてましたもの。  次郎衛様が吉村さんにいってえどういう御下知を下したかは、たぶんじきに伝わったんでしょう。何だか御蔵屋敷じゅうが、降りしきる雪に押し潰されるみてえに、静まり返っちまってました。  ぼんやりと雪を見ながらね、こんなにも重てえ吉村さんの命ってのは、いってえ何なんだろうって思ったもんです。  誰もが、吉村さんの値打ちをわかってたんですよ。強くてやさしい男の値打ちってのをね。だが、そんなあの人を、みんなして追っ払おうとした。わかっちゃいるんだけど、誰だっててめえの立場が一等大切だったんです。で、追っ払いきれずに屋敷の中に入れたら、今度は御差配様が腹を切れって。  お偉い方々はどうか知らねえが、少なくとも長屋門に住まう足軽や中間たちにとっちゃ、あの人の命は重かった。  ふと思いついて、奥座敷に火桶と掛蒲団とを持って行ったのは、今の時刻でいう真夜中の二時か三時でしたろうか。  御蔵屋敷には出入りの商人たちが揃えてくれた綿蒲団が、中間《ちゆうげん》部屋にまであったんですよ。私《あつし》ら中間小者なんてのは、生まれついて藁蒲団か、せいぜい古綿の掻巻《かいまき》ぐれえしか知らねえもんで、ずいぶんな贅沢だと思ったもんでござんす。  その掛蒲団を担いで、そっと部屋から出ようとしますとね、古株の中間が床に入《へえ》ったまんま、爪先でずいっと火桶を押すんです。どうせならこれも持ってけってわけさ。  申しわけながんす、と言うと、その中間は答えずに寝返りを打っちまった。  知らんそぶりはしていたって、みんなが吉村さんを気にかけているんだなってことがよくわかりました。もっとも、そのときの私ァ、みなさんのそうした知らんそぶりってのがたまらなく腹立たしかったんですけどね。  蒲団を肩に担ぎ、火桶を抱えて御廊下を歩いて行くと、奥座敷はしんと静まっておりやして、ああもう終わっちまったのかなと思った。  足がすくみましたですよ。腹切って果てた吉村さんの姿なんて見たかなかったから。  おそるおそる座敷を覗きますと、蝋燭の下であおむけに倒れてる吉村さんの姿が見えた。くうくうと鼾《いびき》をおかきになってらっしゃいまして、私ァとたんに腰が抜けるぐれえにホッと胸を撫で下ろしたもんでござんす。  考えてみれァ、腹なんぞ切らずにそのまんまお亡くなりになっちまってたほうが、私としちゃあよっぽど気が楽だったんだろうけど、それでもまだ生きていなさるってのが嬉しかった。  気持ちよさそうな寝顔でござんしたよ。たぶん、奥様やお子さんたちの夢でもご覧になってらしたんでしょう。  足元に火桶を置いて、蒲団を被せてさし上げました。どうかこのまんま、ふるさとの夢を見たまんま往生なすって下せえと、枕元で掌を合わしましたっけ。  私ァ侍じゃあねえから、腹を切るなんて酷《むご》い死に様は、我慢がならなかったんで。だってそうでござんしょう。切腹にァ侍の体面がかかっているのかもしらねえが、そんなことにいってえ何の意味があるってんです。一等人間らしい死に方ってのはあんた、安らかに、眠るみてえにあの世に行くことじゃあねえんですかい。  吉村さんて人は、偉ぶったところがひとっつもなかったし、私らに対してだって侍風を吹かせるようなことはなかったんです。お侍としてのいい思いなんてこれっぽっちもしたことのねえ人だったんだから、死ぬときだけ侍の格好なんざして欲しくはなかった。  のちのち、ひどく悔やんだことがあるんです。  どうして私《あつし》ァあんとき、蒲団なんぞ掛けるかわりに吉村さんの咽笛《のどぶえ》をかき切ってやらなかったのかって。あの安らかな寝顔のまんま、往生さしてやらなかったのかって。  でも、それだけァできなかった。だってあの人は、私ら貧乏人の鑑《かがみ》だもの。貧乏と馴れ合うことを潔しとはせずに、貧乏に立ち向かった、たったひとりの人だもの。少なくとも先祖代々から享《う》け継いできた貧乏ってのをね、てめえ一代でよしにしようとした、かけがえのねえ貧乏人なんですから。  そういうこたァ、誰だって考えてねえわけじゃねえんです。ガキの時分にはどんな貧乏人の子供だって、大っきくなったら一旗揚げてやるぐれえの夢は持っていまさあ。親に孝行して、女房子供にゃ贅沢さしてやろうって。したっけ、じきに運命ってやつを思い知らされてね、貧乏に馴れ合っちまう。  あの人は、それをしなかった。  偉えお人だと思いやせんか。私ァ、思いましたよ。そんな偉え人を、この手で楽にしてさし上げることなんざ、とてもできゃしなかったんです。  のちのち、ひどく悔やみましたけど。今もときおり考えることがあります。どうしてあの人に、あんな酷い死に方をさせちまったんだろう、ってね。  それから——  ああ、思い出しやした。それから私ァ、何とはなしに御屋敷の台所《でえどこ》に行ったんです。おそらく水でも飲もうと思ったんじゃあねえでしょうか。雨戸を閉《た》て切った真暗な御廊下をそろそろと歩《ある》って、北の端にある台所に行った。  御蔵屋敷の台所ってえのはたいそう広くって、|へっつい《ヽヽヽヽ》を四つ五つも並べた土間に、何十人もがいっぺんに飯を食えるぐれえの板敷がついていました。  煙抜きの天窓から、雪明りがしらじらと差し入っておりましてね。その、白い晒木綿《さらしもめん》を投げ落としたみてえな光の中に、私ァ信じられねえものを見ちまったんです。  次郎衛様がね、土間の水瓶に向き合ってました。  寝つけずに水を飲みに来なすったんだろうと思ったんだけど、そうじゃあなかった。次郎衛様は御櫃《おひつ》の蓋を開けて、握り飯をこさえていなすったんで。  どういうわけか次郎衛様の後ろ姿が、ちっちゃく見えたんです。いつも堂々として、一回りも大きく見える次郎衛様の後ろ姿がね、そんときばかりは子供みてえにちっちゃかった。  |へっつい《ヽヽヽヽ》の熾火《おきび》が、素足をあかあかと照らしていたことなんかも、よおく覚えておりやす。  いってえ次郎衛様は、どんな思いでそんなことをなすってらしたんでしょうか。 「佐助か」  と、次郎衛様は首だけ振り返っておっしゃった。 「冷や飯じゃから、茶漬ばこさえようと思うたが、物のありかがわからぬ。塩握りでも腹の足しにはなり申そ。吉村に呉《け》でやれ」  正月の三日に始まった鳥羽伏見の戦を、七日の晩まで斬り抜けてきなすった吉村さんは、満足に物を食っていなかったはずなんです。どうしてそのことに気が回らなかったんだろうって思いました。 「お申しわけながんす、旦那様。わしの気が利かねえばっかりに、こんたなことさせちまって」 「ええ、ええ。気がつかねのは当たり前じゃ。わしも今の今まで、奴の腹具合までは考えもせなんだ。白湯《さゆ》でも添えて呉でやれ」  それだけを言って、次郎衛様は寝間に戻っちまった。  南部漆の椀に、大っきな握り飯が二つ入《へえ》ってました。うまく握れずに、丸い団子みてえに固めた、ぶきっちょな塩握りでござんしたよ。  正直のところ、私《あつし》ァそれでもあんまりいい気持ちはしなかったんです。せめて手ずから握った飯を食わせることで、罪ほろぼしをなすっているような気がしたからね。そんなことをするぐれえなら、命を助ける手だてを考えちゃくれねえもんかって、そう思いました。  だからね、すぐには持って行く気になれずに、しばらく土間に屈みこんで、|へっつい《ヽヽヽヽ》の熾《おき》に手を焙《あぶ》ってたんです。  悔やしくってならなかった。てめえの手の届かぬ武士道ってやつが。  私ァ、次郎衛様のことは心底尊敬しておりやしたから、まさか恨みつらみはなかったけど、どうしてこんなふうになるんだろう、どうしててめえには何もできねえんだろうって、歯がみをいたしましたよ。  そのうちね、吉村さんの偉さがひしひしと身にしみてきたんです。  あの人はやっぱし、どうしてこんなふうになるんだろう、どうしててめえには何もできねえんだろうって、ずっと考えてらしたはずなんです。でも、考えているばかりじゃなかった。みんなが考えるばかりで諦《あきら》めちまうことを、あの人はちゃんとやったんです。  武士の体面も結構だけど、その体面とやらで女房子供を飢えさせるわけにはいかねえと、あの人は脱藩しなすったんです。  ねえ客人。武士道って、いってえ何なんです。  私ァ、任侠の道とどこも変わらねえと思う。それァ男の道のことでござんしょう。違いますかい。  だったら、金玉ぶら下げた大の男が、女子供を守るのは当たり前でござんす。食う物も食わずに痩せさらばえた女房子供が、百姓みてえに飢え死にはしねえにしろ、風邪《かざ》っぴきでいつくたばるかもわからねえんだ。ましてや生まれる赤ン坊は冬を越せねえかも知らねえ。  何とかして守らにゃならねえと、吉村さんは思い詰めたに違えねえんです。  だから私ァ、今でもあの人のことを男の中の男だと思う。男の責任てえやつをね、とことん果たしたんだから、誰も文句は言えねえはずでがしょう。  そんならひとつお訊ねいたしやすが、そういう立派な男を殺さにゃならなかった武士道ってのは何なんです。そこまであの人を追い詰めちまった世の中は、どこか間違ってやしませんでしたかい。  歪んでいたんですよ、世の中そのものが。人間がおのおのの本分てえやつを見失って、掛け声ばかりでつっ走りゃあ、世の中はみんな歪んじまうんです。  あのころは侍がてめえの本分を忘れていた。男が男であることを忘れちまっていたんです。人の上に立つ者は、一家の主にせえ殿様にせえ将軍様にせえ、下の者を守らにゃならねえ。  だから私《あつし》ァ、家来をおっぽらかして江戸へ逃げ帰った将軍様より、女房子供のために命を投げ出した吉村さんのほうがずっと偉えと思う。  実を申しやすと、私がとうとう女房を持たずに参《めえ》りやしたのも、吉村さんと同《おんな》しことをするだけの自信がなかったからなんで。所帯を持つてえことは、そのぐれえの覚悟が必要なんだと、あの人は私に教《おせ》えてくれたようなもんでござんす。  しばらくしてから、私ァようやく気を取り直して、奥座敷に引き返《けえ》しやした。  そんときもやっぱしおっかなかった。今度こそ腹をお切りになってるんじゃあねえかと思ったからね。  吉村さんは寝ていたのとは違う場所に、ぼんやりとお座りになってらっしゃいました。どういうわけか御廊下に血だまりがあって、そこからお座りになっている畳の上まで、蛇が這ったみてえな血の跡が残ってたんです。  吉村さんはにっこりとお笑いになってね、 「雪ば見ておったのよ。まるで盛岡さいるみてえな、凍れ雪になってしもたなあ」  と、蚊の鳴くようなお声でおっしゃいました。笑顔が切なくてならなかった。 「白湯と握り飯でござんす。お食べえって下んせ」  次郎衛様が、と言いかけて、私ァ口をつぐんじまいました。それだけはどうしても言えなかった。  はあ、と吉村さんは気の抜けた声をお出しになりやしてね、それからきちんと膝をお揃えになって、しみじみとおっしゃったんです。 「これは、南部の米でやんすなあ」  笑顔をそのまんまくしゃくしゃにして、あの人はお泣きになりましたよ。  さあて——  どうやら私ァ、とことんまでを話さずばならねえようだ。  もともと、嘘をついたり隠しごとをしたりができねえたちなんです。こういう気性にァ損も得もあるが、私らの渡世じゃあ得が多いようで。こうして一家を張っていられるのも、子分どもに隠しごとをしねえ、この気性のお蔭でござんしょう。  五十年も遠い昔の話を、包み隠さず話さしていただきやす。ただしね、客人。しゃべったからって楽になる話じゃねえってこたァ、わかって下さいよ。  好きで話すんじゃあねえ。ただね、男の一生てえのは、その最期にはっきりとするもんだ。だからあの人のことをお調べのあんたに、ご最期の様子を話さねえわけにはいかねえ。  慶応四年の正月七日から八日の朝にかけて、雪はずっと降り続いておりやした。夜半からはさらさらの粉雪に変わって、鼻の奥まで寒気がつんと走るような、それァ寒い夜でござんしたよ。  私《あつし》が最後に見た吉村貫一郎さんのお姿は、今も瞼に灼きついておりやす。  握り飯と白湯を届けて、奥座敷から出ようとしますとね、あの人は思いがけねえぐれえの明るい声で、私を呼び止めたんで。 「佐助さん」  さいです。中間の私を、あの人は「佐助さん」と呼んで下すった。後にも先にも、お侍から「さん」付けで呼ばれたのァ、その一度きりでござんす。  私がぎょっと振り返《けえ》ったのァ、その呼び方にびっくりしちまったからなんです。  あの人はにっこりと笑っていなすった。国にいた時分からいつも笑顔を絶やさねえ人だったけど、そんときも、何とも言えねえいい笑顔を私に向けていなすったんで。  それも、無理に作っているふうはなかった。この人は何でこんないい顔をしているんだろう、こんなときまで笑っていられるんだろう、って思ったもんです。 「いま、|しづ《ヽヽ》の声を聴きあんした」  しづ、てえのは吉村さんの奥方の名前《なめえ》でござんす。 「へえ。それは妙《ひよん》たなことで」 「面妖なことじゃが、わしは今はっきりと、妻《かが》の声ば聴いたった。この耳元でな、わしに言うて呉《け》たのす」 「何ておっしゃったのでござんすか」  吉村さんは長い睫毛を伏せて、幸せそうにお答えになりましたですよ。 「——ご苦労さんでござんした。最早《もは》、主人としての務めは十分お果たしになりあんしたゆえ、心おきなくあの世さ行って下んせ、とな」  私ァとたんに、胸がつぶれちまって何も言えなくなった。  吉村さんは腹を切ろうにも決心がつかなくって、寝たり覚めたり、廊下に這い出てみたりしてたんです。もう進退はきわまってるってのに、どうして決心がつかなかったのか、わかりやすかい。  死ぬのが怖かったんじゃあねえ。命を的にして長いこと働いてきたお侍が、死場所のわからねえはずはありやせん。  あの人にとっての問題はよ、客人。死ぬ理由さ。  次郎衛様どころか、たとえ南部の御殿様から死ねとせっつかれても、吉村さんは死ねなかったんです。二駄二人扶持の足軽にとっちゃ、てめえの体を捧げる主《あるじ》はね、家族だったんですよ。  それァ、日本中の足軽の、いや食うや食わずの貧乏人のね、本音でござんしょう。  考えてもごらんな。家来は主君のために死ぬもんだ、兵隊はお国のために死ぬもんだなんて、いってえ誰が決めた。そんな都合のいい話があってたまるかってんだ。  男てえのは、てめえが食わせにゃならねえやつらのために死ぬもんでござんす。女に惚れたらその女のために、ガキができたらガキのために、命を捨てるもんでござんしょう。  誰に死ねと言われたって、あの人は了簡できなかったんです。  だから、悩みに悩んだ末、奥方がそう言ったてえことにした。それでてめえを納得させようとした。  私《あつし》ァようやっと、泣く泣く言い返《けえ》しましたっけ。 「そんたな切《せづ》ねえこと言わねで下んせ、吉村様。奥様は雫石のご在所におられるのではねのすか。声など聴けるはずはながんす」 「いんや」  と、吉村さんは笑ったまま、傷だらけの顔を振りました。 「わしははっきりと、しづの声ば聴いた。あれはきっぱり、腹切って死ねと言うて呉《け》た。生きよと言うのだれば、わしは這ってでも盛岡さ帰らねばならぬが、さすがにこの傷では難しい。なじょしたらよかんべと思い悩んでおったところに、はあ、有難えことじゃ。肩の力がどっと脱け申《も》した」  世の中に、これほど強い人がいるもんだろうかと思った。てめえに魔法をかけた吉村さんは、心の底から幸せそうに笑ってらしたもの。  もう体じゅうの血が出きっちまって、座ったまんまゆらゆらと舟を漕いでいなすった。  誰が何と言おうと、あの人は日本一の足軽でござんした。日本一の貧乏人でござんしたよ。  世の中に真実てえのはひとつしかねえんです。いろんなしがらみの中でね、そのひとつっかねえ真実てえのを見失わずに生きたあの人は、男の鑑でござんした。  そうは思いやせんかい、お客人。  夜がしらじらと明けるころ、雪はようやくやんだ。  私ァ、物音ひとつだって聴くのがいやで、門の外に出てたんです。消え残る篝にあたりながら、門番の侍たちとどうでもいい無駄話をして気を紛らわせておりやした。  朝霧の中を、官軍の兵隊を乗っけた小舟が何艘も行き交っておりやして、その舳先《へさき》にァ、シャ熊の陣笠を冠った薩摩か長州の侍が、岸に向けて大声で呼ばわっていた。 「御蔵屋敷のみなみなさまに物申っす。鳥羽伏見の賊兵をお見かけあらば、ただちに中之島薩州屋敷に引き渡されよ。朝命でござる」  思えば、ふしぎな朝でござんした。幕府軍の残党は市中にいくらでもいただろうに、官軍はそれを掃討しようたァしなかったんです。  大坂の町を戦場にしちゃならねえってことでしょうか。いや、もうこれで江戸攻めや会津攻めの口実はできたんだから、あえて大坂でことを構える必要はあるめえってところでござんしょう。  怖《こえ》えぐれえに静まり返《けえ》った、雪上りの朝でござんした。  前の晩に吉村さんのことを次郎衛様に取り次いだ年かさの侍がね、ふいに私《あつし》の肩を叩いて囁いたんです。 「佐助、奥座敷で御差配様がお呼びじゃ」  ひやりといたしやした。「へえ」と言って立ち上がると、年かさの侍は私の肩に手を置いて、 「いやはや、お前《め》も難儀じゃな」  というようなことを、しみじみと言いましたっけ。  降り積んだ雪を踏んで裏庭に回ったんだが、あんときばかりァまるでおっかねえ夢の中みてえに、行けども行けども体が前に進まなかった。  膝頭が合わさらねえばかりか、終《しめ》えにはすっかり腰が抜けちまって、這うみてえにして歩《ある》ったもんです。  裏庭に向いた雨戸が、きのうから一枚だけ開けっ放してありやしてね、そこまでようやくたどり着くと、仁王立ちに立った次郎衛様の後ろ姿が見えた。 「佐助。この醜態ば他の者に見せるわけにはいかね。始末せい」  次郎衛様は背筋をぴんと伸ばし、腕組みをして立ってらっしゃいました。  縁先の三和土《たたき》によじ登りまして、何とか次郎衛様の足元まで這い寄ったなり、私ァ、ワッと叫んでひっくり返《けえ》っちまった。  広い奥座敷が血の海だったんです。まるで盥《たらい》でぶん撒いたみてえな。  火桶のそばに、着てらした新選組の隊服と鎖帷子《くさりかたびら》がきちんと畳んであって、それからさぞかし苦しい一人腹をお召しになったんでしょうか、座敷じゅうを転げ回ったあげくに、吉村さんは隅っこのほうに丸まって事切れておりやした。  次郎衛様もその光景をひとめ見たなり立ちすくんじまったんでしょう、腕組みをなすったまま銅像みてえにつっ立ってらっしゃいました。  私ァね、勇を鼓して血の海の中を這いましたですよ。びっくりしたあとは、わんわん声を上げて泣きながらね。  で、座敷の隅っこで虫みてえに丸まった吉村さんの亡骸《なきがら》のところまで行って、二度腰を抜かしちまったんです。  吉村さんは一人腹をお召しになったあと、なかなか死に切れなかったとみえて、咽《のど》を突いたり目を突いたり、その死に様ァひでえもんでござんした。  だがね、客人。私が腰を抜かしたのァ、そのむごたらしい有様じゃあねえんで。  あの人は、次郎衛様が置いてった大和守安定は使わなかったんです。手にしっかりと握っていなすったのは、|※[#「金+示+且」]元《はばきもと》からぐにゃりと曲がり、刃はささらみてえにぼろぼろの、切先のおっ欠けたご自分の刀だったんでござんすよ。 「次郎衛様、次郎衛様」と、私ァ物も言えずに床の間を指さしやした。  返り血に染まった床の間の白壁にね、指先で書かれた血文字があったんです。  此二品 拙者 家へ  床の間に置かれた二品《ふたしな》って、何だと思いやすか。  ひとつは、大和守安定でござんす。  なぜかって、そいつァ訊くだけ野暮でござんしょう。いえ、べつに面当《つらあ》てじゃあござんせん。あの人はね、血に汚れていない名刀を、坊ちゃんにお贈りになったんですよ。  そいつで腹を切りゃあよっぽど楽だったろうに、吉村さんはそれをしなかった。  もうひとつ。  その刀に並べて、ぼろ雑巾みてえな手拭が敷いてありやしてね、その上に二分金が十枚、まるで勘定したみてえに置いてあったんです。  ひの、ふの、みの、よォ、いつ、むう、なな、やァ、ここのつ、とお──って、吉村さんの声が聴こえてきそうでした。 「次郎衛様、ご覧下んせ。お願えでござんす。吉村さんのお始末ば、しっかとご覧下んせ」  私《あつし》ァね、血まみれで土下座いたしましたですよ。吉村さんの偉さを、世の中のお侍みんなに知っていただきたかった。次郎衛様にとっちゃわかりきったことだろうけど、貧乏人がとことん貧乏を貫いたその死に様てえのをね、世の中の人みんなに、御殿様にも将軍様にも、薩長のお侍にも天皇様にも、しっかりと見ていただきたかったんです。  次郎衛様はしばらくの間じっと、床の間の様子をご覧になってらっしゃいました。 「この、強情っぱりが。飯にも手をつけてねえ」  次郎衛様の声で、私ァ初めて気が付いたんです。握り飯が手つかずのまんま、消え残る燭台の下に置いてありました。  たしかに強情っぱりには違《ちげ》えねえ。でもね、私にァはっきりとわかりやした。なぜ吉村さんがその握り飯を食おうとはしなかったのかが。  御蔵屋敷の米は、南部の米でござんす。そりゃあ、あの人にとっちゃあ南部の御殿様からいただくお代物《でえもつ》だ。父祖代々、ずっと頂戴してきた南部の米でござんす。  あの人はそれを、どうしても口にすることができなかったに違えねえ。脱藩者である限り、それを食っちゃならねえと思ったのか、さもなけりゃあ、脱藩せずばならなかった貧乏足軽の意地にかけて、その米だけは食いたくねえと思ったんでがしょう。  いずれにせえ、そのどっちかです。  握り飯を見たとたん、次郎衛様の体は芯が折れるみてえにちぢかまっちまいました。真白い息を、ふうっといつまでも吐いて、からくり人形みてえにぎくしゃくと屈みこんで、握り飯の椀を手に取った。  それから、血糊に足袋のあしうらを滑らせながら、よろよろと座敷の隅まで歩って、吉村さんの亡骸を抱き起こしました。 「貫一——」  と、次郎衛様は吉村さんの顔に真白な息を吐きかけました。 「食《け》え、貫一。しづも嘉一郎も、お前《め》のおかげで腹は一杯《いつぺえ》じゃ。んだば、お前が食え。どうした、貫一。南部の米じゃ。花巻の米じゃ。雫石の米じゃ。北上川の水で育った、盛岡の米じゃ。のう、後生じゃ貫一、今一度この目ば開けて、南部の百姓が丹精こめて作った米ば、腹一杯食って呉《け》ろ。のう、貫一、後生じゃ」  声を殺して語りかけながら、次郎衛様はぽろぽろと涙をこぼされました。そして、ご自分で握った飯を、紫色に固まっちまってる吉村さんの唇に押し当てて、終《しめ》えにはご自分の口に含んでね、吉村さんに口移しにまでなすった。 「食《け》え、貫一。お前《め》、この米の味ば夢にも見たじゃろう。誰にも気兼ねはいらねぞ。南部の米ば腹一杯食え。のう、後生じゃ、腹一杯食って呉ろ。最早《もは》、食えねがっ」  一晩中、みんなが思い悩んだんだがね。一等お苦しみになったのァ、次郎衛様に決まってまさあ。私《あつし》ァ、次郎衛様のお嘆きようを見ながら、何ひとつ言えなかったもの。  とても他人が口を挟めるこっちゃなかった。そうよ、次郎衛様と吉村さんは他人じゃなかったんです。この世に二人とはいねえ、かけがえのねえ親友だった。  吉村さんの顔を赤子みてえに抱きすくめて、次郎衛様はこうもおっしゃいました。 「わしは、またひとりぼっちになってしもたではねが。のう、貫一、わしをひとりにしねで呉ろ。お前がいねえと、わしは生きて行けねのじゃ」  吉村さんは、きっと次郎衛様の生きる支えだったんでござんしょう。あの人がいたから弱い心を強くして、次郎衛様は頑張ってらしたんだと思います。  かけがえのねえ友だちってのァ、そういうもんでござんすよ。  吉村さんの亡骸はその日のうちに、御蔵屋敷の裏手の、御堂筋を下ったところにあるちっぽけな寺に運んで行って、そこで供養していただきました。  南部藩の大坂での菩提寺ってのァ、難波橋を渡った北野の寺町にあったんですけど、淀川の向こっかしは官軍が占領しちまってるから、棺桶を担いで歩《ある》ってくわけにァいかなかったんです。  御命日は一月の八日ってことになりやす。以来《いれえ》、私ァ正月七日の粥をすすると、翌《あく》る八日は酒も飯も断って、一日を念仏三昧で過ごすことにしてるんです。子分どもは、正月早々いってえ何の真似です、なんてふしぎがりやすけどね。  七日と八日のうちに、幕府軍の大方は江戸に引き揚げたと思います。役人たちは城内にあった銀銭八万両と御蔵米の一万石を、官軍にぶん捕られるのも癪だてえんで、町人どもに撒きましてね、何だかわけがわからねえけど、私らも吉村さんを供養した帰《けえ》りに、通りがかった奉行所の役人から、銭と米とをおっつけられやした。  八日の晩にァ、淀川のこっちかしはもぬけの殻になっちまって、九日の朝っぱらから長州の砲兵隊が、大坂城に向けて大砲を撃ち始めたんです。今にして思や、何となく馴れ合いの戦でござんしたねえ。  砲撃って言ったって、無人の城に何となく見当ちがいの大砲を撃ちこんでるんです。なるたけ天守閣なんかは壊さねえようにね。  淀川の堤で、そんな花火みてえな砲撃を見物しながら、しみじみ思ったもんでござんすよ。ああ、吉村さんは何でまたこんな戦で死んじまったんだろう、って。で、通りがかりの役人からもらった、わけのわからねえ銭を勘定して、切ねえ気持ちになりやした。  銭てえのは、命を的に稼がにゃならねえこともあるが、天から降ってくることもあるんです。こんなものに振り回される人間てえのァ、悲しい生き物だなァってつくづく思った。  私《あつし》ァ今でも、銭勘定てえのが大ッ嫌えなんで。生まれついてじゃあなくって、あんときから嫌いになりやした。  さて——  いってえそれから何があったんでしょうか。市中にァどさくさまぎれの盗っ人や火付けなんぞが横行して、たいそう物騒だったんです。だから御蔵屋敷はどこも、門を固く閉ざしておりやした。  そのうち、征討将軍の仁和寺宮様がやってきなすって、ようよう薩長の兵隊が市中の取締りを始めたんです。べつだん、目新しいことをするふうもなかった。御触書《おふれがき》によると、徳川は朝敵となったが、総年寄以下の町役人は従前通り相つとめること、てえわけで、このお達しには御蔵屋敷のみなさんもほっとしてらっしゃいました。  薩長が進駐してきたら、御蔵ごと徴発されるんじゃねえかって、ひやひやしてたんです。なにせやつらの天下になったんだからね。  そのかわり、次郎衛様は何度も中之島の薩摩屋敷に呼び出されて、いや、次郎衛様に限らず大坂詰の諸藩の蔵役人はみな呼ばれてました。あの時分、どこの藩でも力のある侍を大坂に差し向けたんでしょう。だから、その方々を呼んで、ゆめゆめ錦旗には手向かうな、賊は徳川だというようなことを説いていたんじゃあねえでしょうか。  むろん、私もお供いたしましたよ。びっくりいたしやしたのはね、その薩摩の蔵屋敷の立派なこと。  こんな国を敵に回したって、かなうわけァねえと思いましたよ。薩摩の中間《ちゆうげん》どもが言うにァ、どうともこの大坂てえところは寒くてなんねえ、早えとこ国に帰りてえって。おいおい、私らにしてみれァ、大坂の寒さなんてのァ春みてえなもんだ。中にァ、あの正月七日の晩に、雪てえやつを生まれて初めて見たなんてのもいるんです。  そんなふうだから、たぶん薩摩の殿様てえのは七十三万石どころか、実は加賀百万石よりずっと石高が多かったんじゃあねえのかな。言われてみれァ、侍も中間も、私らとは比べものにならねえぐれえ体格がよかったし、身なりも上等だった。  私ら南部は二十万石の大藩にァ違《ちげ》えねえが、飢饉つづきのあのころにァ、石高なんてのァ絵に描いた餅みてえなもんさ。情けねえ話だけど、食ってるやつらにァかなわねえってこってす。  薩摩の蔵屋敷に呼ばれた帰《けえ》り道のことだったと思いやす。淀屋橋を渡りながら次郎衛様がふと、思いついたようにおっしゃったんで。 「佐助。吉村の墓さ詣でて行くか」  私ァ、お止めしましたですよ。どこで誰が見てるかわかったもんじゃねえから。薩長兵が淀川のこっちかしにやってくると、落武者狩りが始まったんです。逃げ遅れた幕兵はもちろん、匿っていた町人なんかも容赦なく首を刎《は》ねられていた。 「なんもなんも、びくびくすることはねえ。仏になりゃ、官軍も賊軍もねえさ」  御堂筋をずっと下って行きますとね、ぬかるみの路地を折れたところに、目立たねえ寺がある。門前の日だまりに、のんびりと花売りの婆さんが座っていた。  次郎衛様は一束の寒菊を買うと、静まり返った路地をぐるりとご覧になりました。 「ここは、上田組丁の正覚寺に似ておるのう。そうは思わねか」  上田組丁てえのは、次郎衛様と吉村さんが子供の時分にお暮らしになった足軽の町さ。そこには正覚寺てえ小さな寺があって、言われてみれァたしかに、静まり返った路地のたたずまいといい、小ぢんまりとした境内といい、似てねえこともなかった。 「吉村の妻女はの、雫石の里から母に連れられて、正覚寺の門前によく花ば売りに来ておったのよ。菊の花に埋もれるみてえに、ちんまりとこごまっておる姿は、まことめんこいコケしゃんのようじゃった。わしらは足軽屋敷の垣根のすきまから覗き見て、口々にわしの嫁こにすべと言うてな。しめえにゃ、掴み合いの喧嘩になったっけ」  次郎衛様は花売りの婆さんに過分の金を渡して、寺に入《へえ》って行きやした。吉村さんの亡骸はね、表向きにできねえ事情だったから、墓石も卒塔婆《そとば》もねえ寺の隅っこの、無縁墓に並べて埋《い》けちまってたんです。  そこにァ古い柿の木があって、吉村さんの眠っているぬかるみの上に、まるで罅割《ひびわ》るみてえな枝の影を、くろぐろと落としていましたっけ。  花を手向けて掌を合わせながら、次郎衛様はおっしゃいやした。 「貫一。お前《め》の妻《かが》は、果報者じゃの。お前のような男に、骨の髄まで惚れてもろうて、そんたな果報なおなごは、天下に二人とはおるまい」  私《あつし》ァそんときふと、たしかに吉村さんの奥方は果報者だけど、そんなふうにひとりの女を惚れ抜くことのできた吉村さんも、あんがい幸せだったんじゃあねえかと思ったもんです。いるようでいねえもんですぜ、そういう男ってのは。  ところで客人。あんた、大野千秋さんが吉村さんのお嬢さんと夫婦《めおと》になったっての、ご存じでがしょう。  ちょいとした因縁話みてえだけど、千秋さんてえ人は返《けえ》す返《げえ》すも賢いお方だ。だって、幸せてえやつを、よく知っていなさるものな。  私ァ字が読めねえから、千秋さんやおみつさんからの手紙は子分どもに読んでもらうんだが、そいつらが読みながらこっぱずかしくなるような、おのろけばかりだあな。あのご夫婦はね、ものの因果なんかじゃあなくって、骨の髄まで惚れ合っていなさるんだよ。まったくもって、賢いお二人だと思う。  世の中がどうひっくり返《けえ》ったって、相惚れの果報は変わらねえってことを、よく知っていなさる。独り身の私にしてみれァ、うらやましい限りでござんすよ。  次郎衛様と私《あつし》が国表へと取って返したのァ、その月末《つきずえ》のことでござんした。  大坂から紀州まわりの船で江戸に出て、潮見坂下の藩邸にいちどお立寄りになり、奥州街道をまっつぐ盛岡へと向かったんです。  次郎衛様のご様子は尋常じゃあなかった。いってえに、じいっと物をお考えになることの多かったお人だが、あんときは船の中でも道中でも、ほとんど一言も口をおききにならず、物思いにふけってらっしゃった。  ご家中じゃあ「剃刀次郎衛《かみそりじろうえ》」なんて二ツ名のあったお方が、長《なげ》え道中をじっと何ごとか考えこんでいなさるんだ。お供の私ァ、気が気じゃござんせんや。  だって、次郎衛様の信望の篤さってのは、中間《ちゆうげん》の私だってよおく承知してましたから。この人の考えひとつで、南部二十万石が動くっての、肌で感じておりやしたからねえ。  むろん私ァ、御城内の様子は何も存じません。わかっていたことといやァ、藩論がまっぷたつに分かれていたってことぐれえです。そういう噂ってのァ、中間部屋でも、御城下の居酒屋でも、あれこれと囁かれてましたから。  まず、畏れ多くも錦旗に弓を引くなんてとんでもねえと主張する一派があり、その一方ではいかに朝命たァ言え、会津を討伐しろなんてのはあんまりだ、第一《でえいち》、官軍と言ったって正体は薩長なんだから、そんなやつらに兜を脱ぐわけにァいかねえって言い張る一派があったんです。  要は、官軍につくか、奥羽列藩につくかってこってす。  次郎衛様は、何てったって御家大事の忠義なお人ですからね、まかりまちがったって官軍にたてつく側には回るめえって、私ですら思ってたんです。  ああ、今でこそ官軍と申しやすがね、御城下じゃあそんなけっこうな呼び方はしなかった。はなっから官軍だなんて思っちゃいねえんだから「薩長」です。つまり、大方の藩士は、天朝様か公方様かってえことより、天朝様を担いだ薩長の天下になるてえのが我慢ならなかった。だが、御家大事を考えるんなら、時の流れから言ったってそっちにつくほうがいいに決まってまさあ。  そのころ、|東 中務《ひがしなかつかさ》様てえ南部御一門の若い御家老がいらっしゃいまして、その方が御家大事の側の旗頭だったんです。次郎衛様のお人柄をよく知ってらっしゃる東様は、血気にはやる藩士たちを理詰めで説き伏せるのァ大野次郎右衛門しかいねえと見て、急遽大坂から呼び戻したてえわけさ。  東様と勢力を分ける楢山佐渡《ならやまさど》様てえ古い家柄の御家老がいらして、こちらは反薩長の旗頭だったんだけど、そのお方が京に上っている間に次郎衛様を呼び戻して、一気に藩論をまとめちまおうてえ考えだったらしいんで。  ところが——  仰天するようなことが起きちまったんでござんすよ。  御家大事の一念で、ことを穏やかに運んでくれるにちげえねえはずの次郎衛様が、「薩長は断じて官軍にあらず、会津討つべからず」ってえ、一席ぶっちまったんです。  あとは客人——そっちも先刻ご承知のこったろう。  南部藩は、奥羽列藩から寝返った秋田を攻めて、あげくに朝敵とされたんでござんすよ。そうとなれァ、次郎衛様は錦旗に弓引いた罪人でござんす。  南部が降参したのちにァ捕えられて、とうとう明治二年の冬に、賊将の汚名を着たまんま首を刎ねられちまったんでさあ。  皮肉なもんでござんすねえ。足軽の吉村さんが腹を切って、御高知《おたかち》の次郎衛様は切腹せえ許されずに首を刎ねられちまった。  会津が陥ちて、仙台が降参して、いよいよ盛岡も開城と決まってからは、次郎衛様は一言も口をおききにならなかったような気がいたしやす。むろんそんなはずはねえんだが、そのころの次郎衛様のお声てえのを、ひとっつも思い出せねえんですよ。  ご家族のみなさんや御家来衆は、御殿様やほかの御重臣の方々に累《るい》が及ばぬよう、次郎衛様は一身に罪を背負って亡くなられたんだと、そう言って嘆かれましたがね。だが、私《あつし》ァどうしても、そんなふうには思えなかった。  下衆《げす》の勘ぐりかもしれませんけど、そういう武士道まる出しのきれいごとじゃなくって、何かこう、うまくは言えねえけど、もっとこう——得体の知れねえドロドロとしたものをね、次郎衛様は心の中に抱いてらしたんじゃあねえかって。  あのお方はずっと黙りこくったまんま、杉林に小雪が舞う冬の朝に首を刎ねられちめえました。  ああ、吉村さんの遺品ですかい。  そいつァ、私が雫石のご在所までちゃんとお届けいたしやした。  盛岡に戻りますとじきにね、雪の晴れ間の日に、大和守安定の刀と十枚の二分金、それにご遺髪を添えてお持ちしたんです。  忘れもいたしやせんよ。私ァ、吉村さんのご最期を、いってえどうお伝えしたらいいもんかって、足らねえ頭をひねりながら歩ったもんです。  こんな筋書きを考えてました。  鳥羽伏見の戦のあとで、吉村さんが堂々たる戦装束で御蔵屋敷をお訪ねになってね、 「こたびの戦では徳川の先兵ば賜わり、十分な働きば致しましたれど、武運つたなく敗れ申した。かくなる上は生き恥ば晒すつもりはござらぬ。ついては、父祖代々お仕え申した南部の御屋敷さ戻り、腹ば切りてと思いあんす。どうか、奥の一間ばお貸し下んせ」  そう次郎衛様にお頼みなすった、と。で、和やかに盃をくみ交わし、介錯も拒んでみごと一人腹をお召しになった、とね。  でも、みちみち考えたそんな筋書きは、何もいらなかったんです。  ご長男の嘉一郎さんがね、ご在所に続く道の雪かきをなすってらして、私が遠くから笠を脱いでお辞儀をすると、あたりの気配を窺いながら走り寄って来なすった。  ひとめ見て勘を働かせなすったんでしょうか。でなけりゃ、私が大事に抱えていた刀箱から、とっさにそうと察したのかもしらねえ。ともかく私に駆け寄ったなり、嘉一郎さんはいきなりおっしゃいましたよ。 「父上が、ご面倒ばおかけ申しあんした。お申しわけなござんした。母上は臥せっておりますゆえ、これにてお引き取り下んせ。勝手ではござんすが、なにとぞ」  すっかりご立派に成長なすったお姿が、お父上にうりふたつでござんした。 「この刀は、旦那様からお前《め》様にと」  私《あつし》にァとうてい、その刀の来歴を語ることができなかった。刀箱を捧げ持ちながら、胸ん中で叫びましたですよ。 (父《とど》はの、お前さんに血の味ば知らぬ刀ば持たせたくて、切先のおっ欠けた痩せ刀で腹ば切りあんした)、と。  やれやれ、すっかり湿っぽい話になっちまいましたねえ。  一天地六《いつてんちろく》の賽《さい》の目渡世に、こんな思い出話は似合いやせん。博徒は博徒らしく伝法に——こう斜《しや》に構えて威勢よく話をくくらしていただきやすぜ、客人。  私ら南部にとって御一新の戦てえのは、秋田打入りのことでござんす。とは言え、私にとっちゃ生涯《しようげえ》たった一度きりの戦でござんすから、ひでえ難儀な戦だったと言ったって、ほかに比べるものもねえんだがね。したっけ——思い返《けえ》してもぞっとするような、おっかねえ思いをしたもんです。  その後は、私もこういう渡世だから斬った張ったはさんざいたしやしたが、そんなものは片が付くはしから忘れちまった。だが、あの戦争だけァ今でも夢に見ます。  ご家老の楢山佐渡様を総大将にした南部勢が秋田に向けて兵をくり出したのが、御一新の年の七月の末。吉村さんが大坂の御蔵屋敷で御最期をとげられてから、半年とちょいとしか経っちゃいねえ夏のこってす。  くどいようだが、私らは徳川の味方をしたわけじゃありません。鳥羽伏見で敗けたあと、兵隊をおっぽらかして江戸に逃げ帰るような将軍家に何の義理もあるもんか。天朝様を担いで天下を乗っ取ろうてえ薩長が、我慢ならなかったんです。それに、腰抜け将軍のかわりに頑張った会津様が、ひとりで悪者にされるてえのもたまらねえや。  仙台の伊達様も米沢の上杉様も、むろん南部の御殿様もね、天朝様に弓を引くつもりなんて毛頭なかったんです。ただ、会津を勘弁してくれろとお願いしていただけなんで。  それでも勘弁ならねえてえんだから、仕方ねえじゃあござんせんか。  私ァこの通り目に一丁字《いつていじ》もねえ無学者だが、武士道も任侠道も、男の道てえことに変わりはねえんだから、そのあたりの理屈はよくわかってるつもりだ。  男の道は義の道でござんす。要は、天朝様への忠義の道をとるか、会津様との信義の道を守るかてえことだった。だから忠義を選んだ秋田の佐竹様が憎かったわけじゃあねえ。私らは薩長の虫がついた天朝様より、見たまんまで何の嘘もねえ会津様との信義を重んじただけでござんす。  結局、錦旗に手向かった罪で賊軍とされちまったけど、私ァ今でも、あの戦は義戦で、私らは義軍だったと信じてまさあ。  大野次郎右衛門様は自ら願い出て、楢山佐渡様配下の侍大将として鹿角《かづの》口から御出陣なさいやした。  勘定方の御役目からすりゃァ、御城に居残ってあれこれ後方の算段をするのが道理でしょうけれど、何せ秋田討つべしの言い出しっぺでござんすからねえ。  戦の成り行きにかかわらず、討死なさる気だったてえこたァ、私《あつし》にだけははっきりとわかりました。だって当たり前でがしょう、私ァ御馬口取なんだから。  鹿角口から押し出して、一気に大館城に攻めかかるまでだって、ずっと勝ち戦なのに次郎衛様は、まるで鉄砲玉に身を晒すみてえに前へ前へと馬をせかせましたもの。そのうち秋田に新政府軍の援軍がきて、逆に押し返されてからは、今度は味方を先に逃がして殿《しんがり》を務めてらした。まったく、次郎衛様も私も、討死しなかったのがふしぎなぐれえの戦でしたよ。  正直申しやしてね、次郎衛様には似合わねえんです。戦場ってところが。剣術なんかはそう得意なほうじゃあねえし、馬を御するにしたってぶきっちょなもんだ。体はお小せえし、|鎧 甲《よろいかぶと》で栗毛の南部駒に跨《またが》ってるさまなんざ、何だか節句の人形みてえにちんまりとしてらしたもの。  私はほれ、この左肩に一発、鉛玉をくらいやしたけど、どういう因果か次郎衛様はかすり傷ひとつ負わなかったんです。だから、夏が過ぎて戦場に霜の降りるころになって、いよいよ降参てえ段になったとき、私ァ思ったもんです。  ああ、きっと次郎衛様にァ、何かしらなさらにゃならねえお仕事があるんだなって。八幡様が他の人にゃできねえ何かをお命じになるんだな、ってね。そうじゃなけりゃァ、あんなに乱暴な戦をして傷ひとつ負わねえはずはねえもの。  昔の暦でいう九月の末ってえことは、今なら十一月の初めでござんしょうか。みごとな紅葉は眺める間もなく枯れ落ちちまって、峠の陣屋に真白な霜の降りた朝でござんした。  会津も仙台も米沢も降参しちまったから、南部も戦はよそうってことになって、みんなが呆けたみてえになっていたんです。  大野組が陣屋にしていた曲がり家を、まだ夜の明けやらぬころに、ひょっくり嘉一郎さんが訪ねてらしたんで。  厩《うまや》の藁の中に寝ていた私ァ、すわ夜討ちかと思ってはね起きたんです。他のお侍たちは長い戦に疲れ果てて、ぐっすり寝入ってるようでした。  声を出そうと思ったんだけど、蹄の音はひとつでしたんでね、そっと厩の外を窺ったら、大きな黒鹿毛《くろかげ》の馬が白い息を吐いてつっ立っていた。馬上には具足を着て手槍を抱えた若武者が、こう、背筋をぐいと伸ばして私を睨み据えてたんです。ぎょっとしましたけど、嘉一郎さんだてえことはすぐにわかりました。  足軽たちの噂話に聞いていたんです。吉村の倅は雫石の里から橋場の陣に馳せ参じて国見峠を先駆け、えれえ働きぶりじゃ、って。  そいつァ私にとっちゃ、信じてえような信じたくねえような、嬉しいような切ねえような話でござんすよ。だが、馬上の嘉一郎さんの姿を見たとたん、ああ噂は本当だったんだなあって思ったんです。  しばらく戦場におりますとね、勇ましい侍と臆病な侍は、ひとめで見分けがつくんです。面構えも、居ずまいも違うから。御役とか身分とかじゃねえんです。働きっぷりのいい奴ァ、足軽だって偉く見える。  そんときの嘉一郎さんは、私《あつし》が秋田の戦場で見たどんな荒武者よりも、いい面構えをしていなすった。魁《さきがけ》の誉《ほま》れてえのが、まるで後光でも差すみてえに、馬上の武者ぶりから耀《かがよ》い出てましたよ。  先陣の勲《いさおし》をひっさげて、ご自分が本来あるべき大野組の陣屋に駆けつけたんだと思ったんです。だが、そうじゃあなかった。  何だかひどく興奮なさってらして、私が誰だかも気付かねえふうに、「御大将《おんたいしよう》にお取次ぎ下んせ。楢山様の御本陣はどちらでござんすか」って。  嘉一郎さんは、雫石口の陣からの密書を持って、鹿角口の御本陣まで二日がかりの早馬を飛ばしてらしたんです。  吉村嘉一郎さんが、と私が土間から声を出したとたん、奥の間でお休みになってらした次郎衛様も、板敷で寝ていた足軽たちもいっせいにはね起きましてね、どっと外に飛び出した。寝ているといったって陣中のことでござんすから、みなさん具足を着たまんまでした。 「じゃじゃ、たまげるでねが。まこと貫一の倅じゃ」 「あっぱれな武者っぷりじゃな、嘉一郎」 「野々村様の軍勢の先駆けばしたと、てえしたものじゃ」  足軽たちは口々に、そんなことを言ってましたっけ。  そこでようやく嘉一郎さんは、大野組の陣屋だと気付いたようでした。ちょいとうろたえて、子供っぽいお顔をなさいやしたよ。 「御本陣に何か急なお報《しら》せでござんすか」  私が訊ねますと、嘉一郎さんは手綱を握ったままひらりと馬から飛び降りて、脇腹にくくりつけてあった書状を、次郎衛様に差し出した。 「御大将にお渡し下んせ。雫石口の野々村様よりの書状にござんす」 「ご苦労じゃった。たしかにお取次ぎ申す」 「ところで御組頭様——雫石の陣では、最早《もは》戦は終《しめ》えじゃと言うており申《も》す。まことでござんすか」  嘉一郎さんは挨拶もなくいきなりそんなことを訴えました。様子は尋常じゃあなかった。 「もしそうだれば何とする」  嘉一郎さんは、にべもなく言い返した。 「会津は城に籠って戦い申した。国境《くにざかい》にて降参ばするなど、もってのほかにござんす。わしは腹ば切って御大将ばお諫《いさ》めしてえと思いあんす。お取次ぎ下んせ、御組頭様」  てえしたもんだと思いやしたよ。長え戦に嫌気がさして、もう勝ち敗けなんざどうでもいいやと思っていた私ァ——いや、私ばかりじゃなく、みなさん同《おんな》し気持ちだったはずなんだが、何だか嘉一郎さんの一言で、ぶん殴られたような気がしたもんです。  だが、次郎衛様は頭ごなしに怒鳴りつけた。 「この、身のほど知らずがっ」ってね。それから、もっとひでえこともおっしゃった。 「脱藩者の小倅が戦になぞしゃしゃり出おって。うめえこと言うてお前《め》、この機に帰参ば願い出る腹づもりじゃろう。たかだかの手柄で父の罪が雪《すず》げると思うたら大まちがいじゃ。帰《け》れっ、帰れねがっ」  そこには三十人もの大野組の足軽が勢揃いしてたんです。みなさん、吉村さんの人となりをよく知ってらしたし、嘉一郎さんのことも子供の時分から可愛がって下さっていた御同輩の方々でさあ。しかも、大坂の御蔵屋敷で次郎衛様が吉村さんに腹を切らせたってことはすでに知れ渡っていた。  ひとりひとりが、いやァな顔で次郎衛様を睨みつけてましたっけ。  一等びっくりしたのは嘉一郎さんでござんしょう。家伝の刀まで賜わって、誰よりも父や自分のことを斟酌して下すってると信じていた次郎衛様に、そうまで言われたんじゃあ立つ瀬がありませんや。  お客人には、おわかりでござんしょう。  さいです。御蔵屋敷のときと同しで、次郎衛様は心を鬼にしておられたんで。 「佐助、馬引け。こやつ、一人で帰したのでは何するかわからねえ」  次郎衛様はいったん陣屋に入ると、鹿革の陣羽織を鎧の上に着込み、軍装を整えて出てきました。その間ずっと、嘉一郎さんは霜の上に両膝をついて歯がみしてらっしゃいましたよ。  威勢のいい話をしようとしたって、やっぱしこうなっちまう。やりきれねえなあ。  中間《ちゆうげん》はお侍のすることに口が出せねえんです。言いたくても言えねえ。辛えもんですぜ。  霙《みぞれ》まじりの冷てえ雨の降る山道を、次郎衛様と嘉一郎さんは、轡《くつわ》を並べて下って行きやした。お供は私《あつし》ひとりです。  嘉一郎さんはずっと、ご自分の胸のうちを訴え続けてらっしゃいました。 「わしは、帰参などゆめゆめ願うてはおりあんせん。ただ、父の罪ば償うのは、今しかねえと思いあんした。討死ばする気でござんしたが、死に所を得ずに今日まで参《めえ》りあんした」  次郎衛様は黙って馬を進めます。いちいちもっともな嘉一郎さんの声が背中に刺さって、私ァ馬の口をとって歩きながら、いくども振り返りましたっけ。 「父の罪など、子が償わんでもええ」  ぼそりと、次郎衛様はお答えになりました。 「降参ばするとは、まことでござんすか」 「まことじゃ。このうえ戦を続けても、百姓が困り果てるだけじゃ。最早《もは》、戦うことに何の益もねえ」 「御組頭様は、益にて戦ばなさったのでござんすか」 「戦とは、そういうもんじゃ」 「いんや、この戦は義のための戦にてござんす」 「民百姓を困らせて、何の義じゃ。そんたな義などあってはならぬ」  私《あつし》ァね、お二人のやりとりを聞きながら、切なくて仕様がなかった。だって、どっちの言い分も痛えほどわかっちまうんだから。  駒を止めて、次郎衛様がふいに思いがけねえことをおっしゃったのは、大粒の霙がぱらぱらと朽葉《くちば》の道を叩くほの暗え松林の中でござんした。 「嘉一郎——」  次郎衛様は馬上で陣笠の紐をお解きになった。 「お前《め》、ここでわしを討て」  ひやりといたしやした。振り返ると、次郎衛様は陣笠を脱いで、まったく科人《とがにん》みてえにうなだれちまってるんです。 「南部が降参すりゃあ、どのみち御大将の佐渡様とわしは、首ば刎ねられる。ならば、お前のごとき南部の侍に討たれてえ」 「ご無体な——」と、嘉一郎様は驚いてらっしゃいました。  私ァね、目をつむって胸ん中でお頼みいたしましたよ。どうかその先はおっしゃらねえで下せえ、旦那様って。でも、次郎衛様は言っちまった。 「無体ではねえ。わしは、吉村を殺した。お前《め》の父に、情け容赦なく、無理っくりに腹ば切らせてしもうた。仇討ちは子の務めじゃ」  次郎衛様は本気だった。馬から降りて、嘉一郎さんの鐙《あぶみ》の下に、背を向けて座っちまったんです。 「幸いここは戦場じゃ。秋田方の物見に出食わして討死したと、佐助は言うてくれるわ。さ、早よ討て」  嘉一郎さんてえ人はね、私ァほんの子供の時分からよく存じておりやすが、ともかく気丈なお方だった。負けん気が強《つお》くて、どんなにいじめられても叩かれても、泣かねえ子供だったんです。  もしかしたら、御蔵屋敷での出来事は陣中のどこかで耳にしてらしたのかもしれねえ。そんときもあえて真偽を問い質そうとはなさらなかったからね。  私ァ、おっかなくなっちまって、馬を曳きながら少し離れたんです。頭ん中がからっぽになっちまった。  嘉一郎さんてえ人は、返《けえ》す返《げえ》すもてえした侍でござんした。 「御組頭様に、ひとつだけお訊ね申しあんす。父が新選組隊士じゃったという噂は、まことでござんすか」 「まことじゃ。それがどうかしたか」 「ならばたとえいかような顛末であれ、父の仇は御組頭様ではござんせん。薩長でござんす。ごめん下んせ」  そう言うたなり、嘉一郎さんは馬の腹を蹴って行っちまった。松林の端まで駒を進めてから振り返ったお顔は、晴れやかでした。 「もひとォつ、御意に添えぬわけがござりあんす。父の罪ば償えぬ子が、父の仇を討つわけにはいかねがんすっ」  それだけをきっぱりと叫んで、嘉一郎さんは行っちまった。  しばらく物思いに耽ってからようやく立ち上がり、次郎衛様はおっしゃいました。 「貫一はよぐ、鳶が鷹を産んだと倅の自慢ばしておったが、そうではねな。鷹が鷲を産んだのじゃ——」  次郎衛様は翌《あく》る明治二年のまだ雪の残るうちに、盛岡の安養院てえお寺で首を刎《は》ねられちまいました。  御家老の楢山佐渡様や、ほかに賊軍の首魁《しゆかい》とされた御重臣の方たちと一緒にいったんは江戸に送られたんですけど、どういうわけか次郎衛様だけがとんぼ返《げえ》りに戻されちまったんです。  私《あつし》はお供することができなかったので、江戸でいってえ何があったのかは存じません。だが噂によると、次郎衛様ひとりが神妙にご沙汰を待たず、役人に向かってあんまり四の五のと言うもんだから、先にバッサリやっちまおうてえことになったらしい。  いかにもあの方らしいやね。黙って死ぬわけにはいかねえ、っての。次郎衛様はどのみち罪をひっかぶって死ぬにしても、勝ち組が正義じゃあねえってことを、言い続けてらしたんだと思う。  でも、盛岡に送り返《けえ》されて、安養院に閉じこめられてからの次郎衛様は神妙なもんでござんした。ずっと身のまわりのお世話をさしていただいてたのに、ほとんどお声を聴いてないような気がするんです。  安養院は北山にある浄土宗光台寺の末寺で、八幡様の並びの杉林の中に建つ、ちっぽけなお寺でござんした。のちの廃仏毀釈であとかたもなくなっちまったらしいけど、昔はそのあたりに小さな寺がいくつもあったんです。  まさか牢屋じゃあねえが、次郎衛様は庫裏《くり》の奥の八畳間に寝起きなさってましてね、隣の座敷には見張りの役人が付きっきりでした。誰とも会おうとはなさらず、たまに面会なすったのは跡取りの千秋さんだけだったんじゃあねえでしょうか。それだって話しこむわけじゃあねえんです。千秋さんは用件だけを伝え、次郎衛様はいつも「お前《め》の思う通りにせえ」というふうなお答えをなさるだけだった。  ご最期は二月の十日でござんした。  きょうびの死刑てえのは、執行の朝にいきなりお迎えがくるらしいけど、昔のお侍の仕置はあらかじめ日どりが決まっていたんです。  いやなもんですぜ。命がね、朝起きるたんびにきっちり一日ずつ減ってくっての。真綿で首を締めるってのは、まさにああいうのを言うんでござんしょう。もっとも、そんな思いをしてるのはまわりの者ばかりで、次郎衛様は顔色ひとつ変えてやしませんでしたけど。  私が腹立たしかったのは、日を追うごとに次郎衛様が悪者にされていったことです。誰かしらが、御城下でそういう噂をたて始めやがった。楢山佐渡様をたぶらかして、南部を賊軍にしたのは大野次郎右衛門だって。あのときは、お侍だって町人だって怒りの持って行き場てえのがねえもんだから、噂はあっという間に拡がっちまったんでしょう。  悔しかったですねえ。通りすがりの子供までが、御屋敷に石を投げこんでいくんです。「朝敵はお前《め》ひとりじゃ」、なんて叫びながらね。  千秋さんはこんなことを言ってらした。 「佐助、父上は御殿様やほかの御重臣の方々に累が及ばぬよう、おひとりで悪者になっておられるのじゃ。心ねえ噂も、ご自分があらかじめ誰かしらに命じておったのじゃろう。どんたに腹が立っても、言い返《けえ》すではねぞ」  たしかにそうだったのかもしれやせん。  ああ——ひとつ思い出しました。  私《あつし》ァ、次郎衛様のお声を聴きましたよ。何とも切ねえ話ですが、よろしいですかい、客人。  次郎衛様は千秋さんのほかには誰ともお会いにならなかった。奥方様とも、お嬢様がたとも、もちろん御家来衆や御同輩とも。  お仕置の日が迫った、二月の七日か八日のことだったと思いやす。晩のお膳を下げに行ったとき、私ァどうともたまりかねて口に出した。 「旦那様、さしでがましうはござんすが——婆様《ばさま》と、ひとめだけでも」  婆様というのは、次郎衛様の産みの母親のことでござんす。私も詳しいいきさつは知らねえが、ともかく大野の御屋敷の長屋門に、その婆様は日がな籠りきって機《はた》を織ってらしたんで。  婆様の住いは中間《ちゆうげん》部屋の並びなんですけど、いってえいるのかいねえのか、生きてるのか死んでるのかもわからねえぐれえの、空気みてえな婆さんでね。だが、次郎衛様は毎日の御登城の行きがけに、表の曰《いわ》く窓から必ずご機嫌を窺ったもんでした。  次郎衛様が内心いつだって婆様のことを気にかけてらしたのは、私が誰よりも知っておりやした。だから、お子様や奥方様にはお別れをせずとも、産みの母親のことだけはさぞかし心残りだろうって、気を回したんですよ。 「無用じゃ。のちのことは千秋に任せておる。要《い》らぬ気遣いはするでねえ」  私はねえ、お客人。十四の齢から次郎衛様にお仕えして、お下知《げち》を違《たが》えたってことがただのいっぺんもなかったんです。中間の分際で口はばってえことを言うようだが、忠義に仕えさしていただいたと思ってます。  けど、一生に一度だけ、ご意志に背《そむ》いちめえました。  私ァ、秋田打入りのどさくさで母親の死に目に会えなかったんです。その悔《く》いってえのが胸ん中にあったんでござんしょうか、矢も楯もたまらずに御屋敷まで走って、婆様を連れ出しちまった。晒木綿で背中にくくりつけ、掻巻をおっかぶせて、有無も言わさずに安養院まで駆け戻ったんです。  凍《しば》れ雪の降る、冷てえ晩でござんした。背中にしょった婆様が、てめえのおふくろに思えて仕方なかった。赤ン坊みてえにちっちえ素足を掌の中にくるんで温めながら、物も言わずに走りましたっけ。 「佐助や、御屋敷じゃあ皆々様、泣き暮らしておるんがの。こんたな大それたこと、やめて下んせ」  あんときはねえ、十四の齢からの十年あまりのご奉公の日々が、頭ん中を駆けめぐりましたよ。次郎衛様とともに過ごした毎日が。  私《あつし》にとっちゃ、生涯《しようげえ》ただひとりの御主人でござんす。挟箱《はさみばこ》を担いで、馬の口を取って、苦楽をともにさしていただきやした。そのたったひとりの御主人が、もう明日かあさってには首を刎ねられるってえときに、私ァいっぺんだけお言葉に背きやした。 「のう、あの子が言うたのではなかろう。お前《め》が、勝手にこんたなことばしとろうが」 「いんや、婆様。これァ旦那様のお下知にてござんす」  嘘じゃあねえと、はっきり思いやした。たしかにお言葉にァ背いたけれど、間違っちゃいねえと思った。  私ァ、侍でもねえ町人でもねえ、尻端折《しりはしよ》りの奴《やつこ》でござんす。そんな私が、大好きな次郎衛様にしてさし上げられることといったら、もうそれしかなかった。  雪の降り積んだ下《しも》ノ橋を渡ったとき、静まり返った御城の影に向かって、思わず叫びましたっけ。「どあほっ」って。  御殿様。御家老様。御高知《おたかち》衆の皆々様。お前《め》様方が何と言おうと、大野次郎右衛門様は南部一の侍でござんす。なして、そんたな立派なお侍に戦の罪ば着せ、薩長に首ば差し出さねばならねのすか。飛んでも困らぬ腐れ首なら、ほかにいくらもあるじゃろ。ばかやろう。ばかやろう。  叫んだとたんに力が脱けて、その先はもう走れなくなっちまった。それまでは、わかっちゃいてもピンときてなかったんですよ。次郎衛様が死んじまうってことが。  次郎衛様が死んじまう、次郎衛様が死んじまうって、そればかりが頭ん中をぐるぐる回って、ほかにゃ何ひとつ考えられなくなっちまったんです。 「佐助さん——」  婆様は声を詰まらせて、私の鼻っ先《つあき》で手を合わしてくれましたっけ。  幸い安養院の門番は、上田組丁に住まう顔見知りの侍でござんした。  私が言いように困っておりますと、婆様はまた手を合わせましてね、ありのままをはっきりと言ってくれたんです。 「科人《とがにん》の母《かが》にてござんす。次郎衛殿に、ひとめ会わせて下んせ。この通り」  番人は齢のころからして、おそらく大野の家の事情を知っていたんでしょう。婆様に深々と頭を垂れて、門を開けて下さいました。  足音を忍ばせて庫裏の裏手に回りますと、奥の間の丸窓に灯がともっておりやした。 「旦那様、佐助でござんす。お顔ばお見せ下んせ」  何か書き物でもなすってらしたんでござんしょうか、筆を擱《お》いた影が丸窓に立ち上がって、障子がそおっと開きました。  一瞬、唇を噛んでから、次郎衛様は唸るみてえに、「母上」と呟きました。 「佐助をば叱らねで下んせ。われが無理ば言うて、ここまで背負うてきてもろうた。な、次郎衛殿、叱らねで下んせ」  婆様はそう言って、私《あつし》をかばってくれました。  雪明りに照らされた次郎衛様のお顔は、よおく覚えてます。唇がぶるぶる慄《ふる》えて、言おうとすることがひとっつも声にはならずに、真白な息ばかり吐いてらっしゃった。  母親てえのは、有難えもんでござんすねえ。婆様の顔を見たとたん、次郎衛様は子供みてえになっちまったんです。まるで、背中の芯が折れちまったみてえに。  はあ、はあ、って声にならねえ息ばかりを吐く次郎衛様のお顔を、婆様は両手を伸ばして、愛《いと》おしげにさすってました。 「お申《も》さげなござんす、母上。次郎衛は、親不孝ば重ね申す。お許しえって下んせ」  ようやく、そうおっしゃった。 「なんもなんも。お前《め》様のような孝行の倅殿が、この世のどこさおる。母《かが》のことなど、最早《もは》気にかけねえで下んせ。ええ子じゃもの」  婆様の皹《あかぎれ》た掌が、次郎衛様の月代《さかやき》を撫でてね、それで、目や鼻や耳たぶやうなじや、手の届くひとつひとつを、人形でもさするみてえに愛おしんでましたっけ。 「ようやった、次郎衛殿。まこと、ようやった。お前様のことを誰が何と言おうと、母はほめてやる。母はよおくわかっておりあんす。お前様の果たした務めは、どなたも真似ができねえだもの。楢山様も、桜庭様も、毛馬内様も、いんや、御家門のどなた様も真似はできねえのす。弱虫で泣き虫で、大きな声も出せねえお前様が、ようここまでやりあんしたなっす」  とたんに次郎衛様は、ぽろぽろと涙をこぼされましたよ。  わかりますかい、客人。男てえのはね、いくつになったって、どんなふうに出世したって、母親からほめてもらいてえんです。ようやった、ってえ、その母親の一言が聞きてえんです。 「かたじけのうござんす、母上。したどもわしは——」  奥歯をぐいと噛んで、次郎衛様は毒でも吐くようにおっしゃった。 「務めは十分に果たし申したれど、母上ひとりを不幸にし申した」 「なんもなんも。母は果報者じゃ」 「務めにかまけて、母上を長屋門からどこぞにお移しすることすらできねかった」 「そんたなことは孝行ではねのす。武士の務めば果たすことこそ、まことの孝行ではねのすか」 「いんや。わしは親不孝者でござんす」 「そうではね。そうではねえよ。忠と孝とは、同《おんな》しものじゃ。忠義ば尽くしたお前様は、天下の孝行者じゃで」  私ァ、婆様を背負ったまんま、こぼれる涙ともろともにね、目から鱗が落ちちまいました。  よくぞ言って下さったじゃあござんせんか。忠義と孝行とは同じものだって。次郎衛様にとっても、私にとっても、こんな救いの文句はなかった。  そして、胸ん中にわだかまっていた吉村さんのこともね、ふいに納得がいっちまったんでさあ。  お別れをしたあと、婆様が声を上げて泣き出したのは、帰り道の下ノ橋の上でござんした。  次郎衛様のご最期についちゃ、私《あつし》は存じ上げません。  なぜかってえと、お仕置の前の日に金輪際のお下知をいただいたんで。  私《あつし》に亡骸《なきがら》の始末をさせたくはなかったんでしょうか。ともかく二月九日に一通の書状を持たされて、私ァ安養院を後にしたんです。 「佐助。わしが処断された後は、お前が他《はた》から何をされるかわかったもんではねえ。きょうのうちに盛岡から去《い》ね。ええな。長えこと、ご苦労じゃった」  次郎衛様はそう言って私に、きちんと頭を下げて下さったんです。  その最後のお下知にゃあ、びっくりいたしやした。どんなご命令だったか、見当がつきやすかい。  他でもねえ、吉村さんのこってす。進駐してきた官軍は、南部脱藩の新選組隊士、吉村貫一郎てえ侍を血まなこで探していた。よっぽど奴らの恨みを買ってらしたんでしょう。  もっとも、どこをどう探そうがご本人はこの世にはいねえんだから仕様がねえが、奴らの様子からすると雫石にいらっしゃるご家族に火の粉がふりかかるかもしんねえ。  ご長男の嘉一郎さんが箱館に行っちまったてえのは、千秋さんから聞いてました。で、娘さんは千秋さんがお守りになる。奥方は寝たきりで動かしようもねえからどうしようもねえが、もうひとり、吉村さんが脱藩してから生まれたてえ、ちっちえお子さんがいる。この坊ちゃんを何とかせずばならねえ。  金輪際のお下知てえのはね、そのお子さんを連れて、越後まで落ちろってえこってす。  まさか薩長が、いかに恨み骨髄たァ言え年端もいかぬガキまでどうこうするたァ思えねえんだが、ともかく越後の江藤彦左衛門てえ豪農の館まで、書状とともに送り届けろ、てえわけです。 「ええな、佐助。貫一の血ば絶やしてはならねえのじゃ。たかだかの情けではねえぞ。これは、世の道理じゃ」  おっしゃることの意味は、よくわからなかった。だが、そのお下知を果たすことは、私にとって最後のご奉公だったんです。 「んだば旦那様。行って参《めえ》りあんす」 「ご苦労じゃが、しかと頼んだぞ。気つけてな」  務めだと思や、今生の別れもさほど辛くは感じられなかった。次郎衛様てえお人は、私にせえ最後の最後まで、そんなふうに気配りを忘れなかったんです。  雫石の在所で病に臥せってらした奥様は、明日をも知れぬ虫の息てえ有様でござんした。私がかくかくしかじかとお伝えしても、目をつむったまんま答えることもままならねえ。で、後のことは家の人にお頼みして、ちっちゃな坊ちゃんを背中にしょいました。 「母上。わしが貰われる越後のお家は、お大尽にてござんすゆえ、じきにお医者ば差し向けるようお頼みいたします。も少し、辛抱なさって下んせ」  賢い坊ちゃんは、答えもせぬ奥様にそう言ってらっしゃいました。  私ァ——吹雪の峠をいくつも越えて、ちゃんとお務めを果たしやした。そのあたりの顛末は、どうか神様みてえに賢い、あの坊ちゃんからお聞きなさんし。畏れ多くって、とうていやくざ者の口からお話しできるこっちゃござんせん。  おっと、こんな時間かい。すっかり話しこんじまった。すまねえが客人、私《あつし》ァこれから野暮用に出にゃならねえ。  ごめんなすって。 [#改ページ]  まんず、静かな朝じゃのう。  雪も上がって、空は藤の花の色になってしもうた。明けきらぬうちに死にてえだども、最早《もは》、とどめを刺す力もねえ。  ああ、ええ気持ちじゃ。まるで、温《ぬぐ》とい湯につかっておるような。  こうとなれば、覚悟が定まらずに一晩じゅうぐずめいていたおのれが阿呆らしい。  腹はたしかに切った。ふむ、さんざ苦心はしたが、たしかに切れておる。とどめに咽《のど》ば突こうとして、どうやら目ば突いてしもうたようじゃ。したども、こうして片方の目に映る明け空は何とも美しいもんだ。  ちいとも痛くはねえ。苦しくもねえ。んだればわしは、極楽往生できるのじゃろか。  そんたなはずはねな。大勢の人ば殺《あや》めて極楽さ行けるのなら、地獄に落つる者などおるはずはねえ。三途の川さ渡れば鬼こに引き立てられて、針の山さ登ったり、血の池さ沈んだりせねばならぬじゃろう。  痛えの苦しいのはそれからじゃが、覚悟はできておる。  これはこれは閻魔様《えんまさま》。お初にお目にかかりあんす。どうぞご存分にお裁き下んせ。八つ裂きでも釜茹ででも、文句は言わねす。お蔭様をもちあんして、妻《かが》も子供らも餓鬼道に落つることなく、盗みもせず人も傷つけず、いずれ善人のまま往生いたしあんす。わしひとり地獄に落つても、それは男子の本懐でござんす。今日まで罰を下されずに生き永らえさせていただき、まことにかたじけのうござんした。このうえの望みは何もながんす。お裁きには神妙に従い申しあんす。  ——ええな、これで。  はて、そこに座《ねま》っておられるのは、どなた様で。  じゃじゃ、父上でねのすか。わざわざお迎えにきて下さんしたとは、畏れ入りまする。こんたな格好で不調法《ぶしよほ》いたしあんす。身を起こすことも座《ねま》ることもできませぬゆえ、お許しえって下んせ。幼いころに幽明|界《さかい》を異にして以来《いれえ》、長らくのご無沙汰にてござんした。  お若いまんまで、何よりでござんすなあ。父上の享年は三十一にて、わしは親よりも長生きばさせていただきあんした。齢下の父上に手ば引かれて三途の川ば渡るのも、妙《ひよん》たなことでごあんすが。  のう、父上。わしの生涯《しようげえ》について、どうお考えになりあんすか。どうか今生のなごりに、忌憚《きたん》なきところをお聞かせ下んせ。  まずは、父上の身罷《みまか》られた折、母上はわしにおっしゃられた。このさき武士として生きるか、百姓で生きるか、と。わしは躊躇なく、侍の道を選んだのじゃが、今にして思えば果たしてそれが正しい方途であったかどうか、わかり申さぬ。いかがでござんすか。 (貫一——)  はい、父上。どんたなことでも、ご遠慮なさらず。 (間違《まつげ》えではねぞ。何となればじゃ、おそらくおっ母様はこの先の身の振り方を、御組頭様に相談したのじゃろう。幼いお前《め》が家督を継ぐまでには間があるゆえ、家を残すにはお情けにすがるほかはねえ。さすれば、ほかの御同心の手前、お前らは肩身の狭い思いばせねばならぬ。ならばいっそのこと、大野の家は地方《じかた》の上がる知行地を持ってござるゆえ、そこに帰農してはいかがかと、御先代はおっしゃられたのであろうよ)  なるほど。で、母上はわしに訊ねたのでござんすな。侍か、百姓か、と。 (さよう。大野様の知行地であれば、たとえ飢渇の年でも飢え死ぬことはあるめえ。じゃが、貫一。お前の申した返答に間違えはねえぞ。父祖代々の吉村の名をば惜しみ、楽な道より辛い道を選んだお前は、わが子なれどあっぱれじゃ。よくぞ言うた)  かたじけのうござんす、父上。心のわだかまりがひとつ晴れあんした。  では次に、|しづ《ヽヽ》を妻《かが》に迎えたことにつきまして。 (そんたなことは答うるまでもなかろう。しづはたしかに百姓の出身で体も弱え。じゃが、お前の惚れたおなごじゃ。男はの、妻に惚れておらねば力は出ぬ。ましてやしづは、めんこい子を三人も産んだではねえか。間違えは何もねえぞ)  やはり、さようでござんすな。またひとつ、心が晴れあんした。  したば父上。何よりも難しいことをばお訊ねいたしあんす。わしが脱藩ばいたしたのは、間違えでござんすか。 (それは難しいのう。お前《め》の気持ちはわからねえでもねえが——)  お答え下んせ、父上。わしは脱藩の是非ば知りてえのでござんす。 (ならば正直に申すべえ。父にはその勇気がながった。お前にはあった。ただ、それだけじゃ。脱藩は武士の罪じゃが、わが子を飢えて死なすは人としての罪じゃろう。父は幸い、お前も母も死なさずにはすんだが、死なすやも知れねえと思うた冬もある。それでも父には、脱藩ばする勇気も、力もながった。お前にはそれがあったのよ。人でなしの侍になるよりも、お恥《しよ》す武士となる道ば選んだお前は正しい。ようやった)  父上。かたじけのうござんす。わしは、このことばかりは叱りつけられると思うておりあんした。縛《いまし》めを解かれたような気分でござんす。  したば父上。多くの人ば殺《あや》め申したことにつきましては。 (愚問じゃな、貫一。命のやりとりじゃろう。斬らねば、お前が斬られた)  いんや。戦や尋常の立ち合いならばいざ知らず、わしは欺し討ちも数々し申した。切腹の介錯もし申した。多勢に無勢の斬り合いで、傷ついた者のとどめも刺し申した。 (それとて、お前がせねば誰かがしたじゃろう。あるいは躇《ためろ》うたがゆえに罪ば蒙ったやもしれぬ。お前は剣が強く、心も強かった。強《つ》え侍は悪人か。そうではあるめえ。強えがゆえに苦労をしねばならながったのじゃ。そんたな当たり前の理屈に、罪ばおっかぶせる神仏などおるはずはねがべ)  はあ……言われてみれば。  今じゃから申しあんすが父上、わしは人ば斬ることが、辛うて辛うて仕様《しや》ねがった。そんたな顔を土方さんに気取《けど》らるれば、士道不覚悟で何をされるかわからながった。じゃからわしは、血も涙もねえ顔ばして人ば斬り申した。 (さだめし辛かったじゃろう。父にはよぐわがっておる。お前の気性は、おなごのごとくやさしい。心ば鬼にして、ようやったぞ、貫一)  かたじけのうござんす、父上。泣いても良《え》がんすか。 (泣げ。誰も見てはおらぬ)  わしは、それが何よりも、辛かったのす。人ばぶった斬るたびに、ああこやつにも親はおるじゃろ、子もおるじゃろと、胸のかきむしられる思いばいたしあんした。  三条の飛脚問屋に参《めえ》りあんすと、勤皇も佐幕もなぐ、そんたな侍が大勢おりあんした。みな国元への書状や銭こをば、頭ば下げて頼んでいたった。どれも国元じゃあ、食いつめた下侍に違《つげ》えねのす。わしは、そんたな侍ばぶった斬った。 (もうええ、貫一。間違えではねえと言うておろうが。その者たぢより、お前のほうが強え侍じゃった。仕様《しや》ねかべ)  父上。こんたに血が出切ってしもうておるのに、糞小便も垂れ流しておるのに、涙ばかりが際限なぐ流れあんす。くり抜いた片方の眼《まなぐ》からも、ほれ。 (泣げ。さほどにこらえておったのじゃろう)  わしはの、父上。人ばぶった斬って、銭こば貰《もれ》えあんした。人の命ば銭こに替えたわしは、やはり鬼でござんす。 (いんや、そうではねってば。新選組は会津肥後守様の御配下じゃ。会津様は京都守護職にてござるべ。お前《め》は大義ば以て、京師《けいし》に跋扈《ばつこ》する賊ば斬り捨てた。士道に悖《もと》る行いの仲間ば斬った。それは務めであろう。務めば果たして、褒美ばいただいたのじゃ。けっして、人の命ば銭こに替えたわけではねぞ)  さようでござんすか。何やら、残る力が体から脱け申した。  ならば父上、改めてお訊ねいたしあんす。鳥羽伏見の戦の最中に、新選組のお仲間は大勢脱走いたしあんした。むろんわしも、考えねえわけではながったのす。お命代もたんまりと貰うたし、どさくさまぎれに逃げ出すのは、たやすいことじゃった。  怯懦《きようだ》には違《つげ》えね。だども雫石の里にァ、しづも嘉一郎も、みつも、まだ見ぬおぼっこも、わしの帰りを待っておるのす。わしのとるべき道は、やはりそれではながったのか、と——。 (なにゆえ、そうはせなんだのじゃ)  わかり申さぬ。そればかりは、おのれがわかり申さぬ。 (わがらねのなら教えてやろう。貫一、お前は武士じゃった。名ばかりの武士が肩で風切る世の中にあって、お前は、骨の髄まで立派な武士じゃった)  そんたな無理ば言わねで下んせ、父上。わしは、二駄二人扶持の足軽にてござんす。天井板もねえ上田組丁の足軽屋敷にて、食うものも食わず、山さ入《へえ》って漆《うるし》こ掻《か》いたり、南部表ばこしらえたり、夜を日についで傘張りばするのが仕事の、小身者《こもの》にてござんす。立派な武士じゃなどと——。 (二駄二人扶持がどうした。お代物《でえもつ》の多寡が何じゃ。武士は義のために生き、義のために死するものぞ。お前は妻子をば養うことを義と思い定めて生きたではねか。そんで、賊と呼ばわれてもしかとまことの義ば信じて、錦旗にすら立ち向こうたではねか。誰が何と言おうが、お前は立派な武士じゃで)  お言葉であんすが父上。立派な武士は命乞いなどいたさぬ。わしは、命惜しさに御蔵屋敷ば訪ね、こんたな見苦しい最期ば遂げあんす。これが立派な武士の始末でござんすか。 (どこが見苦しい。何が不始末なのじゃ。わしはこれほど見事な男の死に様を、見たことはねぞ。ええか、貫一。お前は身も心も燃やし尽くした。おのれのすべてを、捧げ尽くした。そんたなごとはみながわかっておる。口では何と言おうが、この死に様ば目にした者は、御留守居役様から足軽中間まで、みな矜《ほこ》りに思うておるのよ。よくぞ帰って参ったと、よくぞ主家の屋敷ば死出の花道にしてくれたと、心の底からお前に頭ば下げておるぞ。お前は吉村貫一郎という、人の姿ば借りた南部の魂じゃ)  したども、ほれ、わしは南部主家の畳ば、汚してしもうた。ごらん下んせ、父上。おっ欠けた痩せ刀で一人腹なぞ切って、腹わたば引きずり出して、片目もくり抜いて、じたばたと糞小便ば垂れ流したまま、転げ回り申した。十本の手指も、あらかたはちぎれ飛んでしもうた。主家の畳ば汚したうえに、父母からいただいた体ば、ずたずだにしてしまいあんした。 (まだそんたなこと言うておるのか。これはな、貫一。身も心も燃やし尽くし、捧げ尽くした者の末期《まつご》の有様じゃ。しかと目ば開けて、座敷を埋むる血ば見よ。お前《め》は、おのれの体に流るる血を子らに分かち、その意味をば身をもって十全に教え諭した。座敷にはっ散《つ》らがした血は、子らに与えた残りもんだ。よくぞここまで、おのれをふり絞った。お前の体には、最早《もは》一滴の血も残ってはおらぬ。ええか、貫一。お前は父母の与えた身体髪膚《しんたいはつぷ》をば、いたずらに毀傷《きしよう》したわけではねぞ。一筋の髪、一片の肉、一滴の血すら無駄にはせず、すべてを使い果たしたのじゃ。この始末ば見た者は、過《あやま》てる武士道に目|覚《さ》むるじゃろう。武士道は死ぬることではなぐ、生きることじゃと知るじゃろう。わかるか、貫一。それこそがまことの武士道ぞ。南部の士魂ぞ)  ああ、父上。かたじけのうござんす。よぐわかりあんした。わしの生涯《しようげえ》は、てえしたもんでござんしたな。最早、血は一滴も出ねだども、最後の最後に、涙ばふり絞って良《え》がんすか。  わしの体に残るものは、ほかに何ひとつござりあせんゆえ。 (泣げ、貫一。ことごとく使い果たした五体の最後に、よくぞ涙ば残した。お前は、えらい。涙ば出尽くしたなら、わしが極楽へと連れ申そう。あっぱれじゃぞ貫一)  ——これで、良がんすなっす。  無理っくりに腹ば切り、無理っくりにおのれの生涯ば、納得しあんした。  何も見えねえ。何も聴けねえ。いよいよ、しめえじゃな。  しづや、しづや。  わしは、息の上がるこのときまで、お前に惚れており申す。お前を初めて抱いた晩に、死ぬまで惚れ抜くと誓うた約束は、この通り果たし申した。  嘉一郎や。  次郎衛殿より腹ば切れと賜わった大和守の業物《わざもの》は、きれいなまんま、お前に遺していく。どうか吉村の家の末代まで、血の味ば知らぬ誉れの名刀として、伝えて呉《け》ろ。  みつや、みつや。  父《とど》はの、今しがた痛み苦しみにのたうち回る間、お前の名を千べんも万べんも呼び申したぞ。念仏も題目もいらぬ。わしの痛みを安んずるものは、お前の名前ばかりじゃった。孝行な娘じゃな、お前は。どうか佳き人にめぐり遭い、生涯を添いとげて呉ろ。  まだ見ぬおぼっこや。  お前にだけは、心からすまねえと思いあんす。抱いてもやれず、背負うてもやれず、親らしいことは何ひとつ、してはやれなんだ。  ゆくゆく父のことば問われても、知らねがんすと答えるほかはねえお前の淋しさば思うと、申しわけなさで胸がつぶれる。  んだから父は、お前に約束ばする。  極楽にも、地獄にも行かね。魂魄《こんぱく》はお前とともにおり申す。仏様や閻魔様にどんたな無理ば言うても、片ときも離れずお前のそばにおり申す。  次男坊のお前は冷や飯食いで、いずれはどこぞの家さ婿に入るじゃろう。養子に貰われるやも知れねな。したども父は、どこまでもお前《め》とともにおるからな。  そんで、新しき世を生きたいつの日にか、父とともに盛岡さ帰《けえ》るべ。父の魂ばしっかと背に負うて、ふるさとさ帰るべ。  ああ、見える。  雪解けの岩手山《おやま》じゃ。南には早池峰《はやちね》、北には姫神山。北上川と中津川の合わさるその先に、不来方《こずかた》の御城が。  どこも変わらぬ、昔のままじゃ。北山の辛夷《こぶし》も、石割桜も、梅も、菜の花も、みないっぺんに咲いておるではねえか。  おうい、今|帰《けえ》ったぞお。  舟橋が揺らぐほど雪解け水が溢れ返って、今年はさだめし豊作じゃろう。  空は青く、はろばろと豁《ひら》け、その究《きわ》みより、清らかな風が吹きおろす。  南部の風じゃ。盛岡の風じゃ。  胸いっぺえに吸うてみるべさ。  力いっぺえに。胸いっぺえに。  ああ、何たるうめえ風にてごあんすか。  ああ、何たる、うめえ…… [#改ページ]  いらっしゃいまし。  それにしても、まあよく降りやがるねえ。どうぞ、お顔の見えるとこにお掛けなさい。  客がいねえのは酒や肴のせいじゃあねえよ。俺のおしゃべりが気に入らねえって、生意気な学生も中にァいるが、素直なやつは親がわりの説教をわざわざ聞きにやってくらァ。  じきに凩《こがらし》も吹こうてえのに、この雨降りじゃ、酒を飲むどころか学校にだって行きたかねえや。  合羽《かつぱ》はそこいらにひっかけといておくんない。滴《しずく》なんざ気にするこたァねえよ。濡《ぬ》れて困るほどたいそうな店じゃあねえ。  ビールなら冷えてますけど、熱燗のほうがようござんしょう。  多滿自慢、國府鶴《こうづる》、澤乃井。うちは何だって江戸前が売りなもんだからね、灘の生一本《きいつぽん》だの伏見の銘酒だのは置いてねえんです。酒ってのは生物《なまもの》ですからね、汽車に揺られて長旅かけてくる酒より、そこいらから大八車でひょいと配達にくるもんのほうが、旨えにきまってまさあ。  へい、なら國府鶴を熱燗で。  こいつァいい酒だよ。お江戸日本橋七ツ立ち、甲州街道は信州|諏訪《すわ》までの四十と五次。四谷の大木戸をくぐってまずは内藤新宿、高井戸、国領、布田《ふだ》ってえ、もっとも今じゃあ電車でひとっ走りだが、俺の若《わけ》え時分には、調布まで伸《の》すにしたって道中は一晩泊まりが当たり前《めえ》だった。  調布は下石原、上石原。ご存じでがしょう、新選組局長近藤勇の生まれたところです。で、その次が武蔵府中てえわけで、話は長えがそこがこの國府鶴のお蔵元さ。  ついでに府中からもうひと伸《の》しすれァ、日野本宿。泣く子も黙る新選組の鬼副長土方歳三、六番隊長の井上源三郎はここの産だ。  燗がつくまでのお口汚しに、お菜をどうぞ。江戸前の芝海老に浦安の浅蜊《あさり》の炊き合わせ、と。  ——あ、夏のかかりにおいでになった方だね。  近ごろ目が霞んじまって、電灯の下で面つき合わせにゃ誰だかもわからねえ。  だとすると、話の枕にせえつまらんことを言っちまった。近藤勇の土方歳三のって、わかってて言ったわけじゃあねえんです。國府鶴を出すときァ、そういう威勢のいい枕を振れァ酒もさぞかし旨くなろうってもんだ。  先だってはたしか、あの吉村貫一郎てえ侍のことをお訊ねでしたね。  酔狂な人だと思っちゃいたけれど、まだお熱がさめちゃいねえってことは、どうやらただの酔狂じゃあねえらしい。あちこち歩き回って、また舞い戻ってきなすったってわけですかい。  おっと、聞きたかねえよ。どこぞで仕入れてきた吉村のその後なんてのは。ご勘弁、ご勘弁。  実はね、旦那。あんたが訪ねてった富ヶ谷のご隠居が、先日ひょっくり顔を見せたんですよ。そう、稗田利八《ひえだりはち》っていうじいさん。新選組にいたころは池田七三郎って名前で、近藤局長の御近習《ごきんじゆう》だった。  心配してましたぜ。問われるままにあれやこれやしゃべっちまったが、よもや仇討ちか何かじゃあるまいね、って。  笑いごとじゃあねえんだよ。俺にはご隠居の気持ちがよくわかるんだ。他人の恨みを買うってのは、それぐらいおっかねえことなんです。五十年も昔の話だって、昨日だと言われりゃそんな気もしちまう。  新選組の仕事ってのは、何だったかご存じですかい。早え話が、ひとごろしですよ。朝から晩までそういう因果な商売をして、あげくの果ては御一新の敗け戦だあな。それでも俺たち古株は、多少のいい思いはしたからまだしもましさ。池田のご隠居なんざ、入《へえ》ったとたんに鳥羽伏見の戦場に放りこまれたようなもんだろ。  おたがい、ひでえ戦をして生き残ったってのは、それだけ大勢の人間を斬り殺してきたってことです。  俺だって食うためにこんな客商売をしちゃいるが、覚悟はできてるんだぜ。親の仇、爺様の仇ってのが、いつなんどき飛びこんでくるかわからねえんだ。  旦那、ご隠居に大物を紹介してもらったそうじゃねえか。本郷の、三番隊長だよ。  あの人と吉村とは犬猿の仲だったからな。たぶんぼろくそに言ったろうが、あんまり信じねえほうがいい。  斎藤は死んだよ。知ってるかい。ついこの間、くたばった。ご隠居は本郷の家に線香あげに行って、帰りにここへ寄ったのさ。  もう息が上がるってときにな、家の者に言いつけて、蒲団を畳ませたんだと。で、床柱を背にして大あぐらをかいて、ナンマンダブだとよ。いやはや、剣客てえのはすげえもんだな。あんたも顔見知りなら、帰りにちょいと寄って線香の一本でも上げてってやれ。あの根性と悪運の強さに、あやかれるかもしらねえぞ。  したっけ、応えたなあ。ご隠居もよっぽど応えたみてえだった。  俺たちゃ生き残りさ。その生き残りが、ひとりひとり、ひっそり死んでくってのはたまらねえ。今年は永倉新八が死んで、斎藤|一《はじめ》が死んだ。試衛館以来の生え抜きは、これでひとりもいなくなったてえことになる。  帰りしなに、池田のご隠居はしみじみ言ってたよ。「最後の新選組、とだけは呼ばれたくありませんねえ」って。  お燗がつきました。  へい、遠慮なくごちになりやす。武蔵府中の國府鶴。きっと近藤も土方も、若い時分からこいつを飲《や》ってたんでしょうねえ。  それにしても、ざんざん、ざんざん、よく降りァがる。  旦那がいってえ何をお訊きになりてえか、当ててみましょうか。  尻切れとんぼの、とんぼの尻尾。どうです、図星でしょう。  半年近くも、どこをどう回っておいでなすったかは知らねえが、伊達も酔狂もここまでできりゃ大《てえ》したもんだ。  おっと、ごめんなさいよ。口がへらなくって。  俺ァ、何もケチな了簡で話を尻切れとんぼにしたわけじゃあねえ。あんたがブン屋だか物書きだかは知らねえけど、興味本位なら話すことはそこまででよかろうと思ったんです。  だがどうやら、旦那は吉村のためにずいぶん苦労をして下すったらしい。そうでなけりゃ、もういっぺんここに戻ってくるはずはねえやな。  たしかに、箱館の戦はこの目で見ました。最初っから最後まで、明治元年十月の蝦夷地上陸から、翌《あく》る五月の降参まで、足かけ八月《やつき》の長え戦だった。  旦那がお知りになりてえところは、ちゃんとお話ししますがね、何ぶん五十年も昔のこったから、俺だって順序よく話さにゃ思い出せねえ。  鳥羽伏見で敗けたあと、大坂城に立て籠って一戦かと思いきや、結局新選組は船で江戸に戻ったんだ。いってえどういういきさつでそうなったんだか、ともかく城を枕に討死するって息まいてた近藤も、一夜明けたらころりと気が変わって、江戸に引き揚げるってことになった。  で、江戸に戻るとじきに、甲州へ行けって。甲州街道を攻め上ってくる官軍を迎え撃てってわけさ。  何だか知らねえけど、妙に金回りが良かったな。土方以下の隊士は、いったん品川の釜屋ってえ旅籠《はたご》に入《へえ》ったんだが、いきなり一人あたま十五両も貰ってね、横浜の病院で怪我の養生をしてた池田のご隠居も、やっぱしそのぐれえの大金を貰ったって言ってた。ともかく、一月のなかばに江戸へ帰り着いてから三月一日に甲州へ向かうまで、手当だの褒美だのと、使いきれねえほどの銭をしこたま貰ったんです。  その金を懐に入れて脱走しちまった隊士もいたがね、そういうのはよっぽど目端《めはし》の利くやつさ。人間てのは強欲だから、金に目がくらんじまう。鳥羽伏見の敗け戦のことなんて忘れちまうんです。懐が温かくなると、徳川はまだまだ安泰で、江戸に攻め上ってくる薩長なんざ返り討ちにしてくれるわ、なんて気分になった。  甲州に出陣するときだって、小荷駄方は千両箱をいくつも積んでたし、身なりも洋式の軍装に晒木綿《さらしもめん》の帯を締めて刀を差し、そりゃあ豪気なものだった。近藤勇は大久保|某《なにがし》、土方歳三は内藤某って、御譜代の苗字までいただいてね、もう大名気分なんです。  だが、勝沼じゃあぼろくそに敗けた。命からがら江戸に逃げ帰る途中でね、やっと気付いたんです。俺たちゃ道化だって。  官軍とうまく話をまとめたいやつらからすりゃあ、新選組は邪魔者だったんですよ。だからしこたま銭を渡して甲州に追っ払った。その銭を持ってずらかるのも勝手、甲州で討死するのも勝手、生き残りは阿呆らしくなって近藤の指図には従わねえだろうって、うまく仕組んだものさ。  近藤はすっかりやる気をなくしちまって、流山で官軍に首を差し出した。べつに俺たちを逃がすためにそうしたわけじゃあねえよ。鳥羽伏見の戦の前に、墨染街道で肩にくらった鉄砲傷がどうともいけなくって、ろくに刀も握れねえ体になっちまってたんだ。あれは表の顔は新選組局長だったが、正体は徹頭徹尾、天然理心流の道場主だったからな。そのうえ幕閣に利用された道化だったてえことに気付いて、たちまち戦う気力なんて失《う》せちまったんだろう。  それにひきかえ、土方は大したものさ。あれほど向こうっ気の強え男はいねえ。近藤が首を刎ねられて、沖田総司が肺病で死んで、永倉と原田が尻をまくっていなくなっても、新選組の旗を降ろそうとはしなかった。俺がとことん奴について行ったのも、理屈じゃあなくって、その意気に感じたからさ。  土方とともに会津へと向かった京都以来の隊士は、五十人ばかりだった。  ねえ旦那。  あんたの齢じゃあまだわからねえかもしらねえが、人間てえのは落ち目になると本性を晒《さら》け出すものなんですよ。必死で戦ううちに、見栄も外聞もなくなっちまうからね。  京にいた時分は、土方歳三ってのは計算高い、要領のいい男だって思ってたんです。ところがどっこい、そうじゃなかった。実はあれほど不得要領な奴はいねえ。損得の勘定なんて、からきしできねえ男だったんです。徳川への忠義なんてのも、口で言うほどありゃあしなかったと思う。だって、その徳川の不甲斐なさもいやらしさも、一等知っていたのは土方だもんな。どのみち勝てるはずのねえ戦でも、そっちがその気ならとことんやってやるって、早え話がそれだけさ。  だが旦那。簡単なこっちゃねえぞ。あれはたしかに、ええ格好しいの男だったが、あそこまで格好をつけられる男てえのは、まずいねえ。みてくれ同様、中味もまったく格好のいい男だったな。  斎藤一てえのも、京にいたころは薄気味悪い偏屈者だと思っていたけど、どうしてどうして、肚の据わった男だった。会津がもういけねえとなったとき、死場所はここだと言い張った。言うことにあんまり筋が通っているんで、俺も土方と斎藤とのどっちにつくか迷ったもの。  だから新選組は、土方について仙台に向かう者と、斎藤とともに会津に残る者と、まっぷたつに分かれちまったんです。俺は土方、池田のご隠居は斎藤と決めた。  あのご隠居もね、みんなから「七三《しちざ》」なんて呼ばれていた二十歳ばかりの若僧だったんだけど、よく働いた。九月初めの会津如来堂の激戦で斎藤とはぐれてから、半死半生で下総《しもうさ》の銚子まで落ちて、そこで捕まったんです。  そんなわけで、仙台から幕府の軍艦に乗って箱館に向かった新選組は、土方歳三以下たったの二十五人だった。ひとりひとり、顔も名前も覚えてますよ。二条城から隊列を組んで鳥羽伏見に向かった百五十人が、たったの二十五人になっちまってたんですからねえ。  箱館ってところは──え、北海道のご出身ですかい、旦那。なあんだ、そんなら話は早えや。何たって箱館は蝦夷地の玄関口ですからねえ、北海道の人なら誰だって通らにゃならねえ関所みてえな町だ。  津軽海峡を渡ったことのねえやつにね、どんなにうまく北海道の話をしたって、わかるはずはねえんです。あの、ツンと澄んだ風とか、人間の上に乗っかかってくるみてえな空とか、雪を巻き上げて荒れる銀鼠《ぎんねず》の海とか、内地とはてんで違うあの自然てえのは、その目で見たやつじゃねえとわからねえ。  駒ヶ岳の裏っかわになる鷲ノ木の浜に上陸したのが十月の二十日すぎ、今の暦で言やァ十二月の初めってことになりますか、ともかく海はひでえ荒れようで、ボートがひっくり返《けえ》るようなうねりでしたよ。  一面の雪景色の中に駒ヶ岳がそびえてまして、振り返りゃあ海の向こうに、蝦夷富士ってえ立派な山も見えた。  俺っちが踏みしめた浜の先にァ、手つかずの大地がずっと拡がっているってのはわかりましたけど、正直のところ希望ってやつは湧かなかったね。とうとうここまで追いつめられたって気がしました。官軍が俺っちを放っておくはずはねえし、日本中が降参しちまって、手を上げてねえのは軍艦で逃げてきた俺っちだけなんだから。遅かれ早かれ、この雪の中が死場所だって思いました。  戦はじきに始まった。上陸したとたんじゃあねえけど、足元がまだふわふわと定まらねえで、船酔いだっておさまらねえぐれえのうちに、箱館に向かって進撃が始まったんです。  思えば鳥羽伏見の戦から十カ月余り、俺っちァずっと戦のし通しだった。刀なんかは研ぎに出すどころか打粉《うちこ》を打つ間もねえもんだから、戦のたんびに討死したやつのをかっぱらって、幾ふりとっかえたかわからねえ。傷の養生なんてのは、焼酎をぶっかけて血止めを塗って、晒でふんじばるだけでした。  そんなわけだから、蝦夷地に立ったときにァ、かえって気持ちが楽になったんです。だって、逃げようがねえでしょう。もうこのまんま、どっかでくたばるほかはねえんです。命を惜しむこともねえし、退却する必要もねえと思ったら、すっかり肚《はら》が据わっちまいました。  峠を越えて箱館の五稜郭に入城したのが、昔の暦でいう十月の二十六日。あたり一面は深々とした雪に包まれてました。途中では津軽や松前の藩兵たちとずいぶんやり合ったけど、五稜郭の守備隊は前の晩に逃げちまっていて、無血入城ってやつでしたよ。  それから足かけ八月《やつき》、まるで命を勘定するみてえな日を過ごしたんです。すっかり開き直っちまってるから、あんまり苦労は感じなかった。ま、五稜郭ってえ、蓮の掌《うてな》に乗っかってたみてえなもんだ。  箱館って町は、海につき出た箱館山を枕に寝そべってるような格好だね。で、顎のあたりが町になっていて、五稜郭は首根っ子のまん中です。両側が海だから風はいつも湿っていて、雪の降らねえ日には雪より白い霧がたちこめました。  さいです。  俺があの若侍に会ったのも、一間《いつけん》先が見えねえぐれえの、真白な霧の晩でしたっけ。  箱館の五稜郭てえのは、城ってほどのたいそうなものじゃなかった。西洋ふうの要塞とでもいうのか、濠の内っかわは小学校の野球場に毛の生えたぐれえの広さしかねえ、ちっぽけな砦です。  まだ攘夷のさかんな時分に、箱館山の麓にあった奉行所じゃ黒船の艦砲射撃に遭ったらひとたまりもねえってんで、港からずっと引っ込んだところに五稜郭を造ったんだね。  入城したときは、何だか頼りねえところだなァって思ったもんです。  城内のどまん中に立派な奉行所が建っていて、そこの物見に登れば右手の箱館湾も、左手の津軽海峡もいっぺんに見渡すことができる。だが考えてもみりゃあ、こっちだって原野のただなかの平城《ひらじろ》なんだから、丸裸でつっ立ってるようなものさ。それに、星形の城郭ってのは、鉄砲を担いで突撃してくる敵にゃ万べんなく十字砲火を浴びせられるから都合はいいんだが、遠くから大砲を撃ちこまれたらどうしようもねえ。囲まれて兵糧攻めにされたら戦にもなりませんや。  しょせん、西洋のだだっ広い平野の城の物真似で、攻城だの籠城《ろうじよう》だので死ぬまで戦う場所じゃあねえと思った。したっけ、俺たち旧幕府軍の拠り所といったら他にはねえんだから仕方ねえや。濠をめぐる土手に勾配をこさえて大砲を引き上げたり、正面と背面とに台場を造って陣地にしたりね、ともかく総出で戦仕度をしたもんです。  榎本|武揚《たけあき》ってえ大将はいってえ何を考えてたものやら、俺っち下っ端にゃ皆目わからなかったが、やっぱし生きようとしてたにちげえねえ。新しい時代が来たらたちまちおまんまの食い上げになっちまう侍たちを蝦夷地に集めて、開墾をしながら自活させようって、本気で考えてたんだろう。  だが、土方以下の新選組の生き残りは、薩長の奴らからすりゃあ凶状持ちみてえなものさ。降参してもとっつかまっても晒し首なら、潔く斬死《きりじに》するほかはあるめえ。  そういう覚悟のせいか、箱館に入《へえ》ってから土方歳三は変わった。いや、江戸を落ちてから奥州を転戦する間に、少しっつ人間が変わってったみてえな気がする。  どんなふうに変わったかって、京にいた時分のぴりぴりしたところがすっかりなくなっちまったんだ。酒は酔うほど飲まねえ、女は寄せつけねえ、何だか聖人君子に生まれ変わったみてえだったな。  土方は戦上手だった。新選組の鬼副長ってえ肩書のせいもあろうが、土方が指揮をすりゃあ戦は敗けねえって、誰もが思っていた。奴ァ、軍神だった。畏れ多くってそばにも寄れねえ、おいそれと声もかけられねえってほどの、生き神様にされちまっていたのさ。  箱館はふしぎな場所だった。そこがどこで、今がいつなのか、俺はずっとわからずに暮らしていたような気がする。日本でも異国でもねえ、あの世でもこの世でもねえ、時間せえ止まっちまってるふしぎな場所さ。  五稜郭に入ってから官軍が攻めてくるまでの半年の間、俺ァ何べんもこんなことを考えた。  ほんとは、もうとっくに死んじまってるんじゃねえかって。甲州か宇都宮か会津かで、てめえはとうに戦死しちまっていて、魂が成仏できずに彷徨《さまよ》ってるんじゃねえかってな。  もひとつ、こうも考えた。  五稜郭ってえ変てこな城は、俺たちの心の中みてえだって。  できそこないの砦の土手に立って、ぼんやりとちっぽけな城内を見渡していると、そこがてめえの心の中に見えてくるのさ。生きてえ虫と死にてえ虫がうろうろと歩き回っていて、そのくせ揉め事が起こるわけでもなく、妙にきちんと一日が過ぎて行く。  たぶん榎本は生きてえ虫で、土方は死にてえ虫だった。そのよしあしはわからねえ。ただ俺の心の中にも、榎本と土方は巣食っていたのさ。生きてえ虫と、死にてえ虫がな。  洋行帰りで、外国語をペラペラと話す榎本武揚は生きてえ心の光明だった。たとえ絵に描いた餅でも、奴なら食わしてくれるんじゃねえかと思ったよ。  一方の土方歳三は、俺たちの後ろにいつものそりと立っている、真黒な影だった。  そんな二人が何ひとつ諍《いさか》うこともなく暮らす箱館五稜郭は、あの時分の俺たちの心の中そのものだったんだ。  俺があの若侍に出会った晩のことでしたっけね。  初めに言っとくが、旦那。俺ァその若侍の正体は知らねえよ。思い過ごしかもしれねえし——いやもしかしたら、そんな奴ははなっからいなかったかもな。俺が勝手に記憶を塗り替えているかもしれねえってことは、承知しておいておくんなさいよ。  冬のかかりの、うっすらと雪の降り積もった五稜郭に、濃い霧のたちこめる晩だった。  俺はその夜、大手の番兵に出ていたんだ。大手門と言っても、たいそうな構えじゃねえ。二重の濠に木橋が渡してあって、目隠しの土塁がある、関所みてえなものさ。  霧の中から、足元の雪を軋《きし》ませてひょいと人影が現れた。俺はびっくりして、鉄砲を柵の向こうに突き出した。大声で誰何《すいか》をすると、人影は立ち止まった。  怪しい者ではないから撃たないでくれ、というようなことを言ったな。言葉はきつい奥州訛だった。 「わしは、南部の百姓にて、権兵衛と申す者にてござんす。先刻、大間の岬から舟こさ漕いで、湯ノ川の浜に着きあんした」 「南部の百姓が何をしに参った」  と、俺は人影に鉄砲を向けながら訊ねた。  南部領の大間は箱館から海峡を隔てて八里十二丁の対岸だ。そこから闇夜の海を小舟で湯ノ川の浜まで渡ってくるとは、どだい話が尋常じゃあねえ。 「卑《いや》すい百姓ではござんすが、腕には多少の覚えがあり申《も》す。どうか御陣にお加えって下んせ」  耳に聴き覚えのある南部訛だった。その懐かしさに思い当たらぬうちに、番兵のかざす松明《たいまつ》が門外に佇む姿を照らし出した。  一瞬、俺は息を詰めたよ。あの吉村貫一郎が、俺たちの後を追ってやって来たと思ったのさ。だが、そいつは十六、七ほどの若さだった。 「おぬし、百姓ではなかろう。姓は何と言う」 「百姓ゆえ、苗字はござんせん。こたびの戦で、南部が朝敵の汚名ば蒙《こうむ》りましたのは無体でござんす。どうか御陣にお加えって下んせ」  月代《さかやき》は伸び、身なりは長旅に汚れ果ててはいたが、どう見ても百姓じゃあなかった。  俺はとっさにこう思ったんだ。こいつはたぶん、血気に逸《はや》った南部の若侍なのだろう。恭順を潔しとせず、藩命に背いてここまでやって来た。脱藩にはちがいないのだから、百姓の権兵衛などと名乗っているのだろう、ってな。  それ以上のことは考えやしなかった。むろん、|まさか《ヽヽヽ》ってやつもな。考えてもみろ、旦那。そんな|まさか《ヽヽヽ》なんて、あってたまるもんかい。  さて、そうこうしているうちに、誰かが知らせに行ったんだか、それとも騒ぎを聞きつけたんだか、城内からぞろぞろと人が出てきた。五稜郭はまったくちっぽけな砦だから、知らせに行くったって石段もねえ道をほんの一っ走り、大声を出しゃあ陣屋まで聴こえちまうのさ。  土方も来た。そのころの土方は髷もばっさりと落としちまって、黒羅紗の三つ揃いの洋服に革の長靴ってえ洒落っぷりだった。左右を松明で照らされながら、土方は拍車を鳴らし、手にした鞭をしならせて門に近寄ってきた。  そりゃあ、ひとめで大将とわかる貫禄さ。若侍はとたんに片膝をついて、凍った雪の上にかしこまった。 「陸軍奉行の土方さんだ。お名前ぐらいは知っておろう」  俺がそう口を添えると、若侍ははっと顔を上げた。 「こやつ、南部の脱藩らしいのですが、百姓権兵衛と名乗っております。いかがいたしますか」  二人は門柵を隔てて、しばらく睨み合っていたな。あんときの土方の顔は忘らんねえ。いかにも強情っぱりの大口をぐいと結んで、切れ長の目を、じいっと若侍に向けていたっけ。  それから、胸元で鞭をしならせながら土方は冷やかに言った。 「名無しの権兵衛に用はねえよ。帰りな」  若侍はきっぱりと言い返した。 「帰《けえ》る国はござんせん。参陣ば許されぬのだれば、これにて腹ば切り申《も》す」  二人はそれっきり、また黙って睨み合った。  ところで旦那。昔話をさんざお調べになったんなら、中島|三郎助《さぶろうのすけ》ってえ箱館戦争の豪傑をご存じですかい。  さいです。翌《あく》る五月の箱館総攻撃のとき、最後の最後まで降参せずに玉砕しちまった、千代ヶ岡陣屋の大将です。  もとは浦賀の与力だったんだが、二人の倅と一緒に幕府の軍艦に乗って箱館まで戦をしにきた。鶴みてえに痩せた丈の高い体に、鷲みてえな顔のついた年寄りでした。  俺たち若え者は、お道化半分に「じいさま」って呼んでた。「煮ても焼いても食えねえ年寄り」ってぐれえの意味だね。何せそのじいさまだけは、どうあっても終《しめ》えには死ななきゃおさまらねえ気がしてたんです。  土方と若侍の睨み合いに割って入ったのは、その中島三郎助だった。  霧の中で、藤の木の幹に背をもたせかけたままじっと若侍を見据えていた三郎助が、嗄《しわが》れた声で言った。 「腹など切るな。拙者とともに死ね」  まったくあのじいさまは、口数こそ少ないが面構えと居ずまいで物を言う人だったな。  西洋軍服のはだけた襟を毛の襟巻でくるみ、柿色の陣羽織を着ていた。腰の晒木綿《さらしもめん》に、四尺もありそうな長い刀を差してましたっけ。 「持ち場に戻る。馬引け。開門」  余分なことは何ひとつ言わねえ。従者の引いてきた馬にひらりと飛び乗ると、土方にせえ挨拶もせずに門を出てっちまった。  若侍はちょいととまどうふうをしたが、ひとこと「ごめん」と言い置いて、三郎助の後を追って行った。  その晩は榎本以下のお偉方が揃って、軍議か酒盛りでもしてたんだろう。たまたま千代ヶ岡の陣屋に戻る中島三郎助を、土方が送って大手にまできたところだったんじゃあねえだろうか。だとすると、三郎助と出くわしたのは、あの若侍の運命だったんだな。  箱館の戦じゃあ八百人がとこの旧幕兵が討死したが、降参して生き残ったのは二千九百人もいたんだそうだ。陥落するまで戦ったのは中島三郎助の率いる千代ヶ岡の台場だけよ。  神さんが、あの若侍を中島に引き合わせたんだろうか。そうまで一途に死にてえと願うんなら、望み叶えてやろう、って。 「御《おん》大将、お待ち下んせ。お供いたしあんす」  まだ幼さの残る甲高い声を上げて、若侍は霧の橋を渡って行った。  凍った雪に足を滑らせながら、股立《ももだ》ちを取った破《や》れ袴《ばかま》のふくらはぎが、女みてえに白かったっけ。妙なことを覚えているもんだがね。  後ろ姿を見送ってから、土方は溜息まじりに言ったもんさ。 「まったく、馬鹿につける薬はねえよな」  奴は、|まさか《ヽヽヽ》ってのを考えていただろうか。いや、やっぱりそうまでは思わなかったろう。  なあ、旦那。いくら何だって、そんな|まさか《ヽヽヽ》はあっちゃならねえよなあ。  口にこそ出さなかったが、土方は総大将の榎本やその取り巻きたちのことを、快くは思ってなかったんじゃねえかな。  箱館は土方にとっちゃ、死場所以外の何でもなかった。だが蝦夷地に活路を見出そうとしていた榎本は、市中の名主や商人から御用金を召し上げたんだ。五稜郭と箱館市中の間の一本木てえところに柵と関所をこさえて、旅人からは百六十文、住人たちからは二十四文の通行料も取った。  そればかりじゃあねえ。異国橋と弁天町にあった賭場からは寺銭を取り、神社の祭に店を張る屋台や見世物小屋からも揚がりの一割五分をふんだくり、築島の女郎にせえ月に一両二朱を納めさせたてえんだから、やるこたァまるで阿漕《あこぎ》なやくざ者だった。  生きようとする榎本らにとっちゃ、苦肉の策だったんだろう。だが、死のうとする俺っちにしてみりゃあ、そのやり方は後生が悪すぎた。  天朝様に弓引くつもりは毛頭ござらんってかい。だったらどうして松前まで攻め落としたんだ。宮古湾に乗りこんで官軍の甲鉄艦をかっぱらおうとしたんだ。  そういう戦の先頭に立たされていたのは、いつも土方だった。こちとら馬鹿は承知さ。五分の戦に持ちこんで、うまいこと和議にでもなったんなら、土方やほかの死にてえ連中を戦犯にすりゃあいいんだ。松前を攻め落としたのも、甲鉄艦をかっぱらおうとしたのも、みんな土方が勝手にやらかしたことだって。  差し出すにゃあもってこいの首だぜ。何せ薩長はその首ひとつを挙げにゃどうともおさまらねえってえ、新選組の土方歳三だからな。  そんで和議がなったなら、蝦夷地の開墾をしながら、もうひとつの日本をこさえちまう。外国から援助を受けて、榎本武揚が初代の大統領かい。  やつらの肚《はら》のうちは読めてたんだ。だが、どのみち死ぬほかはねえ俺たちにとっちゃ、そんなことはどうでもよかった。  京にいた時分も、鳥羽伏見の戦のときも、やつらの手口は同じだった。矢面に立ったのはいつだって新選組と会津と桑名で、幕府のお偉方は将軍様はじめ、誰も手を汚さなかったのさ。  そう思や、あの中島三郎助は偉い侍だった。浦賀の与力なんて、せいぜい二百俵かそこいらの木っ端役人だろう。そんな罪もねえ田舎与力が、どうして可愛い倅を二人も連れて、蝦夷くんだりまで死ににきたんだ。  徳川の恩顧に報いるためか。いいや、そんなわけのわからねえきれいごとで、てめえどころか二人の倅を道連れにすることなんてできるわけがねえ。  俺はな、旦那。そんなきれいごとせえ一言も口にしなかったあの頑固爺いの本心を、知ってるんだ。  だから、南部からひとりでやってきた若侍にとって、三郎助はけっして死神なんぞじゃなかった。  神さんがな、あいつらを引き合わせてくれたんだよ。  俺ァいっぺんだけ、中島三郎助と話しこんだことがある。  官軍が江差の北に上陸する前で、千代ヶ岡の台場は陣地固めに大わらわだったから、三月の末ぐれえのことかな。もっとも今の暦で言うんなら四月の末か五月のかかりってことになる。雪は遠い山肌に残るばかりの、うららかな午《ひる》下りだった。  土方の供をして千代ヶ岡の見廻りに行ったときだろうか。さもなくば五稜郭からの伝令に出たのかもしらねえ。  千代ヶ岡の台場はかつて津軽藩の砦が置かれていたので、津軽陣屋とも呼ばれていた。五稜郭から箱館の市中に向かう途中の小高い丘の上に真四角の土塁を築き、水濠もめぐらしてあった。  土塁の一辺はせいぜい八十間ぐれえだったから、それこそ小学校の校庭より小せえ。で、その土塁の上を六、七尺の板塀でぐるりと囲ってな、そんなものはいざ砲戦になりゃあ糞の役にも立たねえんだが、何せあたりは一木一草もねえような原野だから、目隠しでもせにゃ気が安まらなかったんだろう。  門は東西南北の四つ、本陣をまん中にして、兵隊の寝泊りする陣小屋がいくつも建っていた。今考えてもおかしいのは、どの掘っ立て陣屋のまわりも、それぞれ板塀で囲ってあったんだ。  あれァつまり、矢楯のつもりだったのかね。御大将の中島三郎助は長崎の海軍伝習所を出ていて、砲術は専門家だったのに、どうしてまた板塀なんぞにこだわったんだろう。まあ、幕末の侍ってえのは、そういうものだったってことさ。  だから狭い台場の中は、目にしみるぐれえの杉の匂いでいっぱいだった。おかげで俺ァ今でも、普請中の家の前を通りがかると、あの千代ヶ岡の台場のありさまを思い出しちまうのさ。  あの砦は白木の棺桶そのものだったな。  工事を見守る柿色の陣羽織の背中に向かって、俺は言った。 「中島さん、余計な心配かもしれませんが、万々が一ご子息二人が道連れじゃあ、家門が絶えてしまいます。せめて惣領の恒太郎君だけでも五稜郭に下げませんか」  三郎助は杖にした刀の柄頭《つかがしら》を両手で握ったまま、いかめしい顔だけを振り向けた。 「それがどうした」  家が絶えるってのは、その当座にァ大変なこってす。それがどうしたと言われりゃ、返す言葉もないやね。 「性根の腐り果てた徳川の禄など、もはや貰うつもりはござらん」  意外な返答に、俺は驚いた。中島父子は徳川に殉ずるために箱館まで落ちてきたとばかり思っていたからな。  三郎助はゆるりと振り返って、長い刀の鐺《こじり》で俺の肩をこつこつと叩いた。俺の羽織の肩には誠の一字を朱で書いた新選組の隊章が付いていた。 「拙者は父祖代々徳川の禄を食《は》んで参った御家人のはしくれじゃ。わが主家は貴公らの赤心を矢楯に使うた。土方君はじめ貴公らの末期《まつご》を看過することは、拙者にはでき申さぬ。さりとて与力ふぜいには何もできぬ。せめて腑抜けの将軍家になりかわり、冥土にお供つかまつる。子らも同じ気持ちじゃ」  俺はね、旦那。有難えの一言を口にするより先に、思わずこう、手を合わせちまったよ。ようやっと、徳川の御家人の口からそんな文句を聞けたんだ。嬉しかったな。 「中島さん。俺たちはたしかに幕府の矢楯となって働きましたが、赤心などというほどのたいそうなものは——」 「ないと申されるか」  と、三郎助は俺の言葉を遮って睨みつけた。 「赤心とは誠意の謂《いい》じゃ。去る禁門の変よりこの誠一字の旗を立てて働いた貴公らに、赤心のなかろうはずはない。赤心を楯に使うておのれの保身を計った幕閣は人間の屑じゃ。むろん腰抜けの将軍家も同じじゃ」 「公方様を人間の屑と申されますか」 「いかにも。誠には誠を以て応えねばならぬ。仁とはそういうものであろう。仁の道を見失うた者はすでに人間と呼ぶべきではなかろう。かろうじて人間の形をしておっても、屑にはちがいない。拙者は人間ゆえ、誠には誠を以て応える。さりとてできることといえば、貴公らの矢楯となって死することだけじゃが」  三郎助の言わんとするところは、あまりにも全《まつと》うだった。侍の見栄も、男の意地もありゃしねえ。ひとつっかねえ真実を、あのじいさまはきっぱり言ってくれたんだ。  かたじけない、と俺は何べんも言ったよ。死んで行った仲間たちのひとりひとりが俺の口を借りているみてえに、何べんも言った。  すると三郎助は、ふいに鷲のような顔を和《なご》ませて、にっこりと笑い返した。いい笑顔だったぜ。 「貴公に頭を下げられるいわれはない。拙者は人として当然のことをするだけじゃ。いわば、人として三度の飯を食ろうたり、糞をひったりするのと同じことじゃよ。もっとも、そうした当然のことすらできぬ人間が多すぎるのは、何とも情けない世の中じゃがの」  俺は、うららかな春の光の中で戦ぞなえに励む台場を見渡した。そこには、大将の三郎助と同じ志の侍たちが、土埃を上げて働いていた。  遠からず官軍は大挙してやってくる。箱館の市中が制圧されれば、五稜郭の防御正面にあたる千代ヶ岡の台場は、まっさきに血祭りに上げられるだろうと思った。  そのとき俺は、三郎助の手勢に混じって土を運ぶ、あの若侍の姿を見つけたんだ。 「名無しの権兵衛が、よく働いておりますな。いったい何者でしょう」 「さあて——」  と、三郎助も首をかしげた。 「少なくとも、百姓ではない。剣の腕前は相当のものじゃし、鉄砲も上手に撃つ。南部藩の名のある家の子息かもしれぬ。差料《さしりよう》は安定《やすさだ》と見た」  俺は少しほっとしたんだ。大和守安定といやァ、幕末の当節にもてはやされた名刀さ。あの沖田総司や、見廻組の佐々木只三郎が自慢にしていたほどの差料なんだから、吉村の倅が持っているはずはねえものな。売り買いするとなりゃあ、二百両はくだらねえ。  ——どうしたんだい、旦那。悪酔いでもしたんか。  俺ァ新選組の顛末《てんまつ》をしゃべくってるだけだが、気が進まねえのならよしにしとくぜ。  さ、冷てえ水でも飲みねえ。  官軍は四月の初めに、江差の北にある乙部《おとべ》の浜に上陸した。  べつに驚きゃしねえさ。来るべきものが来ただけだ。  そうとなりゃあ、榎本武揚も大鳥圭介もからきし頼りにならねえ。手前味噌じゃねえが、われらが軍神土方歳三のひとり舞台だあな。  奴はまったく戦がうまかった。天才とでも言うのかね、とにかく攻めるにしろ守るにしろ、やることなすこと無駄がねえんだ。  中山峠ってえところに陣地をこさえて敵を迎え撃ったんだがね、奴の言うなりに掘った塹壕《ざんごう》ってえのはふしぎなくれえに良くできていて、どの方向から敵が攻めてきても平気のへいざなんだ。  鉄砲の弾もやたらには使わせねえ。例の甲高い金切声で、「まだまだっ」と号令しながら、ぎりぎりまで敵を引きつけて一斉にぶっ放す。すると銃火は面白えぐれえに集中して、敵はばたばたと倒れるんだ。間髪を入れずに斬込み隊がどっと壕から躍り出て、浮き足立った敵を追い落とす。  そんな具合で、官軍は第二陣、第三陣と続々上陸してくるのに、中山峠の陣地をいつまでたっても抜くことができなかった。  豪気なもんじゃあねえか。官軍の大将は後の総理大臣黒田清隆、内務大臣品川弥二郎、司法大臣山田顕義って錚々《そうそう》だぜ。そいつらが束になってかかったって、土方ひとりの敵じゃなかった。  四月の晦日《みそか》に中山峠を撤退したのは、負けたからじゃねえ。背面の松前口のほうが抜かれちまったから、孤立しねえためには勝ち戦の陣地を撤収しなけりゃならなかったんだ。  五月の初めには、全部隊が五稜郭に戻った。いくら頑張ったところで多勢に無勢ってやつだな。  五稜郭の石垣に登れば、細長い半島がひとめで見渡せる。少し先に中島三郎助の守る千代ヶ岡の台場があって、その向こうに一本木の関門。岬のくびれたあたりからが箱館の町で、椀を伏せたような箱館山があり、その裾続きの港に弁天台場が突き出ていた。  俺たちの生きる天地が日ごとに狭まっていって、とうとうこれっぽっちになっちまったんだと思った。  鷲ノ木の浜に上陸してから半年、長え冬だった。その冬がようやっと終わって、雪が溶け、草が萌え、じきに夏が来るってのに、俺たちの居場所はひとめで見渡せるぐれえ、ちっぽけになっちまった。  その夏も、来やしなかったよ。  官軍の箱館総攻撃は五月の十一日だった。  奴らはまったく思いがけず、箱館山の裏側に上陸してきた。闇に紛れて軍艦から小舟を出し、断崖をよじ登ってきやがったんだ。  不意を突かれた味方は総崩れになって、半分が弁天台場に逃げこみ、半分は千代ヶ岡へとのがれた。わずか半日の戦で、箱館の町は占領されちまった。  港に突き出た弁天台場は官軍に囲まれて孤立した。  あんとき、土方はいってえ何を考えていたんだろうか。  たぶん、戦の結末を見切ったんだろう。もしかしたら軍議の席で、和議開城ってえ話が出たのかもしれねえ。ともかく奴は、面倒なことは何ひとつ言わずに五十人ばかりの兵を集めて五稜郭を出た。仙台の額兵隊と旧幕府の伝習士官隊から各一個分隊、それに土方側近の俺たち新選組さ。  まさかそれっぱかしで、箱館奪還などできるわけはねえ。軍使にしちゃあ、ちょいと大げさだ。  だが、縦列を整えて行軍を始めたとたん、俺にははっきりとわかった。土方は死にに行くんだってな。  なぜかってえと、答えは簡単さ。先頭を行く馬上の土方は、一分の隙もねえほど格好がよかったんだ。  黒|羅紗《ラシヤ》の詰襟服に真白な晒《さらし》の帯を締め、革の長靴はぴかぴかに磨き上げられていた。  黒煙を上げる箱館の町に向かってまっすぐに続く道筋には、民家も高い木もなかった。右手には箱館港、左は大森の浜までが見渡せる、だだっ広い野原だった。  歩きながら、真昼の夢を見た。  思い出したんじゃあねえよ。俺ァそんとき、土方の後ろ姿を見つめながら、夢を見たんだ。  壬生の夢さ。蜩《ひぐらし》がカナカナと鳴く、八木さんの屋敷の涼やかな奥座敷で、土方と俺と、もうひとりあの吉村貫一郎が、冷や酒を酌み交わしているのさ。  酒が入ると、吉村は決まってお国自慢を始めやがる。 (南部盛岡は、日本一の美しき国でござんす。西に岩手山がそびえ、東には早池峰《はやちね》——)  土方はからからと笑う。 (いいや、盛岡がどんなところかは知んねえが、日本一の眺めなら武州は日野さ。高幡《たかはた》の不動山に登りゃ、関東平野が一望だい。天下一の富士に、丹沢、大菩薩、雲取山に大嶽《おおだけ》、三峰《みつみね》山から筑波峰《つくばね》までがぐるりと見える)  吉村はいつも睡たげな二皮目《ふたかわめ》をぱちくりさせて言い返す。 (んだば土方先生。お前《め》さまはそんたなふるさとをば、なしてお捨てになりあんした) (そんなら吉村君。おめえこそどうして国を捨てたんだい) (それを語れば、長え話になり申《も》す) (そうだな。おたがい面倒臭え話はやめるべい)  土方は明石《あかし》の薄物の膝を抱え、吉村は藍《あい》の稽古着の胸をくつろげて、団扇《うちわ》を使っている。  二度と戻ることのない、壬生の夏だった。  一本木の関門で、土方は馬上に身じろぎもせずにいた。  狙い撃つ官軍の弾は、ばちばちと音を立てて柵にはじけた。俺は少し離れた草むらに身を伏せて、何を考えるでもなく、ただぼんやりと、ひとりの人間が自ら望んで死んじまうさまを見つめていたっけ。  何発くらっても、頑丈な道産子馬《どさんこうま》は踏みこたえていた。まるで馬上の主に弾が当たるのを待っているみてえだったな。  そのうち、ようやく一発が土方の腹に当たった。馬が両膝をがっくりと落として、土方はでんぐり返るみてえに前へと落ちた。  俺は草むらから這いずり出て、横たわる馬の体に土方を隠した。 「胸じゃあねえな」と、土方は傷口を確かめながら言った。「腹です」と俺が答えると、満足げに肯きやがった。  鉄砲傷ってのは、胸ならあんがい助かっちまうが、腹はいけねえのさ。腸《はらわた》をずたずたにしちまうからな。  土埃の中で、苦しげに弾む土方の体を、俺は添寝でもするように抱きかかえていた。 「降参しろ」  息の上がるとき、土方は俺の耳元ではっきりとそう言った。 「いやです」と俺は言った。そのとたん、空から滑り落ちるように、ごろりと俺を見つめた土方の目は、今も忘れらんねえ。命令じゃなくって、降参してくれと、奴は懇願していたのさ。榎本らと一緒におまえも降参しろと、頼むからそうしてくれと土方のうつろな目は言っていた。  俺たちは寄辺《よるべ》ない孤児だった。土方はそんな俺たちを引き連れて、途方にくれていたんだ。  銃声が已《や》むと、波の音だけが地べたを伝ってきた。俺は黒羅紗の軍服の胸に耳を添えて、その鼓動がゆっくりと遠ざかるまで、じっとしていた。  土方歳三の亡骸《なきがら》はその夜のうちに、五稜郭の隅に埋めたよ。  片流れの枝を張った赤松の根元さ。後ろの土手には桜と紅葉が植わっていて、洒落者の土方もここなら退屈はするめえと思ったもんだ。  土方の死は味方の戦意をすっかりそいじまった。その晩から五稜郭を脱走する者が出始めたんだ。榎本はそういう奴らをあえて捕えようとはせず、逃げたい者は逃げよとばかりに大手を開け、門番も引き揚げちまった。  五月十五日には弁天台場が降参した。だがそんな中でも、中島三郎助の率いる千代ヶ岡の台場は、頑として踏ん張っていたんだ。  百人足らずの手勢で、援軍すらも断わり、三郎助のじいさまは戦い続けていた。  旦那は夢ってのを見るほうですかい。  あれァふしぎなもんで、見ねえ人はてんで見ねえらしいね。俺ァ、ちょいとうたた寝をしたって、目が覚めるたんびカカァに話して聞かせるぐれえはっきりした夢を見るんだ。  眠りが浅いんです。若え時分から枕を高くして寝られなかったせいですかね。もっともこう齢を食うと、そんなものだって楽しみにはちげえねえんだけど。  ひとつだけ、忘らんねえ夢があるんです。あれァ、土方が死んで、港の弁天台場も降伏して、戦はいよいよ大詰めになった晩のことだった。  五稜郭の大手の持場で、番小屋の藁《わら》にくるまりながら妙にはっきりした夢を見たんです。  箱館の霧の中を、黒鹿毛《くろかげ》の馬に跨った吉村貫一郎が近寄ってくる。遠駆けをしてきたんだろうか、馬の体からは真白な湯気が立ちのぼっていた。  馬上の吉村は、鎖|帷子《かたびら》の上に浅葱色の隊服を羽織り、鉢金《はちがね》を打った白鉢巻を巻いている。脇には長い槍を抱えているんだ。 「おお、無事だったか」と、俺は吉村に駆け寄った。そして再会を喜びながら、奴を追い返そうとしたんだ。 「おぬし、何をしにきた。敵は明日にも城攻めにかかるというのに。帰れ、さっさと盛岡へ帰れ」  それくらい、あの男を死なせたくねえって気持ちが、まだ胸の中にくすぶっていたんだろうな。 「もう、近藤局長も沖田さんも、原田左之助も死んだ。ここの戦では、土方さんも、利三郎も勘吾も死んだ。生き残りの俺たちだって、明日にはみんな死ぬんだ。おぬしは南部に帰って、百姓をやれ」  白い息を吐く馬の轡《くつわ》を抑えて、俺は懸命に奴を追い返そうとした。すると、吉村は馬上からにっこりと笑い返して言った。 「わしは、戦ばしに参《めえ》ったのではねのす。心配は無用じゃ。地獄への行きがけに、どうとも気にかかってそこっと立ち寄り申《も》した」  やっぱり奴は死んじまってたのかと、夢の中でもがっかりしたもんさ。 「ならば、さっさと成仏せい。いったい何をしにきた」 「倅が——嘉一郎がここさおり申す。あの馬鹿たれが、南部の降参は納得がいかねと逸《はや》って、箱館さ参陣したのす」  心のどこかで、もしや、と思っていたことが、そんなふうに夢になったんだろうな。俺はその声を聞いたとたん、夢の中でも体が慄《ふる》え出すぐらい真青になった。  京にいた時分、嘉一郎という倅の自慢話は、それこそ耳にたこができるほど聞かされていた。その、てめえの命より大事《でえじ》な倅が、箱館くんだりまで死ににきたって、そりゃあ|まさか《ヽヽヽ》にしたってひどすぎる話だろう。 「のう。どこかで嘉一郎を見かけたなら、盛岡さ帰《けえ》って百姓ばせえと、説得して下んせ。たといどんたな大義ばかざそうと、あやつがこの戦にて死するは理不尽じゃ。ましてや、父たるわしは、死んでも死にきれねのす。お頼み申す。嘉一郎を生き永らえさせて下んせ」  吉村は戦装束に身を固めて、倅を守るために死出の旅から引き返してきたにちげえねえ。  お頼み申す、と馬上に頭《こうべ》を垂れ、吉村は霧の中に馬を歩ませて行っちまった。槍の穂先が白い闇の奥に、きらきらと輝きながらいつまでも消え残っていたっけ。 「開門、開門、御本陣より千代ヶ岡への伝令じゃ」  時ならぬ大声に夢は破られた。番小屋の前には、千代ヶ岡台場への伝令が、勇み駒をなだめていた。 「頑固者のじいさまにも困ったものだ。味方ばかりか敵までもが無用の戦はしとうないと撤退勧告をしておるのに、どうあっても陣屋が死場所と言い張って譲らぬ」  西洋軍服に韮山《にらやま》笠を冠った伝令はいまいましげに言った。 「総攻撃は近いのですか」 「しとうはない戦でも、死ぬまで戦うという台場があるのだから仕方あるまい。敵は夜明け前に千代ヶ岡を総攻めすると言うておる。それでも五稜郭への退路は開けてあるのだ」  東の空はかすかに白んでいた。伝令は五稜郭への撤退を命ずる、最後の使者にちがいなかった。 「ご一緒します。千代ヶ岡の御大将は良く存じておりますゆえ」  俺は馬を引き出して伝令の後に続いた。  吉村は死んでも死にきれずに、俺の夢枕に立ったんだろうと思った。あの百姓権兵衛と名乗った若侍がもし吉村の倅なら、俺は命と代えてでも、そいつを生かさにゃならなかった。  青臭え友情なんかじゃねえよ。男にァな、てめえの命と引き替えるものは、いくらだってあるんだ。  ねえ旦那。せんにも言ったけど、俺の箱館話は信じちゃなりませんよ。  官軍が乙部《おとべ》の浜に上陸してから一カ月余り、俺ァずっと土方のそばにいて、まんじりともできねえ夜が続いていたんだ。目方だって二貫目も減った。しかもどのみち勝てるはずのねえ、死にぐるいの戦だ。  そんな戦の大詰めに、俺が正気だったはずはねえ。まるごとそっくり夢だったと言われりゃあ、そうかも知んねえのさ。  俺が馬をせかせて千代ヶ岡の台場にたどり着いたとき、御大将の中島三郎助は陣小屋で、二人の倅と水盃なんぞ交わしていやがった。こう、丸太に腰を下ろして、火を囲んでよ。二人の倅ってえのは二十歳《はたち》ばかりの、父親によく似た若侍だった。兄貴のほうはまだ総髪に髷を結っていたが、弟は詰襟の軍服に断髪だった。  そのかたわらに、名なしの権兵衛もいやがったんだ。まるで、三郎助の三番目の倅みてえにな。  五稜郭からの伝令は、梨のつぶての三郎助をさほど説得するでもなく、榎本からの書状を手渡して、さっさと帰っちまったんだ。もっとも、腕組みをしたまま閉じた目も開けようとしねえあの頑固じじいの顔を見りゃあ、誰だって説得なぞする気にもならねえや。 「まもなく総攻めが始まる。おぬしも早々に戻られよ」  中島の上の倅が、父に代わって言った。 「いや、私の用事は御大将ではござらん」  俺は兄弟の末席にちんまりと座る権兵衛を睨みつけて言った。 「陣屋の手勢はわずかです。攻めこまれればたちまち斬り合いになりましょう。早うお帰りなされ」  下の弟が言った。中島父子は俺の目的を知っていると思った。 「どうやら貴公ひとりを迎えに参ったようじゃが、いかがいたす」  三郎助は目をつむったまま、権兵衛に問いかけた。炎にくべられた蝦夷松《えぞまつ》の切り株が、黙りこくる人々を叱るように、勢いよく爆《は》ぜた。  見つめれば見つめるほど、権兵衛の淋しげな横顔に吉村のおもかげが重なった。生き写しだと思った。俺はとうとうたまりかねて、大声を出しちまった。 「おぬし、吉村の倅だろう。吉村貫一郎の倅ではないのか。ここで何をしている。何をするつもりなんだ」  吉村貫一郎という名前を口にしたとたん、俺はつっ立ったまま泣いちまったんです。頭ん中はぐちゃぐちゃだったけれど、吉村貫一郎ってえあいつの名前はね、まるで念仏かお題目みてえにわかりやすくって、声に出すだけで有難かったから。  権兵衛の背中は、たしかに揺れたよ。だが、答えはなかった。俺は肩に縫いつけた新選組の袖章をむしり取って、権兵衛の目の前につき出した。 「俺はな、おぬしの父と四年も同じ釜の飯を食った。おぬしの父がどのような苦労をしたか、どんな思いで働き続けたか、俺は誰よりも知っている。あいつは、出稼ぎ浪人と呼ばれ、守銭奴と呼ばれ、それでもおぬしを生かそうとした。だのになぜおぬしは死のうとするのだ」  黙りこくる権兵衛のかわりに、三郎助が重い口を開いた。 「新選組は、まこと良く働いた。拙者は徳川の臣として、いまいちど厚く礼を申す。五稜郭に戻られたなら、この旨、新選組のお仲間にしかとお伝え下され」  やっぱり、三郎助は権兵衛の身の上話をつぶさに聞いていたに違《ちげ》えねえ。嗄《しわが》れた声は俺の思いを押し潰すぐれえ重たかった。  小屋の煙出しから、未だ明けやらぬ星明りが射し入っていたな。濠と土塁を越えて、敵の蠢《うごめ》く気配も伝わってきた。  そのとき、静まり返った陣屋の空に、薩摩訛の大声がこだました。  御台場の御大将に物申す。只今御親兵はじめ諸藩軍勢三百を以て御陣をお囲み申した。後詰めには一千余が控えおり申す。このうえ無益なる戦《ゆつさ》は本意にあらず、ただちに降伏恭順なされよ。  ごめん、と戸口で声をかけて、年かさの侍が陣小屋に入ってきた。 「搦手《からめて》を閉じます。お帰り下され」  俺は権兵衛を見据えたまま、「無用」と答えた。 「こやつが退《ひ》かぬのなら、戻るわけには参らぬ」  俺の肚《はら》は決まっていたんだ。こいつを殺すわけにはいかねえ。死ぬのならば、共に死ぬ。生かすも殺すも、とことん添いとげてやらにゃあ、冥土の吉村に合わせる顔がねえ。  白い息をゆっくりと吐きながら、三郎助はようやく目を開けた。鷲のように鋭い眼光が、じっと俺を見つめた。 「名にし負う新選組の強さ、ただいまよくわかり申した。土方君の戦上手にはほとほと感心しておったが、なるほど強いはずでござるな。貴公を道連れにしたくはないが、そうまで言うのならば致し方ござらぬ。思う通りになされよ」  三郎助は丸太から腰を上げ、帯に巻いた晒木綿《さらしもめん》に長い刀を差した。二人の倅も、権兵衛も立ち上がった。 「恒太郎、手勢はどれほど残っておる」  上の倅が答えた。 「五十ばかりでございます」 「さようか。あんがい残りおったな」  五十という手勢の少なさに、俺は驚いた。  千代ヶ岡の台場には百人以上の守備兵がいるはずだった。三郎助は逃げる者を止めやしなかったのさ。千代ヶ岡の戦は、五稜郭を守るための戦じゃなかった。死にてえ奴らが、死んで本懐をとげるためだけの戦だったんだ。  三郎助はおそらく、五稜郭の降伏を読みきっていたにちげえねえ。だから生きたい者は去れ、死にたい者はとどまれと言ったんだろう。  立ち上がったまま俺の顔色を窺っていた下の倅が、小声で言った。 「父上はなるべく多くの者を退がらせようと心を摧《くだ》きました。ご承知おき下さい」  断髪に西洋式の軍帽を冠り直した顔は青ざめていた。この戦が初陣《ういじん》かもしれねえと俺は思った。 「英次郎、余計な口をきくでない」  三郎助は倅をたしなめた。そのとたん、我慢ならなくなったんだ。俺は、黙って小屋から出ようとする柿色の陣羽織の肩を掴んだ。 「御大将、お待ち下さい。親が子を死出の道連れにするとは、人の行いに悖《もと》りましょう」  すると三郎助は、肩ごしに俺を振り返って、きっぱりと言った。 「おのれが死してわが子を生かそうとするは、ことほどさように簡単なことではないぞ。少なくとも拙者は、その侍ほど立派な人間ではない」  陣羽織を掴んだ手が、するりと滑り落ちちまったよ。三郎助の言った「その侍」が誰のことか、わかったからな。  ごめん、と口々に言って、二人の倅は陣小屋から出て行った。 「御使者は新選組のつわものゆえ、五稜郭には戻らぬ。搦手を閉めよ」  戸口で三郎助は命じた。  それからほんのいっとき、俺はあの名なしの権兵衛——いや、吉村嘉一郎と二人きりになったんだ。  旦那。あんたがどこで何を聞いてきなすったかは知らねえ。だがよ、そのうえでまたここを訪ねてきなすったのは、それなりの覚悟があってのことでしょう。  だったらそんないやな顔をなさらねえで、終《しめ》えまできちんと聞いておくんなさい。  忘れるも、聞き流すも、ものに書き留めて語り継ぐも、どうせ旦那の勝手なんだ。俺は覚えていることを、問わず語りに話してるだけさ。  ——二人きりになると、嘉一郎は、俺の背中に向かって、やっと口を開いたんです。 「お申《も》しわけなござんす。この期《ご》に及んで、父上のお仲間に迷惑ばかけてしもうて、お詫びの言葉もござんせん」  俺は振り向くことができなかった。細く頼りなげな声が、父親とそっくりだったんだ。  陣小屋に立ちこめる煙が瞳を刺して、俺は俯いたまま瞼をしばたたいた。 「ひとつだけ、お聞かせ下んせ」 「何だ」と、俺はようやく言った。 「父が、お仲間のみなさまから、出稼ぎ浪人と呼ばれ、守銭奴と呼ばれておったとは、まことにござんすか」  とっさに口から出ちまった言葉を、俺は今さら悔やんだ。吉村からの仕送りでその齢まで育った子にしてみれば、さぞかし辛かったろう。 「まことだ」  そう答えたとたん、嘉一郎はほうっと深い息を吐いた。そして、悲しみを噛み潰すような唸り声を上げた。 「十七の今まで、言うに尽くせぬさまざまのことがありあんした。死するに臨んで、それを口にするは、愚痴にござんす」 「言え」と、俺は叱るように言った。たとえ一言でもその言うに尽くせぬ苦労を聞いてやりてえと思ったんだ。 「いんや。わしは男ゆえ、死んでもおのれの苦しみは口にいたしやせん。ただただ、父が守銭奴などと呼ばれ申したのは、無念にてござんす。そのほかに言うべきことは何もござんせん」 「守銭奴のどこが悪い。妻子を食わすための守銭奴ならば、見上げたものではないか」 「じゃがわしは、その守銭奴の銭にてこの齢まで生き永らえ申しあんした。無念の上にも、無念にてござんす」  気丈な若者だった。またしばらく低い唸り声を上げたあとで、辛抱がたまらんというふうに言った。 「煙が目にしみ申す。泣いて目の煤《すす》ば洗い流しあんす。お見のがしえって下んせ」  嘉一郎は大声で泣いた。こいつはたぶん、生まれてこのかた、いっぺんも泣いたことなんざなかったんだろうと思うほどにな。  そっと振り返ると、嘉一郎は泣きながら竹竿に旗をくくりつけていた。うって変わった女みてえなか細い声で、奴は慄えながら呟いてたっけ。 「出立の折、御組頭様より頂戴した昇旗《のぼりばた》でござんす。二十万石はこんたな足軽ひとりになってしもうたが、わしは南部の武士だれば、たったひとりでもこの旗ば背負って戦い申す。二十万石ば、二駄二人扶持にて背負い申す」  煙の中にすっくと立ち上がった嘉一郎の背には、真白な晒木綿で、大きな対《むか》い鶴の旗印がくくりつけられていた。  五月十六日の戦のことは、ふしぎなぐれえはっきりと覚えているよ。  人間、てめえに都合の悪いことは忘れるっていうが、どうやら俺にとっちゃあの日の戦は、それほどいやなものじゃなかったらしい。こう、今もしっかりと、瞼の裏側に灼きついてるんです。  名なしの権兵衛——いや、もう吉村嘉一郎でようござんしょう。俺とその嘉一郎が陣小屋から出ると、本陣の前の広場には薦《こも》を被せた弾薬箱が山と積まれて、ありったけの鉄砲や弾薬が分配されていたんだ。守備兵たちはそれを抱えられるだけ抱えこんで、それぞれの持ち場に散って行くのさ。  死ぬと決まった兵隊の顔ってのは、いいもんですぜ。どの顔にも怯えるふうはこれっぽっちもねえんです。力が漲《みなぎ》っていて、何だかみんなが白い歯を見せて笑ってたみてえな気がする。生きてえか死にてえかと訊かれて、迷いもせずに死ぬと答えた五十人だあな。奴らは生き残ってこのさき何かをするってことを、ちっとも考えちゃいなかった。  会津、桑名、それに上野の山から落ちてきた彰義隊の生き残り。幕府の伝習士官隊てえのは、さしずめ今でいう士官学校の生徒でしょうか。思いがけなかったのは、竹に雀の旗印なんぞおっ立てた仙台藩の連中が多かった。家康さんは徳川の天下を揺るがすとしたら奥州の伊達政宗にちげえねえって、北の護りを堅くしたんだそうだが、とんだ見当|違《ちげ》えだったねえ。その徳川の世に最後までこだわったのァ、他でもねえ独眼竜の子孫たちだったてえわけさ。  齢もまちまち、生まれた国も出自もばらばら、だがどいつもこいつも、同じいい顔をしてやがった。身なりはダンブクロに詰襟の西洋軍服が多かったが、相変わらずの羽織袴もいた。  俺かい。俺ァ今でこそ新しもん好きのモダン・ボーイだがね、そのころはダンブクロなんぞ股座《またぐら》の具合が悪くって履《は》きもしねえ。着物の上に土方歳三のお下がりってえ陣羽織を後生大事に着ていたっけ。  台場のまん中には、しっかりした造作の本陣があって、まわりに新木《あらき》の陣小屋が六、七軒、ぐるりと囲むみてえに建っていた。その外ッかわは迷路みてえな板塀をめぐらした通路で、駆け上がりの土手になっていた。土塁の外は水濠だ。つまり、四方の門はどのみち破られて終《しめ》えには白兵戦になるから、一人でも多くの敵を倒しててめえも死ぬためにァ、そういうごてごてした陣地のほうが都合がいいってわけさ。  嘉一郎と二人して鉄砲を物色していると、羽織の上に白襷《しろだすき》をかけたよれよれのじいさんが、新式のスペンサー銃を選んでくれた。まだ銃身に晒《さらし》を巻いた、ぴかぴかの代物さ。  じいさんは俺の袖章に目を止めて、「おお、新選組の御方か」と言った。新選組のほとんどは港の弁天台場に入っていて、その前日に降参しちまってたんだ。「陸軍奉行の添役でした」と俺が答えると、じいさんはなるほど、というふうに肯いていたっけ。たぶん、弁天台場が降参したことも、土方が戦死したことも承知していたんだろう。 「拙者、浦賀奉行所同心、柴田伸助と申す。齢《よわい》すでに六十にてござるが、みなさまの足手まといにはなり申さぬ。以後、お見知りおきを」  丁寧な挨拶に、あたりの侍たちは苦笑した。お見知りおきも何も、俺たちの命はあと数刻しか残っちゃいなかったんだ。だが、深々と白髪頭を下げた袖に、「中島隊柴田伸助」と書かれてあった名前は、ありありと覚えている。  そう言やァ、そんとき俺は柴田のじいさんから妙なことを聞いたんだ。 「中島様は去る嘉永の年、浦賀にやってきたペルリ提督の黒船にまっさきに向かわれ、日本人として初めて応接をなさいました」、ってな。  意外だろう。あの中島三郎助てえ侍は、実は軍艦の操練に長じ、英語の通辞さえもできる開明派だったのさ。  そのとき、西に面した大手の土塁の上に、中島三郎助の朗々とした声が轟いた。 「やあやあ、遠からん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見よ。われこそは公儀浦賀奉行所与力、中島三郎助なぁり。こたびの戦にては千代ヶ岡台場守衛を相務め、手勢五十ともどもお相手つかまつる」  濠の向こうから、笑い声と喝采が起こった。だが、砦を守る兵たちは、誰も笑おうとはしなかった。  三郎助の誰たるかを知る部下たちが、それを笑えるはずはねえよ。ペリーの黒船にまっさきに乗り込み、長崎の海軍伝習所では榎本武揚のずっと先輩だった中島が、侍としての威儀を正して名乗りを上げたんだ。  俺はな、中島を偉いと思った。西洋の知識をどんなに学んでも、あの男は武士の魂を捨てなかった。濠の向こうの奴らは、中島が名乗った与力という身分と、大時代な口上とを笑ったんだろう。だが、俺たちはそんな中島を、心底偉いと思った。  考えてもみろよ、旦那。西洋の文明に魂まで奪われたんじゃ、御一新どころか日本ってえ国が消えてなくなるじゃねえか。  土塁上に砲門を並べた十二|听《ポンド》加農《カノン》砲が一斉に火を噴いたのは、たちこめる朝霧がほんのりと乳色に染まるころだった。  俺と嘉一郎はスペンサー銃と持てるだけの弾を抱えて、西側の土塁に駆け上がった。板塀に開けられた銃眼から覗くと、台場をびっしりと囲んだ敵兵が、横一列になって霧の中を前進してくるのが見えた。錦旗を押し立てた御親兵、薩摩、長州、伊予、肥後、津軽、筑後、松前、福山、徳山、備前——ああ、俺たちは日本中を相手に戦をするんだって、しみじみ思ったものさ。 「おぬし、鉄砲は撃てるか」  答える間もなく、嘉一郎はスペンサー銃に七連発の弾倉を叩き入れて、上手に撃ち始めた。しかも、尻をぺたりと地面につけて両膝で銃身を支える、みごとな座り撃ちの姿勢だった。  正面から押してくる敵は、前込めのミニエー銃を持っているみてえだった。だから撃つたんびに伏せて、弾を込め直していやがった。俺たちは用意しておいた弾倉を次々と替えて、奴らを片ッ端から狙い撃った。  土塁の上には、ずらりと水を入れた手桶が置いてあってな。銃身が焼けると柄《ひしやく》で水をぶっかけて、また撃ちまくった。  俺たちの並びには仙台の額兵隊が張りついていて、これもみんな後込めのスナイドル銃を持っている。スナイドルは七連発のスペンサーほど威力はねえが、それにしたって前込めのミニエーやエンフィールドの相手じゃあねえ。さんざんに撃ちかけているうちに、正面の松前と津軽の藩兵は旗を巻いて霧の中に退がってっちまった。  その間にも、中島三郎助が自ら指揮する十二听の加農砲は、土塁をびりびりと揺るがして火を吐き続けていた。西側の正面には大手の左右に二門、北と南の角に一門ずつ、そいつが散弾を込めてつるべ撃ちにぶっ放すんだからたまったもんじゃねえ。濠の向こうっかしは白い霧が真黒に見えるぐれえ、土煙りにまみれていた。  ほんのいっとき、砲声がやんだ。  霧は濃かったが、あたりはすっかり明るくなったので、俺たちは篝火《かがりび》を消し、使い果たした弾倉に弾を込めた。 「この鉄砲はてえしたものじゃ。秋田打入りではミニエーば持っており申《も》したが、弾込めの間に斬りかかられて、使いものにはならながったのす」  嘉一郎の笑顔は明るかったよ。こいつはきっと、秋田との戦でも立派な手柄を立てたんだろうと俺は思った。  言葉が見つからなくって、俺はひとこと「死ぬな」と言った。できることならこいつを抱きしめて、降参してえとまで思った。 「死ぬな」 「妙《ひよん》たなことをば言わねで下んせ。戦でござんすぞ」  嘉一郎とかわした言葉は、それが最後だった。  まるで薄物の幕が上がるみてえに、ふいに霧が晴れたんだ。  銃眼から外を覗くと、濠の向こうにそれまで見たこともねえぐれえたくさんの砲車が、ぎっしりと並んでやがった。真ん中に錦旗が立ち、右手には丸に十文字の薩摩の旗が、左手には長門三ツ星の旗が、高々と翻っていた。  俺たちが薩長と呼び続けていた敵が、とうとう正体を現わしたんだ。砲列の後ろには黒ずくめの兵隊が獣の群れみてえに犇《ひし》めいていやがった。  砲門はいっぺんに開かれた。とたんに大手の土塁が吹き飛んで、据えてあった二門の砲が濠に向かって崩れ落ちて行った。  土塁の上の板塀もあちこちで砕け散った。たちまち台場の中は土煙りに被われて、陣小屋からは火の手が上がった。  砲列のすきまから歩兵がどっと押し出してきた。とうてい撃ち倒せる数じゃねえ。奴らは剣付鉄砲を頭上にかかげて、鬨《とき》の声を上げながらまるで蟻《あり》みてえに濠を渡ってきたんだ。  砦の濠は深さこそ十分にあったが、幅は二間半ばかりしかなかった。飛びこんだ奴らはじきに土手に取り付き、丸太や梯子が渡されて刀を抜き放った連中が続々と濠を越えてきやがった。  それでも高い板塀は容易に越えられねえ。俺は箱ごと担ぎ上げてあったピストルを掴んで、土手に張り付いている敵を撃ち落とした。  喊声《かんせい》に振り返ると、南と北の門がいっぺんに破られて、ラッパの音とともに大勢の敵がなだれこんできた。こうなりゃもう、ひとっ所を守っていたって仕様がねえや。俺はピストルを両腰にぶっ差して、槍を手に取った。  本陣も、そのぐるりを囲む陣小屋も炎に包まれていた。真黒な煙のすきまに、槍をぶん回す柿色の陣羽織が見えた。  妙なもんだね。砦の中は敵だらけで、居場所なんてどこにもねえとなると、どうせ死ぬなら御大将と一緒に、って思うんだ。だから四方の土塁から味方が駆け下りたのは、追い落とされたわけじゃねえ。体が自然に、そっちへと向かって行くのさ。大将ってえのはそういうもんだよ。  ああ——何でこんなことを覚えてるんだろう。石くれだらけの曠野《あれの》の果てに、箱館山がくっきりと見えた。木も草もねえ大地の、燃えさかる砦の土手にだけ、黄色い菜の花がいっぱい咲いてたっけ。あれァ、そこを死場所と定めた誰かが、てめえのためにこさえた手向《たむ》けのお花畑だったんだろうか。  土塁の上はもう板塀も引き倒されて、外っかわからも内っかわからも、敵がぞろぞろと這い上がってきていた。  背中から斬りかかってきた奴が土手を転げ落ちて、俺を指さしながら「新選組だ、新選組だ」と叫びやがった。袖章が目に入ったんだろうか、俺ァそんとき、何だかこう、嬉しくなったんだ。  そうだよ。俺ァ新選組さ。京の巷を朱《あけ》に染めて、壬生浪《みぶろ》と怖れられた新選組の隊士だ。衆を恃《たの》んでここまで押してきたおめえらとは、そもそも物がちがわあ。誠一字の旗を背負って、鳥羽伏見から箱館まで戦い抜いてきた、俺ァ、壬生義士だ。  ピストルの弾が尽きると、俺ァ土塁によじ登ってくる奴らを、斬って斬って斬りまくった。  嘉一郎はてえしたもんだったぜ。一振りごとに腹の底から気合を入れて、敵をばたばたと斬り倒していた。もし千代ヶ岡が勝ち戦だったんなら、一番の手柄はまちげえなくあいつさ。俺は戦の間じゅう、そこにいるのが嘉一郎じゃなくって、おやじの吉村貫一郎のような気がしてならなかった。それぐれえ、あいつは姿形も、剣の筋も、気合せえも父親にうりふたつだったんだ。  俺ァ、この胸に槍をつけられて土塁の外っかわに転げ落ちた。  斬り落とした槍の穂先を突き刺したまんま水濠の中にぷかぷか浮いて、これで終《しめ》えだなと思った。  気を喪《うしな》うまでぼんやりと、菜の花の土手を見上げていたっけ。  橙《だいだい》色に明け染める朝の光の中に、対《むか》い鶴の昇旗がいつまでも翻っていたよ。  あいつはきっと、旗から抜け出した二羽の白鶴に守られて、極楽浄土に旅立ったんだろうな。  俺が湯ノ川の仮病院で目覚めたのは、翌《あく》る日の夕方だった。  新選組の伍長だった強力《ごうりき》の島田|魁《かい》が、虫の息の俺を背負って湯ノ川まで運んでくれたんだ。五稜郭は戦わずに降参したと聞いたとき、俺は声を上げて泣いたよ。やっぱしそういうことだったんだなって思った。  悔やしかったんじゃあねえ。死ぬと決めて死ねなかったてめえが、情けなくって仕様がなかったんだ。  だってそうだろ。赤穂の四十七士はみんな死んだんだ。義士が生き残ったら、講談話にもならねえお粗末じゃあねえか。  千代ヶ岡の台場では、四十二人がみごとに討死したと、島田は大きな体を震わせてさめざめと泣いた。  俺は何日もたたぬうちに、戸板に乗ったまま津軽へと運ばれた。それから秋までは弘前の寺で謹慎し、再び箱館に戻されて、ご赦免となったのは傷もすっかり癒えた翌る年の春のことさ。  誰にも、嘉一郎のことは口にしなかった。あいつはやはり、南部からやってきた百姓権兵衛だったと思うことにした。  それでいいんじゃねえのかい。そんな話を生き残った仲間に聞かせて、むりに泣かせることもあるめえ。  ご赦免になったその足で、俺は武州の日野に行った。土方を葬った五稜郭の土饅頭の土を持ってな。  どこも訪ねやしねえよ。土方の最期の有様を親類や知り合いに伝えるつもりなんざなかった。ただな、あのええかっこしいの男を、日野の百姓に戻してやりてえと思ったんだ。五稜郭の雪の中に埋まったまんまじゃ、あんまし切ねえじゃあねえか。  高幡のお不動様の裏山に登ると、あいつが自慢していた通りの景色が目の前にあった。  富士山に丹沢、大菩薩、雲取山に大嶽、三峰山から筑波峰《つくばね》までをぐるりと見渡すただなかに、多摩川と浅川が合わさる、豊かな天領の眺めだった。  俺は五稜郭の土を空高々と撒き散らし、それから髷の髻《もとどり》を落とした。  とうてい、土方歳三みてえな格好のいい生き方はできなかった。だったらいっそのこと居酒屋の亭主にでもなって、思いきり格好の悪い生き方でもするかと思ったんだ。  かくかくしかじか、俺の話てえのはそんなところです。  気が済んだかい、旦那。ぼちぼち終電の時間だぜ。國府鶴はどうやらお口に合わなかったらしいね。  さあて、雨もやまねえようだし、暖簾《のれん》を下げて旦那の残りもんを寝酒にさせていただきやす。  ありがとうございやした。気が向いたら、また寄っておくんなさいよ。  したっけ、昔話はもう聞きっこなしだぜ。 [#改ページ] [#ここから1字下げ]  母上様。  嘉一郎は一足お先にあの世へと参《めえ》りあんす。逆縁の不孝をば、お許しえって下んせ。  母上様。  去る年の秋田打入りに際しては、幼き弟妹ば残して戦陣に加わらんとするわがままばお許し下さり、はたまたこたびは二度目の出陣をも病の床よりお見送り下さり、お蔭様にて嘉一郎は、ようやく武士の本懐ば遂げ申した。  十七年の間、かたときも離れずお情けの限りば賜わりながら、何ひとつ孝行もできねがった嘉一郎を、どうかお許し下んせや。  母上様。  わしは今、うつらうつらと蝦夷地の空を仰ぎ見ておりあんす。  夜来の霧もすっかり晴れ、破れた御台場の上には、真青な空が豁《ひら》けておりあんす。  若草の戦《そよ》ぐ大地の涯《はて》に、勝鬨《かちどき》と太鼓とラッパとが遠ざかって行ぎあんす。  最早《もは》、奴ばらを薩長なんぞと呼ばわるのは、良《よ》ぐはねのす。明治の新しき時代ば護る、立派な天朝様の軍隊にてござんす。  母上様。  嘉一郎がいまわのきわに及んで、なしてこんたなことをば考えたか、お聞き下んせ。  今しがたわしが持場にて接戦のあげく撃ち倒され、この土手に俯《うつぶ》しておりましたところ、やがて砲声も已《や》み、戦場検分が始まりあんした。わしを抱き起こして下さんしたのは、西洋軍服にサーベルば吊った、薩摩の将校でござんした。  わしの顔ば膝に抱いて、その御方は武人らしからぬやさしいお声で訊ねて下さんした。  お前《め》さん、死ぬるか、生くるか、と。  薩摩訛はよぐはわからねがったども、たしかそんたなことば仰せられたのす。  武士の情けにて介錯ばお頼み申す、とわしが言うと、その御方は髭面にはらはらと涙ばこぼされて、お前さんのごとき少年ば手にかけるには忍びんと、ご自分のピストルばわしの手に握らせて下さんした。  軍帽ば脱ぐと、その御方の頭はくりくりの丸坊主でござんした。そして、泣きながらこう仰言《おつしや》ったのす。  わしはこたびの戦の指揮ばした薩摩の黒田じゃが、榎本はじめ新時代ばこしらえる有為の人材ば、ひとりでも多く助命願おうと、この通り頭ば丸めた。お前さんもどうか御国ば恨まず、死して護国の鬼となって下んせ。お頼み申す、と。  恨みなぞねがんす。すたっけァわしは、一言だけお詫びば申しあんした。  お申《も》さげながんす。わしは、天朝様の軍隊に弓ば引き申した、と。  その御方は深く肯くと、わしの背から泥まみれの昇旗ば引きはずして、胸の上さ掛けて下さんした。  部下たちとともに西洋式の敬礼ばして、立ち去りぎわにこうも言うて下さったのす。  南部の士魂、しかと見届け申した。御家は断じて賊軍にあらず、佐幕にして勤皇の雄藩にてござる。  とたんにわしは、体じゅうの力が脱けてしもうた。  のう母上様。こればかりは褒めて下んせ。  吉村嘉一郎は卑《いや》すい小身者《こもの》なれど、二駄二人扶持にて南部二十万石をば、たしかに背負い申したぞ。  母上様。  嘉一郎はいま、御台場の土塁より駆け下る勾配に、大の字になって寝ておりあんす。  痛みも苦しみもなぐ、涼やかに吹き過ぎる風の行手には、遥かに箱館山が望めあんす。  あたりは一面のお花畑で、わしは黄色い菜の花の褥《しとね》に、ふっくりとくるまれて寝ておるのす。  こんたな必死の砦に、なして菜の花畑がござるのか、その種明かしばお聞き下んせ。  千代ヶ岡の御台場は冬のうちに陣構えばおえ、あとは戦を待つばかりにてござんした。もとより死するを覚悟の砦だれば、御大将は調練などあえて致さず、おのおの好きなことをして英気ば養いおれと、お命じになっておられたのす。  日がな一日酒ば酌む者あり、書物ば読み耽る者あり、あるいは寄り集うて相撲や博奕《ばくち》に興ずる者あり、いやはや呑気な死に待ちのひとときでござんした。  したども嘉一郎は十七の若輩者だれば、英気の養い方ば知り申さぬ。そんであるとき、春までにみなさまの腹に入《へえ》るような作物の種がねえがと、湯ノ川の百姓家さ訪ねたのす。  御大将が仰せらるるには、敵はすでに津軽にて陣立てば致しおるゆえ、戦は雪解けの四月じゃろうということじゃった。蝦夷地にはそんたな都合のええ作物はねがった。  砦のお仲間は、みなさまわしを「百姓権兵衛」と呼んで、可愛がって下さんした。言わでもの愚痴も、わがことのごとく聞いて下さんした。  嘉一郎は武士の倅だども、雫石の伯父上に野良仕事ばたんと教わっておりあんす。砦のお仲間衆は御家人様や仙台の立派な侍ゆえ、鋤鍬《すきくわ》などお使いにはなりやせん。んだからわしは、せめてのご恩返しに、手作りの芋でも豆でも食うていただきてえと思うたのす。  百姓に無理ば言うて、菜種《なたね》ばいただいて参《めえ》りあんした。菜の花だれば春に先駆けて育ち、四月五月には飯の菜《さい》にも、粥《かゆ》や汁の実にもなり申そう。曠野《あれの》の景色を慰むる、美しい花も咲き申す。  母上様。  わしのこさえた菜の花は、こんたにきれいに咲きあんした。  大地の恵みとは、まこと有難えものでござんすな。  飯の菜になり、粥や汁の実となり、そんで今は、死にゆく嘉一郎の褥《しとね》に敷かれて、傷ついた体ばふっくりとくるんでおるのす。  頭《こうべ》をめぐらせれば、右も左も、錦のごとき金色《こんじき》の濤《なみ》にてござんす。  母上様。  母上様。  わしのこさえた菜の花は、こんたにきれいに咲きあんした。  この声聞こえたなら、どうか野良の伯父上にお伝え下んせ。嘉一郎は蝦夷の曠野に、雫石の里と同《おんな》し菜の花畑ば、みごとにこさえあんした、と。  母上様。  戦にて死するは武人の本懐ゆえ、嘉一郎には怖れも惑いも、痛み苦しみも、何もござんせん。むしろ戦ば娯《たの》しみ、傷つき倒れることをば快楽《けらく》とすら思うて死に申す。  したけんど母上。蝦夷下りの道中は、難儀にてござんした。  宮古か八戸の港から船こさ乗れば早かろうが、わしは恭順した南部領ば脱走して、箱館さ参《めえ》るのであんす。ひそかに奥街道ばたどり、海の向こうに蝦夷の地が見ゆるという、御領内のさいはてまで歩くほかはねえと思い定めあんした。  長坂の峠で御組頭様とお別れしたのちは、渋民、沼宮内《ぬまくない》と夜詰めで歩き、奥中山の峠ば越えて一戸《いちのへ》まで足を延ばしあんした。  追手などあるはずもねえが、御城下までわしを追うてきた妹の泣き声が耳こさこびりついて、十五里の雪道ば一気に歩み続けたのす。  さすがにその先は、息が上がり申した。盛岡から三戸まで二十三里、野辺地《のへじ》までは三十と九里の、雪の難行でござんした。  母上様。  嘉一郎はそこで、生まれて初めて海というものをば見あんした。  話には聞いており申したが、いやはや、何とも言葉にはつくせぬ、すげえものでござんすな。わしはしばらくの間、村はずれの浜に、寒さすら忘れて立ちすくんで居り申した。  考えてもみりゃあ、あの北上川の流れを太古より呑み続けておるのじゃから、広いはずでござんす。  浜に沿うての田名部《たなぶ》街道は、地吹雪に悩まされつつ歩み、田名部の村から峠を越えれば、御城下を五十余里も離れた、大畑の浜でござんした。  蝦夷地が望めあんした。  母上様。  その遥かなる山影は、苦行ば重ねてそこまでたどり着いた嘉一郎の目には、極楽浄土に聳《そび》ゆるという、須弥山《しゆみせん》に見えあんした。そこさ行けば、最早《もは》、苦労は何もねえのじゃと思いあんした。  大間の岬にて漁師の舟っこさ雇い、蝦夷地の湯ノ川の浜に着きあんしたのは、盛岡を発った夜の満月が、半ばを欠けて痩せ始めた晩のことでござんす。  母上様。  嘉一郎は櫓《ろ》ば操りながら言うた、漁師の言葉が忘られねのす。  お侍様ァ、わしらも南部の領民には違《つげ》えねえども、天下がどうなろうと、今日も明日も変わりはねがんす。箱館さ渡ってもう一戦などと、難儀なことでがんすなァ。  浜に上がったわしの背に向こうて、二人の漁師は、なんまんだぶと手ば合わしており申したが、べつに有難えわけではねがんすな。先送りの念仏でござんすべ。  そう思えば、武士とは返《けえ》すげえすも、難儀なものにてござんすな。  母上様。  嘉一郎は御組頭様より大和守安定の大業物《おおわざもの》ばいただき、御藩祖南部信直公より伝わる御家紋の昇旗までいただき、今また死するに臨んで、敵の御大将よりピストルば賜わり申した。  思えばこれは、畏《かしこ》くも明治の天皇様より御下賜いただいた、有難えお宝にてござんすな。  天朝様は嘉永五年のお生まれにて、嘉一郎のひとつ齢上にてあらせられあんす。  叶うことなら、どんたな御方でござるのか、ひとめ御龍顔ば拝みてえものじゃ。  決心がつかずに、胸前にてピストルば弄《もてあそ》ぶうちに、そんたな途方もねえことば考え申した。  母上様  嘉一郎は  愚痴ば言い申す  誰にも聞こえぬ独り言ゆえ  お許しえって下んせ  母上様  嘉一郎は母上様はじめ御組頭様や  みなみなさまに  嘘ばつき続け申した  今さら本心ば語るは  愚痴にござんす  したけんど  わしとて人間じゃから  本心ば吐かねと  つろうて  くやしゅうて  天朝様からいただいたピストルの  引金も引けねがんす  どうか  お聞きえって下んせ  母上様  嘉一郎がここさおるのは  何の理屈もねのす  わしは  父上のことが  大好きでござんした  誰よりもやさしゅうて  誰よりも強え父上が  わしは  好きで好きで  たまらねえぐれえ好きじゃった  その父上が  わしらのために脱藩ばなさり  銭こば送って下さんしたのは  心より有難えと思いあんす  したどもわしは  盛岡ばお捨てになったときの  父上のお姿が忘られねのす  わしは  大好きな父上を  ひとりぽっちで北上川さ  渡してしもうた  すたけァわしは  大好きな父上を  もいちどひとりぽっちで  三途の川さ渡すわけにはいがねがんす  ばかもの  と追い返されても  わしは大好きな父上と  ともに三途の川ば  渡りてえのす  母上様  嘉一郎は  そのほかに何ひとつとして  考えてはいねがった  母上には弟妹がおるが  父上には誰もおらねのす  こんたな本心は  決して口には出せねから  わしは  さまざまの嘘ば繕い申した  みなみなさまを  欺き申した  きれいごとばかり言うて  母上様も  弟妹たぢも  御組頭様も  友も  皆欺き申した  父上の御最期ば耳にしたとき  腹ば切ろうと思うた  いんや  松の枝で首ばくくろうとも  川さ嵌まろうとも思いあんした  したけんど  そんたな死に様では  母上や弟妹たぢが笑われる  んだからわしは  秋田打入りにて討死ばいたそうと思い  果たせずにまた  蝦夷地の果てまで  参りあんした  わしの本懐とは  そんたなことにてござんす  母上様  最期の最期に  ひとっつだけ  嘉一郎は  父上と母上の子でござんす  そのことだけで  天下一の果報者にてござんした  十七年の生涯《しようげえ》は  牛馬のごとく短けえが  来世も  父上と母上の子に生まれるのだれば  わしは  十七年の生涯で良《え》がんす  いんや七たび  十七で死にてえと思いあんす  母上様  どうか来世にても  父上と夫婦《めおと》になり  嘉一郎ば  産んで下んせ  お願えでござんす母上様  んだば  母上様  母上様  母上様 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  仙台からは、さすがに三等車の車内もがらんといたしますね。  午前九時二十八分発。順調に走れば、盛岡には午後四時一分の到着です。途中、吹雪で立往生などせぬよう祈りましょう。  この空模様ならばまあ、大丈夫とは思いますがね。とかく北国の天候は変わりやすい。  しかし、私の育った越後の雪に比べれば、ずっと始末はよろしいはずです。同じ一尺でも、一尺分の重みはまるでちがうのです。  それはですな、含有せる水分のちがい。  日本海側の雪、ことに越後以西の雪は湿っておるので比重が大きい。その点、東北や北海道の雪は乾燥した粉雪ですから、軽いのです。  ところが、その厄介な湿り雪というやつこそが、越後の米どころたるゆえん。豊かなる雪解け水は越後米の母というわけです。  ああ、いいお日和《ひより》ですね。  盛岡までの六時間半、じっくりと自然を観察させていただきましょう。私の仕事は、もう始まっているのです。  上野から仙台まで急行列車で八時間。用もないのにわざわざ一泊して、鈍行に乗りかえた理由は、つまりそれです。  客車は三等に限ります。行商人やお百姓の生の声を聞けますからね。  ほら、背中の声に耳を澄ましてごらんなさい。暖かな冬を嘆いているでしょう。雪が少ない、と。  こういう陽気を喜んでいるのは、都会人や、一等二等の客だけです。米を作る人、売り買いする人の声に耳を傾けるために、出張や講演旅行の折には、必ず三等車に乗ることにしているのですよ。  それはそうと、なかなかお会いする機会が作れず、失礼いたしました。ようやくご要望に添うことができましたのは、何と都落ちの列車の中。しかも仙台駅のプラットホームで待ち合わせとは、いかに多忙とは申せ、常識にかかりませんな。  お許し下さいましよ。  とりあえず、お名刺を。  いささか申し遅れました。吉村貫一郎でございます。  名刺には「東京帝国大学教授」と、たいそうな肩書きが付いておりますが、大学は先年退官いたしました。「農学博士」だけではいささか間が抜けておりますから、古い名刺をいまだに使っておるのです。  いわば、詐称ですな。  構わんでしょう。老化には人それぞれ個人差があるのに、一律の定年退官というのはそもそも合点がいきません。気持ちは今も現役の帝大教授のつもりです。  有難いことには、退官と同時にあちこちの大学やら農学校からお誘いをいただきましてね。この齢になりますと、教え子たちが全国に散っておるものですから。  しかし、弟子たちの情けに甘えたくはない。彼らの頭ごしに飛び越えて、教壇に立つのもいいことではありません。かと言って、隠居をするにはいささか早い気もいたしますし、自分の学問もまだまだ究めていきたい。  私は、「米馬鹿先生」と異名を取るほど、稲の育成と品種改良のほかには、何も知らないのです。私から米を取り上げたら、何も残らない。  さて、どうしたものやらと悩んでおるところに、このたびの話が舞いこんできたという次第なのです。  明治三十六年に開校した、盛岡高等農林学校。そこで教鞭を執《と》ってくれまいか、と。  承諾いたしました理由は三つあります。  まず第一に、比較的新しい学校で、私の教え子がいない。これはいいことです。  第二に、厳しい気候の土地で、私の改良した品種の実力を試すことができる。おそらくは、さらなる研究課題も生じましょう。これもまた、米馬鹿としては願ってもないことであります。  そして第三の理由として——  盛岡は私のふるさとでした。  その町の記憶はありません。しかし、私はまぎれもなくその町に生を享《う》け、八歳の冬までを、郊外の雫石という村で過ごしました。  吉村貫一郎という名前は、母親が思いのたけをこめて付けてくれた、見知らぬ父の名と同じです。  私は父親から、この名前をいただきました。  一筋を貫く。  子供の時分より、この名はたいそう気に入っております。雨風にも、日照りにも嵐にも負けぬ稲を作る一筋の道を、私は馬鹿のように貫いて参りました。  今こうして、鞄いっぱいの籾《もみ》を提げてふるさとに帰るのは、私のさだめのような気がしてなりません。  私の人生を語ればよろしいのでしょうか。  はてさて、他人様《ひとさま》にお話しするほど上等なものではないが、困りましたな。  稲の話ならば、三日三晩でも語りつくせぬのですがね。  家内は東京の帝国大学の研究室におりましたころ、本郷の下宿の娘でして、子は女ばかりが三人——ああ、そういう話ではないのですか。もっと昔の記憶から、と。  参りましたな。どうやら安うけあいをしてしまったようだ。生い立ちの記などお話しするつもりはございませんよ。稲の話ではいけませんか。それでしたら、私の自叙伝などよりはるかに面白い話を、いくらでも語れるのですがね。  やれやれ。こうなると、鈍行列車が悔やまれますな。まだ松島の手前ですか。  生年は文久二年、|壬 戌《みずのえいぬ》。今年で算《かぞ》えの五十四になります。  南部盛岡の生まれ、というほかに、出自の詳細については知りません。  悪い時代のことですから、おそらく語り聞かせぬのが周囲の配慮だったのでしょう。べつだん知りたいと思ったこともありませんし。つまりそれくらい、私は養い親の元で何不自由なく育ったのです。  少々複雑な話ですが、私は養子に貰われたわけではありません。吉村の姓を名乗っております通り、養子同然に育てていただいたのです。  養い親は、中越地方に一千町歩の田畑を所有する豪農、江藤彦左衛門と申します。その名前ぐらいは、たぶんあなたもご存じでしょう。越後の江藤家といえば、米相場を左右するほどの資産家です。  むろん、その江藤家を生家だと思っております。養い親はすでに亡くなって、私にとっては兄同然の九代目彦左衛門が跡を継いでおりますが、盆と正月には今も欠かさず帰省しています。  ですから、義兄に対しては、このたびの盛岡行きについて少々気が咎めるのです。心の広い人物なのでどうとも思うはずはないのですが、何となくうしろめたい気がいたしましてね。  私が農学を志し、稲の研究に生涯を捧げようと思い立ったのは、そうした方法でしか大恩に報いることができないと考えたからでしょうか。養い親の江藤彦左衛門は何ひとつとして私の未来を定めませんでした。  好きな学問をせよ、と。信じた道を歩め、と。ただし軍人だけはいけない、と。  そう言われて育ったのですが、どういうわけか他の学問は思いつかず、お里まる出しの農学者になってしまいました。もっとも、「米馬鹿先生」の開発した稲は、今や越後の田を賑わしておりますから、多少なりとも恩返しのできたことは幸いだったと思っております。  実の姉は知っています。  自分の人生を語るのは初めてと言ってもいいくらいなので、順序の整理ができません。とりあえずは、その姉のことからお話ししましょう。  あれはたしか、東京農林学校が帝国大学農科大学と改称された年のことでしたから、明治二十三年の暮であったと思います。  本郷の下宿に、ひょっこりと見知らぬ人々が訪ねてきたのです。  最初に玄関口に立ったのは、立派な大島の着物に毛の襟巻を巻いた、一目で大貫禄のお貸元に見える男でした。  ちょうど日曜日で、下宿には暇な学生がごろごろしていたのですが、「ごめんなすって」と呼ばわって二階の窓を見上げたその仁王面には、みな一斉に震え上がったものです。やくざの掛け取りか何かだと思ったんですね。いったい誰に用事なんだろうって。  学生は五、六人でしたか、その下宿人たちの中では、教官の私は寮長みたいなものです。下宿の娘——つまり今の家内との縁談も持ち上がっていたころのことでしたし、ともかく私が応対に出ねばならなかった。 「少々お待ち下さい」と、および腰で袴をつけておりますとね、やくざ者はドスの利いた声で言った。 「帝大農科の吉村先生のお宅は、こちらでござんすか」  背筋が凍りましたですよ。思い当たるふしは何もないんですけど。  で、羽織まで着て玄関に下りて行った。学生たちはみな真青な顔を廊下につき出してましたっけ。 「吉村は私ですが、何か」  神妙に膝を揃えてそう言ったとたん、やくざ者は敷居の向こうで、ふいにがっくりと腰を屈《かが》めたのです。お懐かしゅう、と言ったなり、あとは言葉にならなかった。  しかしね、私は彼が誰であるか、すぐにわかったんです。遠い記憶を、たちまち喚起したのですよ。  ああ、私を越後まで送り届けてくれた人だって。佐助という名前も、ちゃんと覚えていました。 「ちょいと出てきておくんなさい」  言われるままに路地へと出た。下宿屋の外は菊坂に通じる狭い石段で、板塀に囲われた先に、洋服を着た小柄な紳士と、背のすらりと高い女の人が身を寄せ合って立っていました。  ふしぎなものですね。路地の石段の上からその二人の姿を見たとき、私にはわかったんです。 「ねえさん、ですか」  姉はよほどびっくりしたんでしょうか、自分より背の低いつれあいのうしろに、身を隠そうとした。 「覚えてらっしゃるんですかい」  と、佐助さんが訊ねた。 「いえ。妙ですね、ほとんど記憶にはないのですが」 「おみつさんでござんす。おつれあいさんは、下谷の鈴木医院の、大野千秋先生で」  二人の姿が正視できずに、私は路地の小さな空を仰ぎました。  信仰心は持ち合わせないのですがね、そのときばかりは、人知の及ばざる大きな力の存在を、信じぬわけにはいかなかった。  冬空に真綿のような雲が浮かんでおりましたよ。  私が二十九、一つ齢上の姉は、三十でしたろうか。まるで百合の花のように清楚な、美しい人でした。  狭い石段を降りて行くと、大野先生は姉の背中を私に向けて押しました。姉はいくらか怯えるような表情で、私を見つめていました。  そのとき、また妙なことが起きたんです。私自身、思いもかけぬことが。  体が姉のかたわらをすり抜けたと思うと、私は大野先生をがっしりと抱きしめていたのですよ。どうしてそんなことをしたのかはわからない。目に見えぬ力が、私にそうせよと命じたような気がします。  ありがとうございます、と私は何度も言った。 「学問は、何を」  私の肩に、伸び上がるようにして顎を載せ、大野先生は訊ねました。 「米を、作っています」  と私は答えました。 「米といいますと、稲ですか。農学ですね」  意外そうに、先生は言った。 「百姓家に育ったもので、ほかの学問は考えつきませんでした」  先生の洋服からは消毒の匂いが立ち昇っていました。下谷の鈴木医院は、貧しい人々にすぐれた医術を施すことで有名な病院です。そのころ界隈で知らぬ者はなかった。  何という清らかな匂いだろうと私は思いました。 「僕は大学に行けなかったので、済生学舎に学んで医師免許を取りました。しがない町医者ですけど、精いっぱい頑張っています。君のねえさんには苦労ばかりかけてしまって」  とたんに声を詰まらせて、先生は私の肩を揉みしだきました。そしてふいに、ふりしぼるようなお国訛で、こう言ったのです。 「今のわしには、これが精いっぺえじゃ。許して呉《け》ろ」  私ではない、もっと近しい誰かに、先生は詫びているような気がしました。  今こうして思い出しても、何だかお伽話のような、ふしぎな記憶です。  大野先生と姉は、どうやら奉天に骨を埋めるつもりですな。  はてさて、このたびの盛岡行きをどう伝えたらよいものか、気に病んでおります。私はひとりでお里帰りをするわけなのですから。  それにしても、この冬は暖こうございますな。  仙台の先は一面の雪景色だとばかり思っておりましたのに、田の畔《あぜ》に少しく白いものの残るばかりで。  おやおや、松島とは言ってもここはずっと内陸だ。小駅の名称だけでは、旅行者はみながっかりいたしますね。  はい。父母のことや、戊辰戦争で死んだという兄のことは、姉の口から多少は聞いております。  私が雫石を離れましたのは八つのときでありますから、いくらか記憶にとどめていてもよさそうなものですが、これがさっぱり。  母のことはわずかながら覚えておるのですがね、兄についてはまったくと言って良いほど憶えがないのです。  人間は生きて行くために、都合の悪い記憶を淘汰《とうた》するのだという学説があるそうです。もしやその類いですかね。だとすると、兄という人の存在は、幼いころの私にとって、母よりも大きかったのでしょうか。  盛岡に着くまでに、いくらかでも思い出すことができたなら、供養にもなると思うのですが。  さて、では心を静めて、できうる限り記憶を掘り起こしてみましょう。もう都合の悪いことなどではないのですから、胸の奥の鍵を開けて、少しずつ——。  父については、ほとんど存じません。  知っているわずかな事柄は姉から伝え聞いたものですが、考えてみれば姉が父と別れたのも物心つかぬ赤児のころだったのですから、それすらもまた聞きということになりましょう。  私にとっては義兄にあたる大野千秋先生も、新宿の佐助親分も、父については何ひとつ語ってはくれません。改まって訊ねるのも今さら気恥ずかしい思いがいたしますし、まあ私たちの間では禁句のようなものですね。  父の話が禁忌というのも妙ですが、時代という高い塀の向こうの出来事なのだから仕方がないとあきらめております。  こういうことは、幼い時分に明治の御一新を跨いだ私たちの世代には、ままあるのです。家の歴史を葬り去ってしまわなければ、子孫たちは生きて行けない、というふうな。それは少々大げさにしても、知らぬほうがむしろ都合がよい、というふうな。  あなたは気付かずに話を聞き蒐《あつ》めていらしたのでしょうが、それはあんがい掟破りかもしれませんよ。  父について存じていることといえば——天保五年の午《うま》の生まれ、西暦では一八三四年となりますかね。もし健在でいたならば、八十を少し出たところでしょうか。  死児の齢ならぬ、死んだ親の年齢を算《かぞ》えるのが、父を知らぬ子の悲しい習いです。  いえね、こういうことはすらすらと答えられないと、万がいち他人様から訊ねられましたとき、みじめな気持ちになりますでしょう。こう見えても、みなし子の劣等感とは、私なりに戦って参りましたのですよ。  呑気な気性と、この茫洋とした外見でずいぶん得をしております。  父は、こういう性格ではなかったような気がいたします。私の生まれる年の冬に、いわゆる尊皇攘夷の志に燃えて国表《くにおもて》を脱藩したというのですから、むしろ正反対の熱血漢だったのでありましょう。  その後どういういきさつがあったのかはとんと存じませんが、慶応四年正月の鳥羽伏見戦争で旧幕府軍に加わって戦い、大坂まで落ちて、北浜にあった南部藩の蔵屋敷で亡くなったのだそうです。享年は三十五でした。  母方は雫石の百姓でありますから、そうした嫁取りもべつだん不自然ではないくらいの、家格の低い侍だったのでしょう。だが、剣術は達人であったらしい。学問もなかなかのもので、藩校の助教を務めていたということです。  文武両道ですな。私は体のほうはこの通り独活《うど》の大木で、運動はからきし苦手なのですが、学問が好きなところは父に似たのかもしれません。  そういえばいつでしたか、佐助親分がしみじみとこんなことを言った。  後ろ姿が、気味の悪いくらい父親に似ている、と。  顔はそう似てはいないらしい。むしろそれは、箱館戦争で死んだ兄が生き写しだったそうです。  後ろ姿が似ていると言われても困りますな。本人だけには見えぬのですから。  そこで、あるとき一計を案じましてね、家内の鏡台を拝借して後ろ向きに立ち、手鏡を合わせてしげしげと眺めたのです。ごていねいに、褌《ふんどし》ひとつになりましてね。  ほう、こんな具合だったのかと、ひとりで得心いたしました。  ということは、背が高くて痩せた人だったのでしょう。ちなみに、私の身長は五尺四寸ありますから、もし同じほどであったとすると、昔の人にしては相当大きな人物だったことになります。  姉はやはり背が高いが、顔は母親似です。本郷の下宿で再会いたしましたとき、ひとめで姉だとわかったのは、忘れていた母のおもかげを思い出したからにちがいありません。  しかし、姉と私とはあまり似ていない。すなわち私は父にも母にも似ていないということになりますが、これはおそらく遺伝学で言うところのスローバックというものでありましょう。つまり、何世代か前に存在していた形質が突如として発現する、あるいは祖父母の形質が両親には発現せずに隔世遺伝する、という現象ですな。余談ながら稲の品種交配に際しては、きわめて重要な着眼点であります。  ええと、稲の話ではない。私の身の上話でした。  私が生まれましたのは、盛岡市郊外の雫石という山村です。  父が脱藩をしたので、城下には住めなくなったのでしょうか。ともかく身重の母は兄と姉を連れて実家に戻り、そこで私を産んだのです。  祖父母はすでに亡く、伯父には育ちざかりの子供が大勢おりましたので、母が肩身の狭い思いをしたことは想像に難くありません。  母は病弱な人でありました。起きて立ち働いている姿は記憶になく、思い出の中の母といえば、窓もない二畳か三畳ほどの板敷の一間に筵《むしろ》と藁蒲団を敷いて、臥《ふ》せっている姿ばかりなのです。  胸を患っていたので、同じ部屋に入ることは許されず、板戸をほんの少し開けて目だけ覗かせ、朝晩の挨拶をしておりました。  従兄たちにいじめられて泣く泣く母にすがろうといたしますとね、板戸を開けたとたん、「入ってはなんね」と叱られるのです。そこで私は二度泣くわけなのですが、考えてみれば、泣く子を叱って遠ざけねばならぬ母のほうが、よほど辛かったでしょうな。  雫石での幼い日々には、当然のことながら脈絡がありません。まるで古写真でも撒き散らしたように、断片的な記憶の残るばかりなのです。  そのつたない記憶の中に、ちらりほらりと兄や姉が現われます。  月の明るい晩、曲がり家の縁側にちょこんと腰をおろして、姉が教えてくれた童唄《わらべうた》など、今も覚えているのです。  正月や、門に門松、松かざり、手かけぼんには田づくりほんだわら  三月や、おひなまつりにあさどきなぁます、内裏《だいり》さぁまの取り合わせ  意味もわからぬままに覚えたものです。もっとも、いまだに意味のよくわからぬ童唄ではありますが。  兄は日がな一日、伯父とともに野良仕事に出ており、雪に埋もれる冬は土間に座って、藁を打っておりました。ともかく一日中、働き詰めに働いていたような気がいたします。  ああ——話すにつれ、少しずつ思い出して参りますな。  兄の名は嘉一郎。嘉永の年に生まれたから嘉一郎と名付けたそうで、私より九つも年長でした。  ほっそりとした、女のようにやさしい掌をしておりましたよ。その掌で、よく私の頭を撫でてくれたのです。  たいそう母思いの兄でありました。母の病が篤くなって、起き上がることもままならなくなってからは、閉め切った寝間の中で粥《かゆ》を口に運び、下《しも》の世話までも兄がしていました。  野良の帰りに、近くの小川に置針《おきばり》をいたしましてね、それを翌《あく》る朝のまだ暗いうちに揚げに行くのです。たまに鰻がかかりますと、大喜びで飛びはねるように帰ってきて、母に食べさせておりました。  獲物のないときにはしょんぼりと戻ってくる。それでも野の花を摘んできて、母の枕元に飾っていた。まことに心のやさしい兄でありました。  思い出すことも供養のうちでしょうか。こうして話しておりますと、次から次へ、まるで糸でも紡ぐように、兄のことが思い出されて参ります。  庭や土間に子供らを集めて読み書きを教えてくれたこと。百姓家には手習いに使う紙などありませんから、地べたに棒きれで字を書いて。まあ、今でいう学校ごっこでしょうか。  それでも、私は越後の家に貰われたころには多少の読み書きができたのですから、学問の礎を築いてくれたのは兄だったということになります。  どうしても顔が思い出せない。声も。  たったひとりの兄を、私はなぜ忘れてしまったのでしょうか。  忘れねばならぬと、幼心に誓いでもしたのでしょうか。  ある夏の夕暮れどき、伯母が子供らを残らず連れて蛍狩りに出たことがありました。  朝早くから日の落ちるまで、ずっと機《はた》を織っている伯母が、子供らの遊び相手をするというのは珍しいことでした。  ほうほう、蛍こい  行灯《あんど》の光をちょいと見てこい  ほうほう、蛍こい  ——そんな歌を唄いながら、提灯や竹の枝を持って蛍を追うのです。  土橋を渡した小川の岸辺には、目のくらむような蛍の群が飛びかっていた。姉や従兄たちの真似をして私も懸命に蛍を追ったのですが、なかなか捕まえられない。するとそのうち、運の悪い一匹が向こうから私の着物の袂《たもと》に飛びこんできたのです。  掌におさめて、あかあかと息づくように燃える蛍火を覗きこんだときは、胸が高鳴るほど嬉しかったものです。  ふと、母の寝間に放してやろうと思った。灯りも窓もない小部屋で、ぼんやりと臥せっている母に、蛍を見せてやろうと思ったのです。それで、誰にも告げずに家へと駆け戻った。  ひとけのない庭先には蚊遣《かやり》の杉葉が燻《いぶ》っており、板戸は開け放されておりました。まるで、ほの暗い舞台のように、家の中が闇に浮き出ていた。  むろん、芝居など見たためしはなかったのですがね。そのとき私の目に映った光景は、まさしく一幕の舞台のようでありました。  母の寝間の戸が開いていて、その前に具足を身につけ、鉢巻を巻いた兄が胡座《あぐら》をかいていたのです。  私たちが、従兄たちとはちがう身分の子供であるということぐらいは知っておりましたが、百姓家に生まれ育った私には、もちろんそうした自覚はない。むしろ、伯父の家の厄介者であるということを、強く意識していたような気がします。  ましてや幼い私は盛岡の城下にすら行ったことがなく、侍というものはごくたまに村|巡《まわ》りの下役人を見かけるくらいでした。  兄の身なりが戦装束であるということさえ、そのときはわからなかったのです。  しばらく蚊遣の煙の中に佇んで、母と対面する異形の兄を見つめていた。何だか夢でも見ているような気分でした。  そのうち、私に気付いた伯父が土間から出てきて、低い声で叱りました。なぜ勝手に帰ってきたのだ、とね。  兄は秋田との戦に参陣するところだったのですよ。戦仕度を斉《ととの》えて、母に別れを告げていたのです。  伯母が子供らを蛍狩りに連れ出したのは、そういう兄の姿や母との別れを、見せたくはなかったからなのでしょう。  出陣は藩命だったのでしょうか。それとも兄ひとりの意志であったのでしょうか。いずれにせよ、百姓の伯父にしてみれば、のっぴきならぬ怖ろしいことであったにちがいありません。伯父は家に背を向けて、まるで目隠しでもするように私の顔を抱きかかえました。  兄は愚か者だというようなことを、伯父はしきりに呟いていました。何が愚かなのか、私にはわからなかった。  やがて兄が家から出てきた。伯父はがちゃがちゃと鳴る具足の音から私をかばうように、背をまわします。音がすぐうしろでやむと、伯父は早く行け、と怒鳴りました。  一瞬、私は伯父の野良着の端に、兄の姿を見てしまった。  黒々とした具足を纏《まと》い、腰に巻いた晒木綿に大小の刀を差し、手槍を握っていた。兄は腹の底から絞り出すような声で、伯父上、あとのことはよろしくお願いいたします、というようなことを言ったと思います。  そこでようやく私は、兄が戦に出るのだと悟った。切なかったですよ。もうこれきり会えないと思いましたから。  兄さ、と私は呼んだ。兄は声から遁《のが》れるように、走り去ってしまいました。  どうしても顔が思い出せない。声も。  不幸を忘れなければ、人間は生きられないのでしょうか。  そのときとっさに考えたのです。兄がいなくなれば私が母の看病をしなければならない、とね。野良の手伝いも、あすからは兄にかわって私がやらねばならない、と。そうしなければ、私たち親子は生きて行けないのだと思った。  縁側から家に上がって、母の寝間に行きました。 「入ってはなんね」  藁蒲団に泣き顔を隠して母は叱りましたが、私はかまわずに板戸を閉め、枕元に座りました。母の言葉に背いたのは、その一度きりです。  思いつかぬ慰めのかわりに、私は掌の中にしまっていた蛍を、寝間の闇に放ちました。  ひたすら、おのれの幼さばかりを呪った。できることが何もない、とね。この命で母が生きられるのなら、この体で母の悲しみが救えるのなら、八つ裂きにされてもかまわないと思いました。  少しおませでしょうか。いえ、子供はみな考えますよ。だって、命も体も、母からいただいたものではありませんか。  藁蒲団に滑りこんで、母の背を抱きました。抱くほどに、さするほどに、母の悲しみはつのってしまった。  母を泣きやませたものは、私の抱擁ではなく、闇に舞う蛍火でした。  五十年の時を経た今でも、床に就いて闇を見つめるたびに、あの夜の蛍火が思い出されます。  母と添寝をした記憶は、その一夜《ひとよ》きりでありますから。  ああ、いかん。  いつの間にやらぐっすりと寝入ってしまった。  実は昨晩、仙台の農事試験場におる教え子らと酒を過ごしてしまいましてね。すでにお気付きとは思いますが、ひどい宿酔《ふつかよい》なのですよ。  だが、休ませていただいたおかげですっかり酒が抜けた。  ここはどこですか。一ノ関。ということは、かれこれ二時間以上も眠っていたことになる。失敬いたしました。  いえ、まだ昔の国境《くにざかい》は越えておりません。このさき平泉、前沢、水沢、金ヶ崎と停車いたしまして、その次の黒沢尻というあたりからが旧南部領です。時刻表によりますと、その黒沢尻から盛岡まではさらに一時間四十分かかるのですから、いやはや広い領地ですな。  下北半島の先端から盛岡を通って黒沢尻まで、まさしく「三日月の丸くなるまで南部領」と謳《うた》われた広大な御領内です。面積から申せば、おそらくは日本一だったでしょう。  しかし——おやおや、仙北平野はさすがに米どころで平野も広いが、一ノ関を過ぎたとたんから左右に山が迫りますね。  なるほど。地図ではよくわからないが、こうして車窓から望んでも、東の北上山地まではせいぜい二里、西の奥羽山脈までは三里といったところでしょうか。  この地形とこの緯度はたしかに厄介だ。冷害、水害、旱害《かんがい》、風害はむろんのこと、狭い地域に濃密な作付をしなければならないから、稲の病気は伝播《でんぱ》しやすいし、虫害や鳥獣による被害も多い。すなわち、およそ塩害以外のすべての天敵を相手にしなければならぬことになる。  手元の資料によりますと、旧南部藩の藩政末期はしばしば大凶作に見舞われて、損耗高が二十万石を越えたこともあったそうです。つまり、全滅ですな。  百姓は餓死するほかはなく、藩の税収は皆無ということです。  はてさて、私はその藩政末期に生まれ育ったのですが、さほど逼迫《ひつぱく》したという記憶がない。なぜでしょうか。  雫石という村が、例外的に作柄のよい土地だったのでしょうかね。これはたいへん興味深い問題です。  伯父の家が格別に裕福だったはずはありませんよ。少なくとも伯父の家を含む近隣の五人組は、どのような不作の年でもやりすごしていたはずです。  ともあれ、明治以来は近代農学の実が上がりまして、かつての南部二十万石も今や七十万、八十万といった産米高を誇っております。しかし、やはりひとたび凶作となれば大打撃を蒙る。  近ごろでは、明治三十八年に産米十九万石という大凶作がありましてね。もっとも昔に較べればずいぶん贅沢な話ではありますが、それでも農家は餓死はせずとも娘を売るぐらいの不幸に見舞われます。  そういうことは断じて許されません。よしんば天の定めた不幸であろうと、悪しき天命には逆らってこそ人類の叡智《えいち》というものでありましょう。  少し、稲の話をさせていただいてよろしいでしょうか。  明治三十八年の大凶作の翌《あく》る年に、岩手県がかの有名な「愛国」の作付を開始したのは実に賢明な判断でした。 「愛国」とは、「神力《しんりき》」「亀ノ尾」と並ぶ、明治の日本三大品種のひとつであります。もとは静岡県加茂郡の晩生品種であったものの中から、出穂の早いものを選別して早生《わせ》に改良したのが、この「愛国」です。  稲にはその品種によって、早生、中生《なかて》、晩生《おくて》の別があります。早生は文字通り早く収穫を得られるので、秋の冷害や風害の被害が少ない。しかしそのぶん、作付面積に対する収穫高も低いのです。  一方、晩生品種は十分に実らせるのですから収穫は多いが、冷害に遭って壊滅する危険がある。  すなわち、北国の農民が待望する品種とは、晩生のように実入りのいい早生品種ということになります。そうした意味から、「愛国」は画期的な稲でありました。この「愛国」の作付により、岩手県下は大凶作の翌る年に、みごと七十万石を回復したのです。  しかしながら、この「愛国」は実りが良く、かつ収穫が早いという特性を有するだけでありまして、けっして種々の被害に強いわけではありません。  私は学生たちに、こう教え続けているのです。天然の害を回避する品種は本物ではない。天然の害に立ち向かい、それを超克する品種こそ、まことの稲である、とね。  そう——雨にも負けず、風にも負けず、日照りにも寒さにも負けぬ稲を作り出すことこそが、われわれの使命なのですよ。  私の先輩方は、不作の年でも百姓が飢えて死なずにすむ稲を作りました。  私は、私のふるさとに、娘を売らずにすむ稲を育てたいと思います。親子兄弟が別れずに、貧しくとも幸せに暮らせる稲を育てたいと思うのです。  生まれ故郷を捨て、病の母を捨てて、私はひとり幸福になりました。だからこそ、豊かな越後の田園を、忘れてしまったふるさとに甦《よみがえ》らせたいのです。  貧しい南部の国は、私ひとりを豊かな越後へと逃がしてくれた。不幸な記憶をことごとく消し去っても、私は国を去るときの誓いを忘れたことはありません。  いつの日か、帰るとね。必ず帰ってくると、私はふるさとの山に誓いました。  ところで——そろそろ昼飯にいたしましょう。  出がけに仙台の宿で、握り飯を作っていただきました。西ヶ原の試験場から持参した特別の米を炊いて、握っていただいたのです。  どうぞ、おひとつ。  いかがですか。美人でございましょう。色白で粒がよく、艶もぴかぴかです。宿の板前も、ひとめ見てびっくりしておりました。  召し上がってごらんなさい。  いかがですか。おいしいでしょう。吸水性が高いので、ふっくらと炊き上がります。そのくせ腰が強く、粘り気も十分にある。香りも甘みも、天下一だと自負しております。  品種名を「吉村早生《よしむらわせ》」と申します。すでに越後の養家では試験的な生産に入っておりますが、そちらでは私の名にあやかって、「貫一郎」と呼んでいる。面映《おもはゆ》い限りですがね。義兄の弟自慢にも困ったものです。  この「吉村早生」は、私の三十余年にわたる研究の成果です。「陸羽二〇号」と「亀ノ尾」を人工交配し、さらに「愛国」の変異種である「銀坊主」に、土佐の強力な早生種である「衣笠早生」をかけ合わせて生まれました。  早生にもかかわらず一穂に四百粒以上の実をつけ、冷害に対しても旱害に対しても、かつてない耐性を持っています。  私はね、この強くておいしい米を、ふるさとに運ぶのですよ。いえ、贈り物などではない。借りたものを、返しに参りました。五十年前に借りたきり不義理をしていた、私の命です。  はてさて、見るからに手ごわそうなこの土地に、通用いたしますかどうか。いや、通用しないのなら、通用するように努力すればいいのです。米馬鹿先生の馬鹿さかげんを、みなさんにとくとご覧いただきましょう。  どうかなさいましたか。お口に合わぬはずはないのですが。  水沢、か。さすがに雪が深くなりましたね。いよいよ国境《くにざかい》も近付いて参りました。  おや——どうしたことでしょうか。真白な握り飯を見つめているうちに、母の顔をありありと思い出しました。  私が寝間の戸を開けると、どんなに具合が悪くともにっこりと微笑んで下さった。こけしのように、目を三日月の形に細めてね。  父が脱藩し、盛岡の城下を去らねばならなくなった辛いさなかに、母は命と引きかえに私を産んでくれたのです。  名は、しづと申しました。  私が物心ついてから別れるまで、母は寝たきりでしたが、寝間から出た姿をいちどだけ見た記憶があります。  兄が無事に秋田との戦から戻ってきたときのことです。  霙《みぞれ》まじりの雪が降っておりましたから、秋の終わりか、冬の初めだったのでしょう。私は土間に座って、藁打ちを伯父に教わっておりました。  村の子供らの喚声が近付いてきたかと思うと、姉が戸を乱暴に開けて転がりこんできた。「兄さが帰ってきなさった」、と金切り声を上げながらね。  とたんに、母が寝間から出てきたのですよ。這うこともできぬ病人が、しゃんと二本の足で立って、まるで走り出るほどの勢いで。  庭先に現れた兄の姿はよく覚えています。大きな斑《まだら》馬に、米俵と大豆の入った叺《かます》を振り分けに積んで、村の子供らに囲まれながら帰ってきたのです。馬も荷も、手柄のご褒美だったのでしょう。  兄が母屋つづきの厩《うまや》に馬を引き入れて土間に姿を見せますと、母は板敷から転げ下りて、具足の胴にしがみつきました。  よくぞ無事に戻ってきたと、声をふりしぼって母は泣きました。  そのとき兄は棒のようにつっ立ったまま、敗け戦を生き残って面目ござらん、というようなことを言ったと思う。百姓家に生まれ育った私には、兄の言葉がふしぎでならなかった。みんなが嬉し涙をこぼすほど喜んでいるのに、なぜ兄は面目ないなどと言うのか。生きて帰ったことが、なぜいけないのかと思った。  嬉しかったですよ、私も。涙というものは悲しいときや痛いときに出るばかりではないのだと、そのとき初めて知った。喜びが胸に溢れて、矢も楯もたまらずに家から飛び出し、「兄さが帰ってきなさった」と、山や森に向かって大声で叫びましたっけ。  母の病も治ってしまったのだと思いました。むろん、母を立ち上がらせたのは、科学では説明のつかぬ歓喜のなせるわざだったのですがね。  つかの間の喜びでした。  それからいくらも経たぬうち——そう、ひと月かふた月、いやもっと短かったのかもしれない。兄は蝦夷地へと、再び旅立ってしまったのです。  その間のいきさつについては、とんと記憶にありません。囲炉裏ばたで伯父と兄が激しく口論をし、伯母がおろおろとしている一瞬の光景が瞼に残っているばかりです。  兄は、武士の意地を貫いたのでしょうか。  私には今ひとつ合点がいかないのですよ。ともかくやさしい印象ばかりが残る兄でしたから。刀や槍どころか、鋤鍬《すきくわ》さえも持て余しそうな、女のようになよやかな掌をしていた。だから、ひそかな藩命のようなものが何かしらあったのではないかとも思ったりします。今さら詮索しても仕様のないことではありますが。  出立の朝、兄は子供らの寝間をそっと覗きにきました。やさしい掌で、姉と私の頭を撫でて下さった。手甲脚絆《てつこうきやはん》の旅姿でしたから、ああ行ってしまうのだなと思ったものです。  私は寝たふりをしていたのですよ。ほかに方法が思いつかなかったから。  板敷を軋《きし》ませて兄が去り、表の引戸が閉められたとたん、私のかたわらでじっとしていた姉が、ふいにはね起きたのです。手早く身づくろいをして、姉は物も言わずに兄のあとを追った。  私もびっくりして寝床を抜け出し、素足のまま表に駆け出しました。  氷のかけらが舞う、寒い朝でした。姉は庭先で私を振り返り、おまえは家にいろ、というようなことを言った。それから、兄さ、兄さと悲しい声で呼びながら、走り去って行きました。  ——こんなことも、実は忘れていたのですよ。車窓を流れ行くふるさとの景色が、思い起こせよと私に言っているような気がいたします。  切ない記憶を、私はどうしても心の奥底から引きずり出さねばならないのでしょうか。  兄が出奔した翌る日、姉を雫石の家に送り届けてくれた若侍は、大野千秋先生でしたか。  そうですね。そうにちがいありません。思い出しましたよ。大野先生は母の病床を見舞ったなり、姉を嫁にくれと——。  そんな美しい記憶さえも、私はひとからげに忘れ去っていたのですね。  大野先生と母とのやりとりを板戸ごしに窺いながら、姉と私はぎょっと目を見かわしたものです。  先生はやおら敷いていた藁筵《わらむしろ》を引きはがすと、板床にごつんと額をぶつけて平伏なさった。そして——。 「みつを、わしの嫁こに下んせ」と、叫ぶような大声でおっしゃった。  おや。お国訛まで思い出した。後ろの席の婆さんたちの話し声が呼び水になったのでしょうかね。  姉が偉いお侍さんの嫁になる。何だか嬉しいような悲しいような、妙な気分でした。  そうだ。村はずれまで大野先生を私がお見送りしました。別れぎわに、霜焼けに爛《ただ》れた私の掌をご自分の頬に当てて、温かくくるんで下さいました。 「姉上は、わしが必ず幸せにするからな。お前《め》は母上に孝行せえ」  たしか、そうおっしゃいましたよ。  まもなく国境の黒沢尻です。  汽笛が胸に応えますな。  ふるさとが近付くほどに、忘れ去っていた幼い日が甦って参ります。煙がもくもくと窓をよぎり、風に吹かれて途切れれば、こんもりとした雪景色の中に、またひとつ新たな記憶が置かれている。  とうとう私は、母を捨てた日のことを思い出してしまいました。幼いころに口ずさんでいた、ふるさとの訛とともに、その日のすべてを。  父が去り、兄が去り、また姉が去り、ただひとり手元に残された末っ子の私を、遥かな越後に送り出す母の心中は、いかばかりだったでしょうか。  お話しする前に、胸がつぶれてしまいました。  勇気を出さねばなりませんね。私はこの記憶を恢復《かいふく》し、かつしっかりと噛みしめねばならない。ふるさとから借りた命を、こんなに重たく膨らませて帰ってきたのですから。  もう、誰も飢えさせはしない。けっして、貧しさのためにふるさとの親子を別れさせたりはしない。お国が男たちを戦にかり出すというのなら、私は女子供の力でも十分に実る稲を、ふるさとの田に植えます。  和賀川を渡りました。  ああここが、南部の国ですね。  こうして目をつむり、耳を澄ませますと、車内に流れる南部訛の何と美しいことでしょう。  風のように、水のように、しっとりと心を濡らして過ぎて行く。  私は八つの齢まで、この美しい言葉を使っていたのですね。すべてを、思い起こさねば。  そう。母と別れ、ふるさとを捨てた日のこと。  佐助さんが私を迎えにきたのは、山と空とがごおごおと吠える雪の朝でした。なぜそのようにあわただしい出発になったのか、未だにその理由はよくわかりません。ともかく官軍の盛岡進駐にあたり、私たち家族の身に危険があるということでした。  箱館まで行って新政府に抗《あらが》った兄の罪を、家族が蒙る懸念があったのでしょうか。だとすると杞憂《きゆう》にはちがいなかった。が、結果として私がかくあるのですから、怪我の功名と言うべきでしょう。  本来ならば母も同道するべきでしたが、とうていそんな容態ではなかった。身を寄せる先は越後の豪農だというので、ならば一足先に行って、医者を差し向けるよう先方に頼もうと、子供心にも考えたものでした。 「んだば貫一」と、佐助さんに背負われた私に向かって、母は力なく手を振りましたっけ。  佐助さんはあの通りの大男ですから、背中はとても大きくて頼りがいがありました。綿入れにくるまれ、しっかりと藁縄でくくりつけられて、足が冷えぬよう足袋の上に藁靴を履かされました。  伯父と伯母はかわるがわる、「すまねな、貫一」と言って頭を撫でてくれました。  そうだ。佐助さんに背負われて、いったん盛岡の町はずれまで戻りましたよ。地図をお持ちでしたね。ちょっと拝見。  この雫石街道を上って、北上川にかかる夕顔瀬橋。ここから盛岡の町を初めて見たのです。  盛岡に着いたなら、ぜひその橋に立ってみたいと思います。  きらきらと舞う氷の粒の中に、岩手山が聳《そび》えていた。右手には不来方《こずかた》のお城と城下の甍《いらか》が真白な雪に埋もれておりました。 「盛岡でがんす。忘れねで呉《け》ろ」  佐助さんは私を揺すりたてながら、肩ごしに声を絞りました。 「越後さ行っても、盛岡ば忘れねで呉ろ」  私は力いっぱい肯《うなず》いて、父祖の生きた町を瞼に灼きつけました。  そのとき、ふるさとの山に誓ったのですよ。いつの日か、帰るとね。必ず帰ってくると。  盛岡から越後までは、いったいどういう道筋をたどったのでしょうか。いちど佐助親分に訊ねたのですが、詳しいことはご本人も覚えてはおられず、ただ米沢の城下を通ったと言っていました。  だとすると白石までは奥州街道をたどり、七ヶ宿街道から米沢へと入って、さらに越後街道を新発田へと抜けたことになります。  八歳の子を背に負っての道中の難行たるや、いかばかりであったでしょうか。ことに米沢からの越後街道は別名を十三峠街道と称しますとおり、大小十三もの峠を越えねばなりません。  前後の脈絡のはっきりした私の記憶は、その十三峠の道中から始まるのです。  宇津峠という難所で雪に巻かれた。一寸先も見えぬ吹雪の中を、まるで泳ぐようにして佐助さんは歩き続けたのです。「眠るんではねぞ。眠ったら死んじまうぞ」と、佐助さんは腰まで雪に埋もれながら、背に負った私を揺すり続けました。 「泣げ。泣がねが、こら。声上げて泣げ」  怖ろしさのあまり私が泣くと、佐助さんはもっと泣けと言った。  死は、ほんの目の前に迫っていたのですよ。父は死んでしまった。今ごろは母も、兄も死んでいるのだろうと思いました。  佐助さんが立ち止まって息を入れるたびに、私は言った。 「最早《もうは》、ここいらで良《え》がんす。捨てて下んせ」 「そうはいがねぞ。わしはお前《め》を、越後まで送らねばならね」 「みなが死んで、わしひとり生きても仕様《しや》ねのす。捨てて下んせ」 「いんや。んだからこそ、お前ひとりを生きさせねばならねのじゃ。けっぱれ」  けっぱれ貫一、と佐助さんは叫び続けました。 「けっぱれ、貫一。わしはどんたなことがあろうと、お前を死なすわけにはいかねのじゃ。泣げ。声上げて泣げ」  しまいには自分が大声で泣きわめきながら、佐助さんは雪をかき分けて歩きました。力強く、まるで熊のように力強く。  私の正しい記憶は、吹雪の宇津峠から始まるのです。佐助さんの靭《つよ》い意志に導かれて、私は真白な雪闇から、新たな人生を歩み出したのですよ。  難渋の末に、私たちは吹雪の峠を越えました。  江藤彦左衛門家は享保年間にわずか一町五反の分家から始まり、以来八代の当主を経て一千町歩の田を養う、越後でも有数の豪農でした。  本家屋敷は現在の新発田市郊外ですが、昔そのあたりは新発田藩にも村上藩にも属さぬ天領で、旗本青山氏が陣屋を構え采地《さいち》としておりました。つまり代官のいる幕府直轄領です。  もっとも、明治初年における江藤彦左衛門家の農地は、蒲原《かんばら》平野五十八ヶ村にも及びましたから、たかだかの旗本代官など、物の数ではありません。本家屋敷を構えている場所が、たまさか天領のうちであったというだけのことです。  一千町歩の大地主、という言い方は、俗に長者の代名詞となっておりますが、実際にはそうそういるものではない。近ごろの調査によると、全国でも八名しかいないのですよ。  そしてそのうちの五名が越後の蒲原四郡に集中しているのは、穀倉地帯の面目躍如たるところでありましょう。そのほかには、秋田、愛知、三重に各一名がいるだけです。なお法人としても、宮城、山形、大阪に各一社があるにすぎません。  一千町歩の農地といえば、毎年の小作料だけでも四斗俵で四千俵は下らない。加えて畑からは大豆の小作料も入ります。さらに田畑を担保とする質業や、油と醤油の蔵元も営み、膨大な山林も所有していたのですから、その総収入は大名並みでした。  私の養い親である八代目彦左衛門はなかなかの事業家で、米の売買を仲買の商人に任せず、自ら大坂に進出して米相場を動かしておりました。  私が江藤家に引き取られることになったそもそものご縁も、その大坂なのです。  南部藩における父の上司で、大野千秋先生のお父上に当たる方が、大坂の御蔵役をなさっていらしたのです。そうした縁《えにし》から、私は大野家の使用人であった佐助さんに連れられて、江藤家のお世話になる次第となった。  そのあたりの経緯は余りに複雑すぎて、未だに不明な部分も多いのですが、ともあれ私は多くの方々のお情けに支えられて、新たな人生の端緒につくことができたのです。  私と佐助さんが、乞食同然の姿でようやく江藤家の門前に立ちましたのは、雫石の家を出てから半月も経った日の夕暮れどきでありました。  まるで白牡丹のような大粒の雪が降りつのっておりましたよ。雫石の里ではとんと見たこともない、お伽話のような雪でした。  話しこむうちに、いつしか花巻を過ぎてしまいました。  日詰《ひづめ》駅、ですか。これはこれは、いかにも時刻にふさわしいロマンティックな駅の名だ。  ごらんなさい。あれが岩手山ですよ。半ばから上を赤々と夕陽に染めて、溶岩流の山ひだがくっきりと刻まれています。子供の時分は、「おやま」と呼んでいましたっけ。  真白な片流れの裾を曳いた、何と美しい姿でしょうか。頑固一徹の武士が、どっしりと胡座をかいているような雄々しさです。  父も母も、兄も姉も私も、そして同じ姓を持った父祖たちも、みなあの山を仰いで生きたのですね。  思わず掌を合わせてしまいます。  江藤家の門に立ったとき、まさかそこが訪ねる家だとは思わなかった。  お金持ちの百姓家に貰われるとしか聞いてはおりませんでしたから。私の考えうる百姓家とは、南部の曲がり家だったのですよ。  このお城はどうして門番がいないんだろうと思いました。  門をくぐると雪をかぶった庭で、踏み分けた路をしばらく歩くと、大きな唐破風《からはふ》で飾られた玄関がありました。  つんと澄み切った風の中で、私たちは人を呼ぶこともできず、長いこと立ちつくしていたのです。 「ここが、お前《め》さんの貰われる家じゃ」  のしかかるような唐破風を見上げて、佐助さんは言った。 「お百姓ではねのすか」 「たまげたな。これが噂に聞ぐ越後の大百姓じゃろ」  廊下を通りすがった番頭が、物乞いと間違えて叱りつけた。 「盛岡から参《めえ》りあんした。旦那様にお取り次ぎ下んせ」  ——しばらくすると、廊下を慌しく踏み鳴らして、綿入れの羽織を着た上品な人物が出てきた。私の養い親となる、江藤彦左衛門でした。 「大野様のお中間《ちゆうげん》でねが。このたびのご災難は噂に聞いでおりやす。ま、裏から上がらっしゃい」  佐助さんは地べたにひれ伏して、懐から油紙にくるんだ書状を差し出しました。私も並んで土下座をした。  奥から番頭や女子供がぞろぞろ出てきて、物珍しげに私らを見おろしておりました。  彦左衛門は広い敷台に立ったまま、黙って書状を読み始めた。読み進むほどに、和《なご》やかだった顔がみるみる固くなって行くのがわかりました。  書状を畳んで懐に入れると、彦左衛門はいちど雪空を見上げ、それからじっと私を睨みつけた。  拒まれると思ったのですよ。あまりに怖い顔で見つめられましたから。 「立たっしゃれ」  低い声で彦左衛門は言った。 「立派な南部武士の子が、百姓に頭《あだま》なんが下げではならね」  頭だけをもたげて、私は必死の思いで言った。 「わしは武士の子なぞではねがんす。雫石の百姓の子だれば、どうか馬小屋にでも納屋にでも置いて下んせ。野良仕事もいたしあんす。藁打ちも、薪割りもできあんす。肥《こえ》くみもいたしあんす。わしは、野垂れ死ぬわけにはいがねがんす」  私を生かそうとしてくれた多くの人たちのために、私は生きねばならなかった。  思いついて、胴巻から巾着を引き出し、敷台の上に置きました。その中には母が持たせてくれたいくばくかの金が入っていたのです。  養父は溜息をつきながら、巾着の中味を改めました。 「二分金が十枚どは、大金でねが。なんでこのような金を」 「父の形見の銭こでござんす。旅先から送って下さんした。どうかお収め下んせ」  養父は痛みをこらえるようにきつく目を閉じ、金をいちど拝むように高くかざしてから、巾着の中に戻しました。 「この金子は、お預りしでおぐ。ゆめゆめおろそがにでぎる金ではねえ。さあ、立たっしゃれ。もう心配《しんぺ》は何もいらねがら」  私のかたわらで、佐助さんはずっと泣き続けていました。  こうして私は、養父の温かな胸に抱かれたのですよ。越後の家族たちは、すべてを忘れさせてくれました。  そう。ただいちどだけ、越後の土に涙をこぼしたことがあります。何年か前に、私が作った「吉村|早生《わせ》」の実りを見に行ったときのことです。家内と、末の娘と、嫌がる佐助親分をむりやり汽車に乗せてね、越後に里帰りしたのですよ。  黄金色に輝く田圃の畔道を、どこまでも歩きました。  屈《かが》みこんで稲の実入りを調べていると、佐助さんがふいに、私の背を抱きすくめたのです。 「よくやったな、先生。てえしたもんだ」  そのまま立ち上がって、大きな親分を背負ったまま畔道を歩いた。お道化《どけ》ながら、涙がこぼれて止まりませんでした。  さあ、盛岡に着きました。  これが北上川ですね。ずいぶん長い旅でしたが、ようやく生まれ故郷に帰って参りました。  夕映えの岩手山《おやま》。南には早池峰《はやちね》。北には姫神山。北上川と中津川の合流する先に、不来方《こずかた》の城跡も望めます。  ああ、何と美しい町でしょう。  いやはや、楽隊のお出迎えとは畏《おそ》れ入った。改札に整列しているのは、私の赴任する高等農林学校の学生たちでしょうか。  歓迎は有難いが、万歳三唱はやめていただきたいものです。実は、目立つことが大の苦手なのですよ。  こうなると、あなたにご一緒していただいていてよかった。書生のふりをして、うまく引き回して下さいませんか。「先生はたいそうお疲れなので、ご挨拶は日を改めて」とか。お上手でしょう、そういうことは。  やれやれ、楽隊が派手な軍楽を。  幟《のぼり》まで立っていますね。「歓迎 吉村貫一郎先生」。いやはや汗顔のいたりです。  いいですか、汽車を降りたら、プラットホームの先頭まで歩きますよ。  なぜかって、ふるさとの風を胸いっぱいに吸ってみたいのです。  さあ、降りましょう。  はろばろと豁《ひら》けた空の究《きわ》みから、清らかな風が吹きおろして参ります。  歩いて、歩いて、岩手山を真正面に望む、プラットホームの先まで。  おうい、今|帰《けえ》ったぞお。  南部の風じゃ。盛岡の風じゃ。  胸いっぺえに吸うてみるべさ。  力いっぺえに。胸いっぺえに。  ああ、何たるうめえ風にてごあんすか。  ああ、何たるうめえ風にてごあんすか——。 [#改ページ]  謹啓 寒中之|砌《みぎり》 御全家御揃益々|御清穆《ごせいぼく》ニ御座|在《あ》ラセラレ候段 大慶之至ニ存ジ奉候  大坂在勤以来久々御無沙汰ニ罷《まか》リ過ギ恐入候|処《ところ》 突然|寸翰《すんかん》ヲ以テ斯様《かよう》大事御願申上ゲ 恐懼《きようく》至極ニ存ジ上ゲ候 御無礼重々承知|乍《なが》ラ 此段 拙者|畢生《ひつせい》之御頼事ト御忖度《ごそんたく》候テ 何卒《なにとぞ》御聞届願ヒ度《たく》  垂首合掌御願奉候  此度奥州騒動之一条ニ付 御風聞御座有ル可《ベ》ク 嘸々《さぞさぞ》御心配御座候ヤト存ジ奉候  甚ダ不本意|乍《なが》ラ 干戈《かんか》之事|不取敢《とりあえず》落着 随而《ついて》ハ拙者儀 逆賊|首魁《しゆかい》之大罪ヲ蒙《こうむ》リ 目下盛岡城下ノ寺ニテ御沙汰待受ケ致シ居《おり》候  此書状御尊台様之|許《もと》ニ届キ候頃ハ 既ニ御沙汰下サレ候|可《べ》ク 拙者遺書ト御心得御座候テ 何々卒《なになにとぞ》 御無理御無礼之段 御聞入願ヒ度 御願上奉候  扨《さて》 拙翰《せつかん》ヲ持参|仕《つかまつ》リ候者 名儀佐助ト申シ 拙家ニ永ラク忠勤致シ候中間ニテ御座候  容貌魁偉ニ候得共《そうらえども》 此度ノ騒擾《そうじよう》ニテハ常々拙者ノ馬口取ヲ相務《あいつとめ》候忠義者ニテ 宜《よろし》ク御安慮下サル可ク候  御願之儀ハ 寒中盛岡表ヨリ佐助ニ同行|罷《まか》リ越シ候少年之事ニテ御座候 此者弊藩縁故ノ御子息ニハ非ズ 無論 拙者系累ニテモ無之《これなく》 只 拙者組付配下足軽ノ息《そく》ニテ御座候  主家縁故ノ御子息モ扨《さて》置キ 況《いわん》ヤ拙者系累モ扨置キ足軽|輩《やから》ノ息ノ一身 御尊家ニ委《ゆだね》候|所以《ゆえん》 万端御聞入御座有ル可ク候  此者之父 姓名之儀ハ吉村貫一郎ト申ス者ニテ 既ニ去ル鳥羽伏見ノ戦中 討死致シ候  文久二|壬戌《じんじゆつ》之年 盛岡国表ヲ脱藩ノ折 此者之母ハ決死ノ夫ノ帰盛セザルヲ察シ 未ダ生レザル一子ニ貫一郎ノ同名ヲ与ヘ候 依《よつ》テ此者 姓名之儀 吉村貫一郎ト申シ候  重《かさね》テ|庶 幾《こいねがわく》ハ御尊台 往々《ゆくゆく》此者之姓名変ヘ不給《たまわず》 御配慮御養育賜レバ幸甚ト存ジ奉候  然者《しからば》 斯様《かよう》大事御願上候ノ上 更成《さらなる》御無理申述候由 縷々《るる》説分申上候  此者之父|者《は》  誠之南部武士ニテ御座候  義士ニ御座候  身代僅《しんたいわずか》二駄二人扶持ノ小身ニ候得共《そうらえども》 其《その》人格質朴誠実 高邁潔癖ニシテ|不 賤《いやしからず》 正ニ本邦武士道之|亀鑑《きかん》ニ御座候  去ル天保五|甲午《こうご》年 盛岡城下上田組丁同心屋敷ニ於テ出生 爾来《じらい》 日々|不怠《おこたらず》勉学ニ勤《いそし》ミ 撃剣ニ励ミ 遂ニ 藩校講学助教兼剣術教授方ノ大任 務メ居《おり》候  其学識技倆 藩士中抜群ニ御座候テ 立身出世之段 可然《しかるべき》処ニ御座|候得共《そうらえども》 何分足軽小身之出自ニ御座候テ 累進|相《あい》不叶《かなわず》 併《あわせ》テ藩政窮乏之折柄 御役料等ノ御代物 別段|之《これ》給フ不能《あたわず》 只 代々之小禄ヲ以テ妻子ヲ養ヒ居《おり》候 |雖 然《しかりといえども》 生来之質実分限|弁 《わきまえ》テ敢《あえ》テ富貴《ふうき》欲セズ 道ヲ得テ貧賤ヲ悪《にく》マズ同輩之窮状ニ|鑑 《かんがみ》テ 拙者始メ 上司ノ情ニモ頼ラズ赤貧洗フガ如キ窮迫切実ノ日々過シ居候  重テ申上候  此者之父者  誠之南部武士ニテ御座候  義士ニ御座候  天保年来 百姓領民飢渇シ 凍餒《とうたい》ニ輾転《てんてん》タル惨状ヲ察スルニ付 此者之父|者《は》 己《おのれ》一身ノ栄達ヲ潔シトセズ 仁慈之|衷 情《ちゆうじよう》ヲ以テ貧賤ニ甘ンジ居候  |熟々 慮《つらつらおもんみ》ルニ 学識技倆之卓越ハ 偏《ひとえ》ニ各人努力精進ノ賜物ニシテ 其質力ヲ評価|不能《あたわざ》ル段々 組頭拙者ノ不徳ト致ス処ニテ御座候 面目次第モ無之《これなく》候 [#地付き]拙者儀  弊藩勘定方差配之御役目|与《あずか》リ候テ依リ 多年奮励努力致シ候得共《そうらえども》 |如 斯《かくのごとく》 藩財政ノ恢復相不及《かいふくあいおよばず》 百姓領民ノ苦渋救済スル不能《あたわず》 藩士ノ生計又言フニ不及《およばず》 遂ニ 吉村始メ有為之士ヲシテ 脱藩ノ挙ニ出サシメ候 多条罪禍|悉《ことごと》ク 勘定方拙者一身ニ有之《これあり》候  然者《しからば》拙者 不倶戴天之賊ニシテ 天朝之御沙汰御待申上グ身ニ候得共《そうらえども》 錦旗ニ弓引キ奉候処 随而《ついて》ハ毫モ悔悛之情|有間敷《あるまじく》候 只々御役目|不 到処《いたらざるところ》 万死ニ価フ大罪ト已《のみ》存ジ居候  無論近々|馘首《かくしゆ》之土壇場ニ臨ミ候テハ [#地付き]拙者  非力ノ為 窮状救フ不能《あたわざ》ル百姓領民足軽同輩諸士ニ向ヒ奉リ 衷心《ちゆうしん》御詫申上候  抑々《そもそも》 拙家累代四百石之大禄賜リ 組付足軽三十余ヲ与《あずか》ル身上ニモ不拘《かかわらず》 只管《ひたすら》藩政之安泰ニ粉骨 御殿様御家名之御安寧ニ已《のみ》奔走致候事 大過《だいか》| 謬《あやまり》ニテ御座候  畏多《おそれおお》クモ此度御公儀幕閣御失態之因 拙者之謬ニ同様 百姓領民足軽郎党ノ苦難毫モ|※[#酉+斗」]酌不致 候《しんしやくいたしそうらわず》 多年幕府御安泰御家名大事ト執心|罷《まか》リ越シ候処ニ御座候ト拝察|仕 《つかまつり》候  |斯 如《かくのごとき》|事 即《ことすなわち》 忠義ニ有間敷《あるまじく》 只各々ノ保身ニテ御座候 [#地付き]愚拙儀  忠義ニ言藉《ことかり》テ不知《しらず》保身計略|仕 《つかまつり》候  然者《しからば》幕府御顛覆 公方様御災難之顛末 悉《ことごと》ク天誅ト存ジ候 愚拙四百石之禄ハ民ノ脂《あぶら》 御公儀八百万石|亦《また》民ノ汗 民ノ血ニテ御座候 爾来|仍之《これにより》 武士ハ武士タル多年ノ優位保チ罷リ越シ候 況《いわん》ヤ士農工商ノ分別等笑止千万勝手ノ理屈ニ御座有ル可ク早速天誅下リ 武士相撃ツ処ト相成リ候  即《すなわち》 黒船来航以来 攘夷之論 世ヲ蓋《おお》ヒ候経緯 悉《ことごと》ク幻影ニ御座候 幕府|開闢《かいびやく》以来二百六十有余年 各家門世襲之代ヲ重ネ 士道|喪《うしなわ》レ 保身汲々タル獣群ト相成リ果テ候  |乍 併《しかしながら》 蛮勇無能之獣中|唯一人《ただいちにん》 赫々《かくかく》タル武士之亀鑑|有之《これあり》候  重テ御《おん》願奉候  此者未ダ少年ニ御座|候得共《そうらえども》 此者之父者 誠之南部武士ニテ御座候  義士ニ御座候 [#地付き]拙者  御家老楢山佐渡様始メ御重臣御方々|指嗾《しそう》致シ 天朝ニ対シ奉リ干戈之儀ニ及《および》シ理由 只々此一如ニテ御座候  此者之父吉村輩 身命|不惜《おしまず》妻子息女ノ為ニ戦ヒ候 此行ヒ軽輩之賤挙ト言下ニ申及ビ候者 多々御座候ト雖《いえども》 拙者|熟々《つらつら》思料|仕《つかまつ》リ候処 此一挙 正ニ男子之本懐 士道之精華ト思ヒ至リ候    依テ拙者  吉村貫一郎之士魂 南部一国ト 取替申シ候 妄挙狂気ノ沙汰 譏《そしり》ハ万々覚悟之上ニテ御座候  |雖 然《しかりといえども》 向後|縦《よしんば》 御一新|目出度《めでたく》相成候テ 御一統之皇国御具現致シ候段万端相運ビ候得共《そうらえども》 万一 一兵ノ妻子息女ヲ扨置《さておき》テ滅私奉国之儀 以テ義ト為ス世ニ至リ候ハバ 必至《かならずや》 国破レ 異国之奴隷ト相成果テ候ヤト拙者|熟々《つらつら》信ジ奉候  本邦日本|者《は》 古来|以義《ぎをもつて》至上之徳目ト為シ候也 |乍 併《しかしながら》 先人|以意趣《いしゆをもつて》 義之一字ヲ剽盗《ひようとう》変改セシメ義道|即《すなわち》忠義ト相定メ候 愚也哉《ぐなるかな》 |如斯 詭弁《かくのごとききべん》 天下之|謬《あやまり》ニテ御座候 義之本領ハ正義ノ他|無之《これなく》 人道正義之|謂《いい》ニテ御座候  義ノ一度《ひとたび》喪失セバ 必至《かならずや》 人心|荒穢《こうわい》シ 文化文明之興隆|如何不 拘《いかんにかかわらず》 国|殆《あやうし》ト存ジ候 人道正義ノ道|扨置《さておき》テ 何ノ繁栄欣喜|有之《これあり》候也  日本男子 身命|不惜《おしまず》妻子息女ニ|給尽 御事《つくしたまえるおんこと》 断《だんじ》テ非賤卑《せんぴにあらず》 断テ義挙ト存ジ候 [#地付き]依テ拙者  後世万民ノ御為ト思ヒ定メ且《かつ》信ジ候テ  母国南部 父祖之地盛岡 郷土之山河|悉《ことごと》ク  御殿様始メ御家門 御朋輩 郷友皆々様 無論拙者一族郎党之命 御一新之皇国ニ捧ゲ奉候  幸ヒ城下焼亡ハ免レ候得共 爾後御国替御減封之罰状|免不得《まぬがれえず》 亦《また》 幸ヒ一死免レ候得共 皆々様賊徒之汚名蒙リ 辛酸|嘗《な》メ候ハン事必定ニテ御座候  |乍 併《しかしながら》 南部士魂之一滴 苦難之後ニ残リ候ハバ 其《その》一滴 北上之大河ト相成候テ 御一新之皇国 必ズヤ正道ニ導キ奉候  吉村貫一郎ノ常々申居候事  南部之桜ハ巌《いわお》スラ摧《くだ》キ咲クト [#地付き]拙者  其一言肝銘致シ候テ 非力乍ラ過分ノ精進|成遂《なしとげ》| 了《おわん》ヌ  省《かえりみ》テ斯様《かよう》始末 力ノ不及《およばざる》処ニ御座候得共 一個之努力精進ニ於テ一片之|憾《うらみ》 無之《これなく》候 巌割開花ノ春ハ不来《きたらず》ト雖《いえども》 死力尽シ候事 士道冥利ト存ジ居《おり》候  畏友吉村貫一郎君之最期 誠見事ニテ御座候  一死ニ臨ミテ五体|悉《ことごと》ク妻子ニ捧ゲ尽シ其亡骸 血一滴スラ不残《のこらず》 僅ニ死顔 涙|一垂《いつすい》ヲ留《とど》メ居《おり》候  幾度《いくたび》言ニ不尽《つくせず》  此者之父|者《は》  誠之南部武士ニテ御座候  義士ニ御座候  庶幾《こいねがわ》クハ御尊台 此少年御膝下ニ御|留 置給《とどめおきたまわ》リ御配慮御養育之程 [#地付き]愚拙  平伏合掌致候テ 依衷心《ちゆうしんより》 御願上奉候  義士之血脈 |何 日《いずれのひ》カ巌《いわお》ヲ摧《くだ》キテ万朶《ばんだ》之開花致候御事 夢幻之内ニ慶賀致シ奉候テ  此而《これにて》擱筆《かくひつ》致シ候         恐惶謹言  明治二年己巳二月八日 [#地付き]大野次郎右衛門 拝   江藤彦左衛門殿      御侍史 [#地付き]〈壬生義士伝 完〉 初出誌 週刊文春一九九八年九月三日号〜二〇〇〇年三月三十日号 単行本 二〇〇〇年四月 文藝春秋刊